天国と地獄
 

2021年11月15日更新

第183回  決断の時<上>

人生には何度も決断の時があります。
右と左どちらの道に行くべきか、どこの学校に入るべきか、どこの会社に就職すべきか、
会社を辞めるべきか、あるいはこの人と結婚すべきかなどいろいろな選択がある中、
他人のアドバイスを受けたりもしますが、最終的には自分の判断で決断することになります。
そしてそれが後々、その人の人生を決定して行くのです。
今までのコラムの中で少しずつお話ししてきたかもしれませんが、
今回は私の子供の頃から始まって現在まで、
その「決断」をした時の様子についてお話ししてみたいと思います。

まず初めに、これは「決断」ではないかもしれませんが、
私という人間がどんな人間かを知っていただくためのエピソードをご紹介しましょう。
確か幼稚園の頃、5歳くらいだったと思います。
物心がついて、少し自分なりの考えを持った頃です。
たまたま父親と二人で上野のアメヤ横丁に行ったのですが、
そこで父親と口論になってしまったのです。

おそらく、父親がちょっと理不尽なことを言ったのでしょう。
小学校にも行っていない幼稚園児の私はカンカンに怒って、
父親を置いて、お金も持っていないのに一人でとっとと上野の駅の方に小走りし、
ガード下の横断歩道を渡り、駅の改札のところまで行ったのを覚えています。
父親が真っ青になって追いかけて来て謝ってくれて、
私も機嫌を直し二人でアメ横に戻ったということがありました。
非常にいじっぱりで頑固で、一度言い出したら言うことを聞かない子供だったようです。
父親は、随分慌てたと思います。

そういう私が大きな「決断」をし、そしてその後の人生を全く変えた、
という出来事が高校時代にありました。
私は小学校、中学校は普通の公立に通っており、
高校は早稲田大学高等学院という、早稲田大学の付属高校にたまたま受かったのです。
そこは、早稲田大学の理工学部に行く生徒を育てるための学校でした。
ですから、普通に学内の試験を受けていれば
よほどのことがない限り早稲田の理工学部に行ける高校だったのです。
当初、私もそのつもりでした。父親も国鉄の通信や信号関係の技術職で働いていましたので、
自分の息子を理工科系に行かせようと思っていたのでしょう。

それが、高校2年の秋くらいに転機が訪れました。
私は本が好きでしたので、土日はよく本屋に行っていました。
当時は「水俣病」や「イタイイタイ病」など、公害問題についてかなり騒がれ始めていた頃で、
たまたまそれについて詳しく書かれた本を見つけたのです。
『公害原論』という本だったでしょうか。
それを読んだ時、ものすごくショックを受けて、
このままでは人類は環境問題と公害で滅びてしまう、と考えたのです。

そして私は、決断しました。
このまま早稲田の理工学部に入ってしまったら、公害を垂れ流す側に回ってしまう。
私は、それをストップする側に回りたいと。
今思うとあり得ませんが、「政治家になろう」と思ったのです。
そんな簡単になれるはずがないのに、単純にそう思ったのです。
若かったですよね。

それで、早稲田の政治経済学部の政治学科に入ろうと思ったわけです。
ところが、早稲田の政経の政治に入るためには学内でものすごく厳しい試験があり、
入るのはかなり狭き門でした。高等学院から、数人しか入れないと言われていたのです。
しかし、私としては絶対に政経の政治に行きたいわけで、
理工学部に行く資格を失っての背水の陣を迫られたのです。
かなり、きわどい危険な賭けでした。
父親に言えば絶対に反対されますので、父親にも母親にも一切相談しないで自分で決断しました。
そして、理工学部に行くための資格を失ったことを父親に事後報告したのですが、
いまだにあの時の父親の落胆した顔は忘れられません。
その後、それこそ必死で勉強して、早稲田の政経の政治に受かることができました。
ですから、大学の1、2年の時は本当にうれしくて楽しくてたまりませんでした。

大学1年の時は、既存のクラブや研究会にいくつか入り、
研究会などで人を集めるにはどうしたらよいのかを勉強し、
大学2年の時に『宇宙船地球号を守る会』というのを立ち上げました。
親友の菅原と二人で、早稲田の7号館の図書館の前で大きな立て看板を構えて勧誘しました。
ユニークな名前ですが、当時は「宇宙船地球号」という概念はまだ珍しかったのです。
地球とは、とてつもなく巨大な星ではなく実は小さな宇宙船みたいなもので、
自分たちが壊したらお終いなのだ、という概念です。
それをもとに会を作りました。

いずれにしても、この大学入学の時に親にも相談せずに
自分の進路・人生を変えるぐらいの決断をしたのが、最初の決断だと思います。
16~17歳のころですね。

大学に入学してすぐでしたが、1年の夏の試験中の7月に母親が急死し、
ものすごくショックを受けました。
その時、母の喪失感や様々な思いを抱えながら「夏休み、どうしようか……」と思い、
以前このコラムでご紹介したように広島と長崎に一人旅に出たのです。
そして、野中先生という恩人に出会うのですが、
この“旅に出る”ということも大きな決断で、その後の私の人生を変えたと思います。

親友の菅原と二人で立ち上げた『宇宙船地球号を守る会』。
菅原とは今でも時々連絡を取り合う交流が続いている。
     (1973年 東京・早稲田にて)