天国と地獄
 

2021年10月25日更新

第181回  大村益次郎の功績<その2>

村田蔵六(大村益次郎)は、咸宜園で漢学を学び、
その後、緒方洪庵が大阪に開いた私塾「適塾」(適々斎塾)入り、蘭学、医学を学びました。
適塾には、一風変わったしきたりがありました。
塾生全員に畳一畳のスペースが与えられ、そこに自分の布団や机を置くのです。
入塾すると、最初は階段の脇のスペースを与えられます。
ここは、他の塾生が夜中にトイレに行く時に踏みつけられてしまうのです。
成績が上がるに従い、だんだん良い場所に移り、
最後には奥にある一番良い場所を与えられます。
少しでも快適な場所を得ようと、皆が真剣に争うのです。
定期的に試験が行なわれ、最上位に上りつめると「塾頭」になります。

塾生は入学金や毎月の在塾費などを支払わなければなりませんでしたが、
塾頭になれれば将来の生活は約束されたも同然です。
適塾の塾頭ともなると、大きな藩から300石などの高禄で誘いが来ると言われました。
今で言えば、有名大企業の役員クラス並みの年収2,000~3,000万円という破格の待遇で、
ヘッドハンティングされるようなものです。

江戸時代に、武士階級以外の人間がひとかどの人物になろうとしたら、
医者か、剣術の師範になるか、道はほぼその2つしかありませんでした。
そういう中で、村田蔵六は非常に頭が良かったのでしょう。
あっという間に塾頭になってしまいます。
適塾は、大阪の金融街、証券取引所がある北浜の裏の方にあります。
私も3、4回行ったことがありますが、
今でも彼らが生活したままの当時の姿で残っています。
大阪大空襲があったにもかかわらず、建物が当時の姿のままなのです。

その後、父親が歳を取って病気がちになり、
「戻って来て(村医者を)継いでくれ」と言うので、
仕方なく鋳銭司村に戻り、村田良庵と名乗ります。
歌舞伎の名前を代々継いで行くのと一緒で、
村田良庵というのは村田家で代々継がれている名前でした。

村に医者は彼一人です。患者は皆、彼を頼ってきます。
ところが、彼には愛想というものが全くありませんでした。
医者にもある程度、愛想は必要ですよね。
往診中にあぜ道で村のお百姓さんと出会い、
向こうが「お暑うございます」と彼に挨拶すると、
振り返って「夏は暑いものです」と答えるといった調子です。
普通なら「暑いですねー、早く秋になって欲しいですね」などと言えばいいものを、
彼は「夏は暑いものです」と返すわけです。
もちろん、冬に「お寒うございます」と言われれば「冬は寒いものです」と返します。
こんな調子ですから、村人からは「何だ、あいつは?」となり、評判が悪かったようです。

また、彼は異常なほどの合理主義者でした。
風邪をひいた患者が来ると、
「あ、これは風邪ですね。3日も寝ていれば治るから」と言って薬も出しませんでした。
患者としては、何かしら葛根湯のような薬を出して欲しいものです。
ですから「あの医者は薬も出してくれない」という感じで、
次第に誰も寄り付かなくなり、医者としては振るいませんでした。

そんな矢先、ペリー率いる黒船が来航しました。
世の中が騒然となる中、ただ単に「外国人を斬ってやっつけてしまえばいい」
「日本に入れるな」という尊王攘夷の考えを持つ人ばかりではなく、
中には開明的な藩主もいました。

薩摩藩の島津斉彬、宇和島藩の伊達宗城、土佐藩の山内容堂、越前福井の松平春嶽、
この4人を“幕末の四賢侯(しけんこう)”と言います。
その中で宇和島藩が、
「ぜひ、黒船を作りたい。どこかにそのような知識を持っている人物はいないか?」
と探していたところ、
「適塾の元塾頭で村田蔵六という者が今、長州の片田舎にいます」と聞きつけます。
そして、正規の武士ではありませんが「お雇い」という名目で召し抱えられることになりました。
そこで、船だけにとどまらず兵学書、西洋の軍事の本を翻訳させたのです。

そうこうしているうちに、世の中では蘭学、西洋の学問の需要が非常に高まって行きました。
蘭学者でも軍事関連の本を翻訳できる人は少なかったので、
今度は幕府に呼ばれることになります。
彼も、江戸に行きたいという気持ちがあったので、
宇和島藩にも仕えながら結局幕府の蕃書調所
(ばんしょしらべしょ:1856年<安政3年>に発足した江戸幕府直轄の洋学研究教育機関)
教授方手伝となり、旗本(​将軍直属の家臣)になりました。

しかも、旗本でも格が上の方ですから長州の殿様(藩主)と同格です。
ただ、出身地である長州藩ではそれほどの人材が自藩内にいたとは知りません。
そうこうしているうちに幕末の動乱になり、
長州藩の木戸孝允(桂小五郎)がたまたま村田蔵六の噂を聞きつけ、
「そんな優秀なやつが、この長州にいたのか!」と、
長州藩に掛け合って長州藩士として引き抜くのです。
この二人の出会いがなかったら、明治維新は起こらなかったかもしれません。

村田蔵六(大村益次郎)は、高杉晋作の奇兵隊にも採用された
軍事関連の本の翻訳も手がけた。
軍略家としても才高かった彼は、木戸孝允(桂小五郎)に
引き上げられることにより、その能力を発揮して行った
       (2021年6月 東京・御茶ノ水にて)