今回の話題は、歴史好きの私が興味を持っている人物の一人、
大村益次郎を取り上げたいと思います。
大村益次郎の名を知らない人も多いかもしれませんが、
彼がどういう人物で何をしたかということは知っておくべきです。
私たち日本人が今、先進国、民主主義国家の一員として幸せな生活を送れるのは、
大村益次郎のお陰と言っても過言ではありません。
それほどの人物なのです。
彼の経歴は独特です。
彼は戊辰戦争で活躍し、明治維新の立役者なのですが、
元々は志士とは無縁の生活を送っていました。
幕末には、西郷隆盛や大久保利通、木戸孝允(明治維新前は桂小五郎)、坂本龍馬、
中岡慎太郎、井上馨、伊藤博文(長州藩士時代の通称は伊藤俊輔)、久坂玄瑞、吉田松陰など、
挙げればきりがないほど多くの志士たちが京都を中心に活動しました。
尊王攘夷を唱え、最後は江戸幕府を倒し、明治維新が成立します。
そのような中、大村益次郎には志士としての経歴が全くなく、
尊王攘夷という思想に酔って過激な発言や過激な行動をとるということが
全くない人だったのです。
彼は周防の国、鋳銭司村(すぜんじむら)の村医者の子として生まれました。
鋳銭司村は、現在の山口県にある新山口駅(旧小郡駅)にほど近い場所にありました。
司馬遼太郎氏の『花神』という本に詳しく記されています。
代々村医者の家系で、彼は3代目だったと思います。
元々の名前は村田蔵六(むらたぞうろく)です。
「蔵」には隠すという意味があります。
「六」は頭と尻尾と手足の合計6個を指します。
頭と尻尾と手足を隠すことから「亀」という意味になります。
つまり、「村田の亀さん」です。平凡な名前ですね。
彼は若い頃、当時一番の塾と言われた、
広瀬淡窓(ひろせたんそう)という有名な儒学者が開いた「咸宜園」に入塾し、勉学に励みます。
咸宜園は、現在の大分県日田市にあります。
当時、日田は「天領」といって幕府の領地だったのですが、そこに私塾を開いていたのです。
江戸時代というのは不思議な時代で、
現在のような東京を中心とする中央集権の体制ではありませんでした。
多くの人が勘違いしていますが、
当時の江戸幕府は全国の藩を隅々まで掌握していたわけではありません。
もちろん、何かあれば(藩の)取り潰しなどはできましたが、
普段、藩の中では藩独自の政治が行なわれていました。
ですから、江戸や京都に長州藩邸とか、薩摩藩邸とかそれぞれの藩邸がありましたが、
もし、そこで何かあって犯人が藩邸に逃げ込んだ場合、
藩邸には(幕府の)警察は入れなかったのです。
治外法権だったわけです。
今で言えば、日本にある、例えばイラン大使館や中国大使館には何か事件があって
その犯人が逃げ込んだとしても日本の自衛隊や警察は絶対に入ることはできません。
そこは治外法権であり、イランや中国の領土と同じことです。
当時の藩邸は、それと同じです。
このように、多くの人が抱くイメージとは違っていました。
江戸時代の藩の中で、最も石高の高い藩は前田利家が開いた加賀藩で、
次に薩摩藩や伊達藩などが続きます。
長州藩は、30数万石と言われています。
江戸末期にはほとんどの藩の財政は逼迫しており、
資金不足で参勤交代ができない藩もたくさんありました。
しかし、不思議なことに長州藩は財政難とは無縁でした。
瀬戸内海を干拓して水田を作ったり、
殖産興業政策によりいろいろな産業を興したりしていました。
また、下関が北前船の貿易でかなり儲けていたこともあり、
幕末の頃にあっても財政はかなり豊かだったと言われています。
資金力がないと、「攘夷を遂げるんだ!」と言って
下関を通るイギリスの船やオランダの船を大砲で攻撃することなどできませんよね。
長州藩というのは、大した藩だったのです。
ただその後「四国艦隊下関砲撃事件」が起こり、
長州藩は壊滅的な被害を受けることになるのですが……。
長州藩の支配下の小さな村に生まれた村田蔵六は、
将来医者になるためにはまず勉強するべき、
ということで先ほども言った通り私塾「咸宜園」に入ります。
江戸時代、本当にすごい学者というのは、たいてい地方にいたものです。
もちろん、江戸にもいましたが、ほとんどが地方の田舎にいました。
咸宜園などの私塾では、
全国から集まった塾生たちが狭い建物で共同生活を送っていました。
自分たちで炊事などの家事を行ないながら、寝食を忘れて必死に勉強しました。
そういう厳しい環境で切磋琢磨したからこそ、すごい人物が出てきたと言われています。
また、小さな藩にもすごい塾や学者がいて、独自の文化がありました。
現在の日本は、言葉にしても生活習慣にしてもかなり画一的になっていますが、
当時は地域によりかなりの違いがありました。
特に、薩摩藩の薩摩弁などは他の地域の人には全くわからなかったようです。
ある逸話があります。
歴史をご存じない方のために、当時の様子を簡単に説明しますと、
幕末のある時期、長州藩は京都の公家を牛耳っていました。
そして尊王攘夷をかざし、過激派浪士たちを集めて京都でやりたい放題で、
幕府の警察権も及ばなくなっていました。
それに嫉妬した薩摩藩が、会津藩と組んで彼らを追い出しました。
その後、京都を奪還しようと戻って来た長州藩は、
「蛤御門(禁門)の変」を起こします。
蛤御門(はまぐりごもん)という京都御所の一つの門の前で激しい戦闘が繰り広げられ、
そこから戦火が拡大し、京都の3分の2くらいが燃えてしまいました。
そしてその当時、会津藩と薩摩藩の武士たちはなんと全くお互いの言葉が通じず、
漢文で筆談したそうなのです。
江戸時代は、そのくらい多様性があった世の中だったのです。 |