天国と地獄
 

2021年11月5日更新

第182回  大村益次郎の功績<その3>

その後、村田蔵六(大村益次郎)は長州に戻り、長州藩士になります。
今で言えば長州藩は“過激派”ですから、
幕府は長州藩を処罰するために「長州征伐」を起こします。
第二次長州征伐の際には総参謀として軍を指揮し、幕府軍を壊滅させました。
その時に長州藩は、村田蔵六という名前ではまずいということで
「大村益次郎」という名前に変えさせ、正式に武士にします。

ただ、皆からは「あいつ、オランダ語ができるかもしれないけど、
鋳銭司村(すぜんじむら)の単なる村医者だろ?」くらいに思われていました。
唯一、桂小五郎だけは「この男には、とんでもない軍事的才能がある」と見抜いていました。

第二次長州征伐では、芸州口、石州口、大島口、小倉口の
四つの国境で幕府軍と長州軍が戦ったので「四境戦争」とも言われます。
幕末の最後の頃ですから、志士たちも多くが死んでしまい人材が不足していました。
そこで大村益次郎は、石州口方面の実戦指揮を買って出ました。

出陣の時、普通、総大将というのは鎧兜をかぶって馬に乗り立派な格好をしているわけですが、
大村益次郎は馬に乗れません。
人々はその隊列を見て、「大将はどこにいるんだ?」と探しました。
すると、兵隊から少し離れた後方から農民がかぶるベトナム帽のような編み笠を被って
普通の木綿の服を着て杖か何かを持った粗末な格好の男が一人、テクテク歩いてきます。
「あれが総大将か? こりゃダメだ。この戦争は勝てるはずがない」と誰もが思ったそうですが、
結果は合理的戦略をもって見事に勝利を収めたのです。

大村益次郎は不思議な才能のある人でした。
ある時、適塾の緒方洪庵から「岡山の石井宗謙という医者のところに行ってくれ」と言われ、
住所だけ渡されます。初めて行く町だと、普通は地元で道を聞いたりしますね。
今のように正確な地図があるわけでもないので、聞かなければわかりません。
ところが彼は、何も聞かずにふら~っと行って、「あ、ここだ」とわかったそうなのです。
土地勘、あるいは地理勘とでも言いましょうか。
彼にはそういう特殊な才能があったようですが、それは軍事にとってはとても大事な能力です。

長州征伐の際、大村益次郎は弟子たちに梯子(はしご)を持って行かせました。
家の屋根に上って敵の陣地を見るためです。
ある時は、2~3人で農民の格好をして農民に紛れて敵の陣地の近くまで行き、
敵のことを全て正確に把握したのです。
「どうすれば勝てますか?」と問われると、
彼は「(最新式ライフル銃である)“ミニエー銃”が何千丁かあれば勝てる」と答え、
必死になって銃の入手に努めました。
当時は、まだ遅れた藩などは戦国時代の火縄銃を持って戦っている時代で、
ほとんどの人が「ミニエー銃」を知りませんでした。
その最新式の銃を坂本龍馬の仲介で手に入れ、戦いに勝ったのです。

その後、官軍により江戸無血開城がなされると、
不平不満を抱えた旧幕府方の残党が各地で抵抗を続けました。
特に、上野の寛永寺に立てこもった彰義隊(しょうぎたい)には手を焼きます。
彰義隊は数千名の勢力で、官軍の何倍もいるわけです。
これを、どう鎮めるか。
一番の問題は、彼らがヤケになって江戸に火をつけてしまうことです。
そうなれば、江戸は終わりです。
そのような中、大村益次郎が新政府軍を指揮します。

彼は、江戸の火事の歴史を徹底的に調べました。
江戸の初期、本郷丸山の本妙寺で供養のために焼いた振袖が舞い上がり、
大規模火災となった「明暦の大火」など、
江戸で起きたあらゆる火事を調べ上げたのです。
風がこう来たらどう燃えるかなど、実際に起きた火事を科学的に検証しました。
そして、梅雨の時期、雨が降る日に宣戦布告します。

その日の朝、現在の二重橋前に集められた官軍は、兵隊は数も少なく、
皆、もう何か打ちひしがれたような姿です。
最も強いと言われた薩摩藩の兵が、今の広小路から突撃するものの、
正午になっても埒(らち)があきません。誰もが「もう無理だ」と思いました。
「夜になれば、数で勝る彰義隊が方々に火を放ち、江戸城は包囲されるだろう。もう、お終いだ」と。

