天国と地獄
 

2021年11月25日更新

第184回  決断の時<下>

そして、次の決断は25歳の時に毎日新聞社に入社したことです。
実はその頃、学生ビジネスとして塾を経営していまして、
下手なサラリーマンより稼いでいました。
大学も留年を繰り返しており(大学は7年までいました)、
安易に生活しようとすれば、そのまま生活はできたわけです。

しかし「一度、世の中に出て厳しい風にあたろう!」と思い、
毎日新聞にカメラマンとして入社したのです。
4月に入社してすぐに大阪に配属になり、独身寮に入りました。
万博会場の近くの北千里の方でした。

ところが、新聞社に入って3週間で私はがっかりしてしまったのです。
私が考えていた「ジャーナリズム」とは全く違っていたからです。
特に、カメラマンはただ経済部や社会部、学芸部などから
「この写真をとってきてくれ」と依頼された写真を撮ってくるだけなのです。
私が考えていた本当のジャーナリズムとは、全くかけ離れていました。

そして、こんなところにいても勉強にならないのではないか、
自分のしたいことができないのではないか、
と短気を起こして、入社して3週間で辞めようとしたのです。

そんな時、たまたま独身寮にいた溝田さんという人に相談しました。
彼は毎日新聞にあった農業雑誌「農業富民(ふみん)」という、
おそらく大正時代からある古い農業系の雑誌だと思いますが、
そこの編集長だったと記憶しています。
結婚はしていたはずですが、単身赴任で同じ独身寮にいたようでした。

溝田さんとは、よく社員食堂で顔を会わせていて、
とても良い人でしたので相談してみたのです。
すると、会社を辞めることを止められました。
「関君ね。君、確かに仕事はそんなに面白くないかもしれないけどね。
でも、毎日新聞を越えられる位の実力を付けてから、実力を持ってから辞めなさい。
最低でも、4年か5年はいなさい」と。
その溝田さんの言葉があって、実際には25歳~38、39歳までの14年間、毎日新聞にいました。

その間、いろいろな人脈を作り、米軍の取材をし、勉強もし、
準備万端で辞めることができたのです。
これは、自分の決断における貴重なアドバイスでした。
相談した相手が溝田さんで本当に良かったと、今でも感謝しています。

そして、入社から14年目にしていよいよ毎日新聞を辞める時、
ほとんどの人がそのことに反対しました。親も反対しました。
新聞社の場合、一介のカメラマンで辞めて食って行くなんて、
しかもカメラマンとしてではなく、独立系の他の仕事で会社を興して食って行くケースは
基本的にほとんどないことです。毎日新聞社創業以来の珍事だったかもしれませんね。

それほど、傍目から見れば無謀なことですが、不思議なことに当時の私は
自分のジャーナリズムや自分の本当の考えを表現するためならもう死んでもいい、
最悪、失敗したら橋の下で……くらいに思っていたのです。
女房と子供がいたにも関わらずです。

毎日新聞は給料がすごく安くて、朝日、読売新聞を100とすると60くらいでしたから、
これくらいの給料なら独立してもぎりぎり稼げるのではないか、という考えもありました。
そして、独立を決めた最大の理由は、当時、徳間書店から出版した単行本
『大不況サバイバル読本』がすさまじく売れていて、
そこでちらっと書いて募集した会員制のクラブ「財政問題調査会」に
申し込みが何百人と殺到していたことがありました。

9月にその本が出版されて、
10月か11月頃に「うぁ~っ!」と人が集まってしまったのです。
ですから、毎日新聞を辞める前にその勉強会を始めていました。
最初は、日比谷の日本記者クラブのプレスセンターの会議室で開催しました。
ただ、新聞社を辞めてそこは使えなくなりましたので、
その後は普通のホテルを会場にしました。
ですから、全く当てがなかったわけではなく、
ある程度先の見通しがたっていたから辞めた、というのが実際の話です。
38、9歳の時の決断です。

