天国と地獄
 

2021年12月6日更新

第185回  食の思い出<子供のころの食生活>

今回は、「食」についてお話ししたいと思います。
昔から「医食同源」という言葉があります。
この言葉は中国の「薬食同源」という思想を元に日本で作られた造語ですが、
簡単に言うと私たちが毎日食べている物がその人の健康を決める、
という考え方ですね。もちろん食が健康の全てではありませんが、
よく考えてみると私たちは人間である前に生き物であるわけです。
生き物というのは結局、「空気、水、食べ物」この3つで生きているのです。

特に食べ物は、生き物の体を形作り、
正常に機能させ健康でいるための非常に大きな要素です。
となれば、私たち人間も何でもいいから食べれば良いというのではなく、
なるべく良い素材の物、変な物質が入っていない物、
そして美味しい物を食べたいものです。
もちろん、あまり高い物に手を出してしまうとお金が続きませんので、
コストとの兼ね合いを考えながら、
可能な限り良い物を食べる――そういうことを考えながら、
今回は私の「食」に関する嗜好(趣味)も含めてお話して行きたいと思います。

私は今、66歳です。
昭和20年の8月に日本が戦争に負け、その後5年間は戦後のドサクサがあり、
昭和25年には朝鮮戦争が勃発して、ようやく日本の復興が始まって4~5年経った、
昭和29年の12月9日に生まれました。
あとひと月もすれば、昭和30年代の高度成長期に入るという、そういう時です。
終戦からまだ10年も経っていなかったわけで、
戦後の傷跡を感じさせるいろいろな物や景色が、そこかしこに残っていたのです。

たとえば、駅などには傷痍(しょうい)軍人という、
太平洋戦争で生き残ったけれど怪我をして手がない、足がない
というような人たちが大勢いたのです。彼らは昔の軍人の服を着て軍帽を被り、
缶を置いて座っているのです。
彼らは手足がないため、めぼしい仕事にもつけず、
また今と違って生活保護などもほとんどない頃だったので、
そうして物乞いをするほかなかったのです。
私は子供の頃に見た、そういう光景を今でもよく覚えています。

そのような時代で、しかも私の家は裕福ではありませんでしたので、
高級な物はそれほど食べられませんでした。
たとえば、今でも覚えていますが、
「すき焼き」などは年に1回か2回しか食べられませんでした。
今では毎日スーパーに並ぶ牛肉も、当時は“高嶺の花”でしたから
年末のクリスマスか誕生日くらいしか食べられないもので、大のご馳走だったのです。

それから、今と全く違うのが「バナナ」ですね。
バナナは当時高級品で、私が小学生の頃までは
今の値段で1本1,000円か2,000円くらいしたのではないでしょうか。
しかも、当時は小ぶりな「台湾バナナ」がメインでした。
もちろんバナナも年に1回か2回しか食べられず、私にとってはとんでもない高級品でした。

そんな中で、庶民の食べ物の代表選手のひとつが「コロッケ」でした。
小学校1年生くらいの時だったでしょうか、
おつかいで公団の中にあったスーパーマーケットによくコロッケを買いに行ったのですが、
その時のコロッケが1個5円だったのを覚えています。
今では80円くらいするでしょうか。

あと、納豆はよく食べました。
関東は納豆食が盛んで、比較的入手しやすかったため、
私は基本的に納豆で育ったようなものです。
納豆は当時最大のたんぱく源の一つでしたし、
また自宅も水戸から近かったので父親がたまに水戸に行っては“水戸納豆”という、
細長くて納豆がそのまま藁に入っているものを買って来てくれたものでした。
今とは違ってにおいも強く、そんなに美味しいものではなかったのですが、
当時の私にとってはまさにご馳走でした。
今の納豆は、味も風味も改良され、本当に美味しくなったと思います。

また、母親があまり料理が上手くなかったというか、
まあ、はっきり言ってしまうと料理下手だったというのをよく覚えています。
千葉県柏の小学校は給食がなかったので、毎日お弁当を持って行くのですが、
母親が作るお弁当は色どりもなく、時には納豆がそのまま入っていたりしました。
母親からすれば、家が裕福ではなかったので高い食材は買えずにそうしたのだと思います。
天ぷらも下手で、おかげで私は天ぷらが大嫌いでした(今は大好きです)。
学校では、色どりもよくきれいに作られた他の子たちのお弁当とのあまりの違いに、
私は恥ずかしくて人に見られないように弁当を食べていました。
もっと感謝して母の手作り弁当を食べれば良かったと思います。

一方、父親はそんな母親とは正反対のグルメというか趣味人というか、
お金はなかったもののそれなりに食を楽しむ人でした。
その父親の影響からか、私も割と若い頃から食には興味がありました。
20歳の時に初めてヨーロッパに行った時は食うや食わずの貧乏旅行だったものの、
帰国後には塾を経営してそこそこのお金がありましたので、
その2年後にヨーロッパに行った時はそれなりの店に行き、
なるべく安くて美味しい物やいいレストランを探したりしました。
それ以来、いろいろな国を訪れた際には労をお金も惜しまず、
必ず現地のおいしい食べ物やレストランを探すようにしています。

もともと食べ物に関心の高かった父とは、
世界各国を旅しておいしいものを食べ歩いてきた。
早くに亡くなってしまった母のことも連れて行きたかったと、
いつも思っている 。
(2013年 オーストリア・ウィーンにて)