しかし、大村益次郎だけは違いました。彼には勝算があったのです。
午後1時頃、大きな床柱のところで腕組みをしていた彼は、
「そろそろいいでしょう」と言い、アームストロング砲という強力な大砲による砲撃を行ないました。
イギリス軍でもまだほとんど使っていないような、最新鋭の大砲です。
彼は、その最新鋭の大砲を佐賀藩が持っているのを知っていて、
「ぜひ、貸して欲しい」と佐賀藩に直々に頼み、調達しました。
それを彰義隊がいる上野寛永寺に向けて、今の上野公園の反対側(不忍池の反対側)の
現在の東大構内(当時は加賀藩邸内)に極秘で据えつけました。
そして、“ここぞ”というタイミングで飛ばしたのです。

当時は、不忍池を飛び越えて飛んでくるような強力な大砲などありませんから、
彰義隊もそんなことは全く想定していません。
思いもよらぬ砲撃に、彰義隊は午後3時頃には退散しました。

その30分前の2時半頃、物見をする江戸城の富士見櫓(やぐら)に上って
戦況を見守っていた大村益次郎は、時計を見ながら
「黒煙が上がった。彰義隊が負けて、自分たちの建物に火を放ち逃げているのだろう」と言います。
しかし、当時の戦況を見れば誰も信じません。その30分後、馬で走って来た伝令が、
「勝利! 勝利! 勝利!」と上野が陥落したことを伝えました。
全てが彼の計算通り、予測通りでした。
不利な形勢にもかかわらず、わずか1日で鎮圧してしまったのです。
彼が科学に基づく合理主義者だったからこそ成しえた奇跡、と言えるでしょう。
彼は、このような天才的な軍師だったのです。

大村益次郎は、この上野戦争の軍議で薩摩の海江田信義と対立します。
大村益次郎は、京都の新政府から「軍防事務局判事加勢」という肩書を与えられていましたが、
この肩書は曖昧で最高司令官ということではありません。
大村益次郎は海江田信義に対し、
「西郷の部下のあなたは一応軍師などと言っているが、ただの志士だ。
軍事のことなど何もわからない」などと言ってしまいます。
海江田信義は激怒し、恨みを買った大村益次郎は暗殺されてしまいます。

ただ、彼が指揮していなかったら彰義隊を鎮圧することはできなかったでしょう。
桂小五郎も言っています。「大村益次郎がいなかったら、明治維新はなかった。
内乱状態に陥ったか、幕府がそのまま残ってしまい、
今のような国のかたちにはなっていないだろう」と。
もちろん、明治維新は多くの志士の存在を抜きには語れません。
吉田松陰のような思想家がいい意味で煽り、過激派が生まれ、幕府を揺さぶり、
最後は、高杉晋作や大村益次郎のような軍隊を指揮できる人間が登場し仕上げたわけです。

司馬遼太郎の「花神」という小説は、
中国語で花咲爺(はなさかじじい)という意味です。
最後に灰を撒いて花を咲かせる、つまり役割を終えて死んで行ったということです。
大村益次郎と西郷隆盛は当時の二大英雄と言えますが、
大村益次郎は西郷のことを全く理解できなかったようです。
大村益次郎の思考は、人間の思想や感情、情念、
などというものにあまり向いていませんから当然かもしれません。

ただ、唯一理解していたことがあります。
大村益次郎は死ぬ間際、部下などに
「将来、西から足利尊氏のような者が出てきて、反乱を起こす」と語っているのです。
もちろん、西郷隆盛のことです。
西郷隆盛が「西南戦争」を起こすことを予言していたわけです。
そのため、江戸ではなく大阪に軍隊や兵器などの装備を準備しておかなければダメだと言い、
「大阪鎮台」という陸軍部隊を作り、西南戦争の勝利につなげています。

現在、大村益次郎のことを詳しく知る人は多くはないでしょう。
戦争には最先端の兵器や武器が必要だし、補給体制などの兵站(へいたん)、
さらに戦略、情報の重要性を彼は人一倍理解していました。
太平洋戦争時の日本陸軍とは対極にある、
彼のような徹底した合理主義者が生きていれば、
日本の陸軍もかなり違った姿になっていたことでしょう。
靖国神社には、「日本陸軍の父」と言われ
近代的軍隊の基礎を作った大村益次郎の巨大な銅像があります。

現在の私たち日本人の生活があるのは、このような幕末から明治維新にかけての
大村益次郎をはじめとする多くの人々の活躍があったからこそです。
「花神」は、司馬遼太郎の小説の中でもとても面白い小説の一つです。
大村益次郎のことを知る上でも、ぜひ多くの人に読んでいただきたいと思います。

私たちが他国の属国にも植民地にもならず、
国が分断されることもなく生活できているのは、
幕末に命をかけて戦った人々のおかげであることに感謝し、
その恩恵を後世に繋げなければならない。
       (2021年6月 東京・御茶ノ水にて)