そして、その次の大きな決断は「株式会社 第二海援隊」を興したことです。
これは、40歳の時のことでした。
当時の私の読者やファンから資本金を募ったのですが、かなりの額が集まりました。
今思うと「何でこんなことをやったのだろう」と、とても不思議に思います。
当時の私は、経営も全くわからず、経験もありませんでした。
でも、何かに後ろから押されている感じがあったのです。
運命と言いますか……。
私は宗教は信じていませんが、神様がいるとしたら神様が後ろから押していたのでしょう。
「お前がやりなさい」というように。

不思議なことに、私は10歳、20歳、30歳、40歳、50歳と、
人生の10年毎に大きな変化がありました。
まず10歳の時には、突然、学校を転校することになり、
教科書も変わったために学校の勉強に全くついていけなくなってしまい、
それを母親が心配して、近所の同じ国鉄の公団に住む頭の良い女子大卒の奥さんに相談して
家庭教師をしてもらい、そこで初めて勉強のやり方を教わって、
それまでほとんどしたことがなかった勉強をするようになりました。
もし、あの指導と勉強の習慣がなかったら、私はそのまま千葉の柏にいて、
たぶん高卒か何かでどこかの工場にでも務めていたかもしれず、
今とは全く違う人生だったかもしれません。

そして、20歳の時にヨーロッパに行きました。これも決断ですね。
前回のコラムでお話ししましたが、
大学で立ち上げた「宇宙船地球号を守る会」が
実は内部の意見対立で上手く行かなくなったのです。
私は会のトップでしたから、かなりのショックを受け、
人間不信になり、大学を辞めようかと思った程でした。
高校の時に大きな決断をし、早稲田大学の政治経済学部の政治学科に入り、
環境問題に取り組む会を作ったのです。その理想が壊れてしまったわけで、
もう呆然としてやる気もなくなってしまったのです。

そんな時に、たまたま高田馬場の芳林堂書店で手にとった1冊の本が私を変えました。
「ヨーロッパ無銭旅行」というような本で、バックパッカーの話です。
それを読んで心機一転、「人生を変えてやろう!」と思ったのです。
それが、20歳の時です。超貧乏旅行で乞食みたいな旅ですから、命がけです。
リスク管理は、ここで覚えたのかもしれません。
人間として、強くたくましくなったのです。

30歳の時は毎日新聞社で働いていた時ですが、独自にアメリカのペンタゴンに交渉し、
アメリカ軍の最高機密、核戦争司令部「NORAD」を取材しました。
その経験により、私は普通のカメラマンではなくなったと言えます。
その写真を雑誌社に売り込みに行き、
それをきっかけに集英社の編集者・中村信一郎氏に出会い、
90年の株の暴落の時「株の取材をしてみないか?」と誘われ、
その後、経済に転向したのです。
経済ジャーナリスト・浅井隆の誕生は、
その「NORAD」の取材をきっかけとしたものだったのです。

40歳の時には第二海援隊を作って出版社を興し、
自分で経済の本や情報を発信して行く基礎を作りました。
50歳の時には、その第二海援隊も10年経って大方いろいろなものが固まりました。
60歳にして、ボランティア活動をやろうと
「CHEFUKO(チェフコ)」というボランティア団体を立ち上げました。

このように、全て10歳ごとに新しい環境へと変化しているのです。
もちろん、その裏には数々の決断がありました。
皆さんも、正しい決断をするために死ぬほど悩むことがあると思います。
私もいろいろな苦しい経験をして、悩みました。

もし、大学時代「宇宙船地球号を守る会」が内部分裂した時に
そのまま大学を辞めたり鬱にでもなっていたら、今の私はありません。
思い切って日本を離れ、ヨーロッパに半年間行くことで見聞を広げ
英語もある程度話せるようになりました。
これは大変大きな経験でしたが、その道を20歳のその時に決断したわけです。

皆さんも、決断する時、苦しい時は、
やはり発展的に自分を大きく羽ばたかせるような決断をしてほしいと思います。
私の選択した道も参考にして頂けると幸いです。

最初のヨーロッパ半年間の遊学から帰ってきた頃の家族写真。
私の人生の最初の大きな決断は、
20歳でのヨーロッパ半年間遊学を決めたことだった 。

(1976年 茨城県取手市にて。左から2人目が私)