私は、毎日新聞に在籍していた時、NORAD(北アメリカ航空防衛司令部)を取材しました。
当時は冷戦真っただ中で、いかに親米国家の日本と言っても、
国防の最高機密である軍の司令部などなかなか取材できるものではありませんでした。
運よく取材OKを引き当てた私は、会社に取材の話をしましたが、
当時毎日新聞社は会社としての取材は許可せず、取材費も出しませんでした。
それならばと、私は自費で取材を敢行し、自分の夏休みを使って渡航しました。
そして上司である写真部部長には、
「版権は私にください。そのかわり、毎日新聞にはタダで提供します」と交渉しました。
また私は取材費を回収するために、版権を使って様々な出版社に売り込みをしました。
その過程で、貴重な縁をいただいたのです。
当時の集英社の雑誌部門に、辣腕編集者の中村信一郎氏が在籍していました。
落合信彦氏を捕まえていた、優秀な編集者です。
彼が、私の担当編集者となってくれたのです。
ちょうどその頃、彼はバブル崩壊で株が暴落しはじめた際の信用取引で、大損を抱えていました。
しかし彼は、この大暴落が単なる投げ売りにとどまらない、何か奇妙な雰囲気を感じ取り、
売り込みで出入りしていた私に「浅井さんならこの本当の原因を突き止められる」と言ってきたのです。
私ははじめ「この人は何を言っているのだろうか」と思いました。
当時の私は日経新聞も読んだこともなく、
大学は政治経済学部だったものの、専攻は政治だったので経済についてはほとんど門外漢でした。
もちろん、生活に直結する経済のことは関心があったので多少は勉強していましたが、
言ってみればその程度です。
しかし私は、「君ならできる」と言ってくれた彼にすっかり説得されてしまいました。
意を決して取材を始めてみると、2ヵ月で“彼ら”がどうやって大暴落で儲けたのかにたどり着き、
事実を暴くことができました。当時の一大スクープです。
中村氏との出会いとこの取材は、私にとっての「運命」でした。
それがなければ、今の浅井隆はありません。
こうして運命に導かれるように、私は天職というべき、
あるいは使命というべき「経済ジャーナリスト」の道を歩み始めたのですが、
その過程でいよいよ「運命」が確かに存在すると
確信せざるを得ない出来事に向かって進んで行くこととなります。
90年に日本のバブルが崩壊して以降、日本はとんでもないことになり始めました。
株が下がり、不動産もどんどん下がり、金融機関も大企業、中小企業も次々おかしくなっていきました。
バブルでにぎわっていた熱海の大型旅館もどんどん潰れ、
夜逃げ同然に経営者がいなくなる事態も起きました。
あまりに騒然とした状況になったので、
私は日本で何が起きているのか、もっと取材したほうがいいと思いました。
しかし、どう取材を進めていったらよいか、なかなか次の一手が見出せません。
どうしたものかと思案していた時、ここでまた一人の人物との運命的な出会いを果たします。
TBSの神保さんという方です。
神保さんは、当時すでにTBSの有名なプロデューサーで、
たまたま私の本を読んでくれていたのでした。
彼が私に電話をしてきて、
「あなたの本は面白いし、色々な物事をよく当てている」と言ってくれたのです。
ただ、彼の本心は実は別のところにありました。
彼も個人的に信用取引で大損をしていたので、
要は大損を取り戻すために浅井隆をうまく使おうと考えていたそうなのです。
私をテレビの仕事に使い、視聴率を稼いで自分の手柄にしようと思ったそうです。
ですが、この神保さんとの出会いと、そこから広がった人とのつながりから、
私はいよいよ「運勢」「運命」の存在を確信することになります。
当時の神保さんは、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いで大活躍していました。
TBSの有名番組をいくつも手掛けていたのです。
つい最近まで関口宏氏が司会をしていた、「サンデーモーニング」もそのひとつです。
もともとは歌番組を作っていたのですが(日本レコード大賞をプロデュースしていたのも彼です)、
その枠にとどまらず、いくつもの長寿番組などもヒットさせていました。
そんな名プロデューサーですから、ハイヤーや経費は使いたい放題でした。
私は、神保さんと二人で今後の日本や日本の株がどうなるのかを知ろうと、
TBSのハイヤーを乗り回してとにかく色々な人にインタビューしました。
夜には赤坂の寿司屋の座敷に上がり込み、うまい寿司もよく食べました。
当時の私はお金がなかったので、
「毎日新聞の給料ではこんなおいしいものは食べられない」と思いながら食べていました。
とてもありがたかったです。
こうした取材の甲斐もあって、私は1992年に徳間書店から「日本発世界大恐慌」という、
30万部越えの大ベストセラーを出版するに至ります。
徳間書店と言えば、今でこそ目黒の立派なビルに入居していますが、
当時は新橋の雑居ビルに分散して入居していました。
そして、私の「運勢」「運命」についての考えを決定付ける運命的な出会いは、
その薄汚いビルに出版前の最終ゲラ(校正用の印刷物)を取りに行った時に訪れました。
その日、私は会社を終えて午後6時ごろ徳間書店編集部に到着したのですが、
なぜか約束のゲラがなかなか出てきません。
時間を持て余した私は、その辺に置いてあった本を何の気はなしにめくっていました。
そこで、とんでもない本を見つけてしまったのです。
ほとんど誰も読んだことのないような書籍で、著者も聞いたことがないような人でした。
当然ベストセラーにもなっておらず、さらに言えば経済評論家の著作でもありません。
その本の著者は槙さんという人でした。
その本の内容は、実に衝撃的でした。
発行は85年、つまりプラザ合意の年で、世はこれからバブルに突入しようという時です。
しかしその本には、「数年後にバブルが崩壊し、金融恐慌が来る」という予言が書いてあったのです。
バブル崩壊の5年も前にすでにそれを見越していたという話に、
私は「なんだこれは!?」と思いました。
神保さんにもこの話をしたところ、それはすごく面白い話だということで、
槙さんに会いに行こうという事になりました。
槙さんの自宅は中央線の小平で割とすぐに行ける場所でしたが、
徳間書店の私の担当編集者を通じて確認したところ、
最近槙さんは体調が良くないので引退し、人には会わないといいます。
もちろん、私はあきらめません。
どうしても会いたいので、新聞社のやり方を取ることにしました――「突撃取材」です。
私たちは、ある日突然槙さん宅にハイヤーで乗りつけると、
出てきた奥さんに「ご主人にお会いしたい。怪しいものではありません」と伝えました。
奥さんは、奥に戻って何やら話していましたが、
戻ってきたのは「お会いできない」という、つれない返事でした。
もちろん、そんなことで諦める私ではありません。
いきなりしつこく食い下がると相手のガードが上がるので、
そこは一旦「分かりました」と引き下がり、
神保さんと近くのラーメン屋さんで食事し、
2時間後ぐらいにもう一度槙さんのお宅に戻って「やっぱりお会いしたい」と食い下がりました。
すると家の奥から槙さんの声がして、
「そこまで言うなら通しなさい」と言ってくれて、やっと会うことができたのです。
そして、この槙さんとの出会いが私の「運勢」「運命」観を決定付けました。
人間には誰にも「運命」や「運勢」があり、
なんとなれば寿命まで決まっていると考えるに至った貴重な話を聞くことができたのです。
<以下、第256号に続く>
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