天国と地獄
 

2025年11月20日更新

第269回 人生における「戦略」の重要性

前回からの続きで島国の話です。
日本と同じくイギリスも島国です。
しかし、イギリスと日本とではかなり様子が異なります。
それは、ドーバー海峡と対馬海峡(福岡の博多から釜山まで)の違いです。
私は、イギリスに30回以上行っており、
初めてのイギリス訪問は20歳の時でリュックを背負った超貧乏旅行でした。
その時はパリに降り立ち、パリから格安のナイトフェリーでドーバー海峡を渡りました。

思い浮かべて見てください。
ドーバー海峡を泳いで渡り記録を作る人はいますが、対馬海峡ではそんな話を聞いたことがありません。
なぜだと思いますか? 
それは、ドーバー海峡はまず距離が短く、それに加えて潮流が激しくないため、泳いで渡れるからです。
ところが対馬海峡は、距離があるだけではなく、すごく海流がきついので、人間は流されてしまいます。
人力で越えることはできません。
これが、イギリスと日本という島国の違いです。

日本は663年、大和朝廷の頃、朝鮮半島に出向いて海の戦いをしています。
“白村江の戦い”です。その時、日本は唐の海軍にやられて全滅しました。
それが恐怖となり、唐あるいは朝鮮が攻めてくるのではないかとおびえ、
防衛を強化しましたが、結局は攻めてきませんでした。
そう簡単には、来ることができなかったからです。
対馬海峡を渡るのはとても大変なことで、たとえば遣唐使などは半分くらい沈んでいます。
生還率は50%くらい。すさまじいですね。
対馬海峡を渡るのは、本当に大変なことだったのです。

実際、朝鮮半島から日本に流れ込んできた唯一の軍隊は、
歴史で知られている限りでモンゴルによる「元寇」だけです。
今から700年くらい前のことです。日本の歴史にとっては大事件でした。
ところがあれは、せいぜい博多の町を焼かれた程度で、少し“かすった”ぐらいです。
結果は日本の勝利でしたが、かすった程度でいまだに歴史上の大事件なのです。

中国や韓国は、そんなものではありません。
地続きですから、怒涛の数の騎馬兵が来て、皇帝は殺され、
男共は奴隷で連れて行かれるか支配されて、女、子供は好き放題されてしまいます。
国ごと乗っ取られてしまうのです。
そのくらいすさまじい攻防を繰り返しながら、今に至るのです。

私も最近知ったのですが、元(モンゴル)は実はインドまで攻め込んでいます。
インドのムガル帝国の初代皇帝は、モンゴル人なのです。
インドで初めてその話を聞いた時は、本当なのかとびっくりしました。
陸続きでは、騎馬軍団が乗り込んでくればあっという間に戦争になります。
いまなら戦車で、あっという間に流れ込んでくるのです。
一方、陸続きではない日本は、1回も侵略されたことがない国民です。

今回のコラムで皆さんに一番強調したいのは、「戦略」という言葉です。
人生においての自分の戦略、国家や企業においても一番大きな基本構想です。
どういうやり方で生き残り、発展していくのか。
一番大きな根本のやり方、それが戦略です。
日本人は小さな話はできますが、国家などのように大きな戦略の話になると、
途端にできなくなります。
私は、それが日本の大きな問題の一つだと思っています。

ただ、二つだけ近代日本で大成功した例があります。
それは、明治維新と日露戦争です。
詳しくは司馬遼太郎の幕末・明治維新の本をぜひ、お読みください。
『龍馬が行く』や、大村益次郎を描いた『花神』、日露戦争に関しては『坂の上の雲』を読むと、
日本の指導者やトップ等が当時、何を考えていて、どう行動したかがよくわかります。

司馬遼太郎が小説家になった最大の理由は、戦争です。
彼は太平洋戦争で満州に戦車隊の小隊長として行きました。
当時、大学を出ている人はすぐに少尉などの士官になりました。
大学を出ていないと、普通の一兵卒になります。
彼は、大阪外国語学校でモンゴル語を勉強しており、
たまたま戦車隊に配属されて、そこである噂を聞きます。
ノモンハン事件のことです。
ノモンハン事件とは、満州とソ連の国境において、日本軍とソ連軍が激突した小規模紛争です。
「事件」というより、本当の「戦争」です。
それで、日本は完敗しました。

ソ連にかろうじて勝った日露戦争の時は、騎兵でした。
日本軍の騎兵は、“日本騎兵の父”とも言われる秋山好古が強くした世界に誇れるものでしたが、
そこからわずか30年後、昭和初期のノモンハン事件の頃になると、馬は戦車に変わってしまいます。
当時、日本の戦車はとても精巧にできていました。
エンジンが空冷でできた、世界でも珍しいタイプでした。
しかし、車体が小さくて装甲が薄く、大砲も小さかったのです。

逆に、ロシアの戦車や中国の戦車は武骨でよく壊れ、
たとえば、戦車が100台あれば10台はすぐ壊れるような有様でした。
しかし、彼らはそんなことはあまり気にせず、
代わりに戦車で一番大事な部分である装甲の鉄板を厚くし、大砲を大きくしたのです。

そんなソ連軍の戦車と日本の戦車が戦場で出会い、ソ連の戦車が砲塔を向けた瞬間、
もう日本の戦車は“棺桶”になったのです。
日本側がいくら打ってもソ連の戦車は貫通しませんが、
ソ連側が打てば日本の戦車に一発で貫通してしまうのです。
だから彼らは、自国の戦車が100台のうち10台壊れても気にしなかったのです。

ノモンハン事件で、日本軍は完全にやられてしまいました。
日本軍の上層部は、そのことを機密事項として情報を隠蔽しました。
日本の映画でも出てきますが、最後は司令部から参謀に伝えて、
各現地の司令官の机の上にピストルを置くのです。
ピストルで死んで責任を取り、一切を黙っていろという意味です。

司馬遼太郎はノモンハン事件には参戦していませんが、
後でその現場を知る看護兵から証言をとっていました。
戦場から、あまりもひどい損傷をした日本人の遺体が無数に運ばれてきたそうです。
看護兵でも直視できないような遺体で、本当にひどい戦いでした。
そのことを、日本軍は隠したのです。

それだけではなく、上記のように大敗した戦車の改良もしませんでした。
それを受けて司馬遼太郎は、「これは軍隊ではない」と悩んだそうです。
そのまま同じ戦車で戦い続けたら、全滅するだけです。
なにしろ、ソ連の戦車に見つかりその砲塔がこちらを向けば、
日本の戦車は棺桶になってしまうのですから。

日本人は、日露戦争まではすさまじく優秀でした。
しかし、わずか数十年で全く違う民族に変わってしまいました。
その謎から、司馬遼太郎は「日本人とは何なのか、日本の歴史は何なのか」と悩み、
小説に書いたのです。

司馬遼太郎は、太平洋戦争を生き残りました。
満州にいた関東軍司令官が日本に戻ったことで、司馬遼太郎も日本へ戻れたからです。
今の栃木県の小山に陸軍の戦車部隊は戻り、そこで敗戦を迎えたのです。

私は、世界各国を周って様々なものを見聞きし、S
歴史を検証しながらその時代を考えてきたが、
誰が、どんな土地で生きても、戦略を持たない人生は空しく、
そして生きづらいものとなる。
自分の人生に対して、常に「戦略家」でいたいものである。
         (2025年6月 イタリア・ベネチアにて)