天国と地獄
 

2023年5月15日更新

第221回 父の死と父の歩み <最終回>

もう一回だけ、このコラムにて父親について書かせていただきたいと思います。

以前も少し書きましたが、戦後、父親は今でいう新橋あたりの駅近くの闇市で、
“ふかし芋”を売って生計を立てていました。父親の店は、大変人気があったそうです。

しかしある時、父親は「はっ!」と気付きます。
とてもよく売れているのに、なぜ全然儲からないのです。
不思議に思い、横で店を開いているおじさんに聞いてみると、
「あんた、ダメだよ、そんなんじゃ。もっと斜めに切って、芋を大きく見せるんだよ。
そうすれば高く売れるから儲かるよ」と教えてくれたそうです。
父親は、芋を垂直に縦に切っていたので、大きくみせることができていなかったのです。
値段の割に、大きな芋を売っていたことになります。
どうやら、父親には商売の才能はあまりなかったようです。

そうこうするうちに、新橋あたりのガード下に貼ってあった
「職員募集」という張り紙を見て、国鉄に入ることになりました。
戦後の混乱期ですから、国鉄の入社試験などは簡単なものだったようです。
おそらく、体力テストと簡単な文章を書かせる程度のものでしょう。
一時期、仕事が面白くなくて「東芝」に転職しましたが、
国鉄に呼び戻され、結局国鉄マンとして定年まで働きました。

父親はよく「なにしろ、焼け野原つまりゼロからのスタートだったので、
いろいろなことができた」と言っていました。
まさに開拓者(フロンティア)ですね。
アメリカ映画の西部劇のような、もう何でも〝早い者勝ち″という世界だったのです。
きっと、荒っぽい時代だったのだと思います。
父親自身も国鉄の組合運動をやっている時、
上司の机の上に座り込んで机の上の物をすべて投げ捨てて壊すなどして、
クビになりかけたこともあったそうです。

1945年の敗戦から5年後の1950年に、日本は朝鮮戦争という大きな転換点を迎えました。
実は、朝鮮戦争がなければ日本はここまで発展できなかったと言われています。
戦後の混乱がたったの5年で終わったのは、朝鮮戦争のおかげだったということです。
朝鮮半島という日本の近隣で戦争が起き、そこで戦争特需が発生したため、
日本の製品が世界中で売れ始めたのです。
朝鮮戦争は、朝鮮半島の人たちにとってはとんでもない出来事ですが、
日本の復興には力強い追い風になったという歴史があります。

当時、国鉄の現場で働いていた父親は、出征するアメリカ兵の様子を直接見ています。
兵士たち、特に黒人兵たちは、かぶっていたヘルメットを
何か叫びながら出発列車から投げ捨てていたそうです。
言うまでもありませんが、ヘルメットは戦場で身を守る大切なものです。
太平洋戦争には「自由主義陣営を守る」という大義名分がありましたが、
朝鮮戦争にはそういったものはありませんでした。
戦争の悲惨さをよく理解していた兵士たちは、どうせ生きては帰れないと諦め、
ヤケになっていたのかもしれません。

太平洋戦争で日本軍の強さを目の当たりにしたアメリカは、
当初、日本を復活させないようにしようと考えていました。
しかし当時、北朝鮮の裏では中国(当時は中共と呼ばれていました)とソ連が動いていました。
そこでアメリカは、共産主義の脅威から自由主義陣営を守るために日本の復興を後押しし、
共産主義勢力の防波堤にしようと考えたのです。

以前ご紹介した図をもう一度ご覧いただきたいのですが、
不思議なことに日本は、1945年の敗戦の焼け野原から1985年のピークに向けて、
前回の明治維新から日露戦争勝利に至るまでと同じように「奇跡の復興」を遂げたのです。

そのトレンドの中で、私の父親は国鉄で全く新しいことに挑戦しました。
新幹線の通信システム、Suicaの基礎技術、
さらにこのコラムをご覧いただいている方の中にも利用されている方がいるかもしれませんが、
現在の「埼京線」「湘南新宿ライン」のアイデアを出したのも私の父親なのです。

この2つの路線は、もともと貨物線だったのですが
父親はそれらが有効利用されていないことに気付きました。
当時、赤羽駅と池袋駅間を結ぶ「赤羽線」がありましたが、
わずか数kmを往復しているだけでした。
そこで父親は、「これらを全部、つなげてしまおう!」と思い付き、
新宿を通り湘南エリアまでを結ぶ路線を建設するアイデアを提案しました。
初めは狂気の沙汰だと非難されたそうですが、その後問題解決を経て最終的に完成しました。
今では、多くの人がこの路線に助けられていることでしょう。

そして1985年、日本は戦後のピークを迎えます。
私はこの図を見て、父親の歴史と重ね合わせながら、
トレンドというのは「大きな歴史の動き」であり、
一度動き始めたら誰にも止められないものなのだと、つくづく感じました。

今や日本はピークを過ぎ、もはや先進国とは言えないほどに没落しています。
たとえば、個人所得ではシンガポールや韓国にも抜かれるなど、
20年前には考えられなかったことが起きています。
国家財政も火の車で、破綻寸前の状態です。
このような状況を考えると、2025年に第二の経済敗戦があっても全く不思議ではないと思います。

このような時代には、私は従来の常識を捨てて、
新しいやり方やアイデアに取り組む必要があると考えています。
また過去の大転換点では、「徳政令」が行なわれています。
たとえば、幕末から明治維新にかけての転換点では「秩禄処分」や「廃藩置県」が実施されました。
武士という身分、社会階級そのものが消滅するような激動の時代です。
豪商たちの借金は踏み倒され、多くの人たちの経済基盤が失われました。

歴史の教科書にはあまり書かれていませんが、
明治5~6年の頃には江戸(呼称は「東京」に変わりましたが)の市民の
4割から5割が「窮民」、つまり「食べていけない人々」だったと言われています。
それほど酷い状況でした。
当時、発生した「うさぎバブル」も印象的です。
オランダの「チューリップバブル」と一緒ですね。
うさぎが投機の対象になり、うさぎに子供をたくさん産ませそれを高値で売り買いしたのです。
あまりにもバブルが過熱したため、明治政府が禁止したという話も残っています。

徳政令の後、日本はゼロからスタートし「日露戦争」に勝利しました。
その後40年経ち、太平洋戦争敗戦により再びどん底へと落ちました。
戦争で膨れ上がった借金を返済するため、1946年には再び徳政令が実施され、
国民も資産を失い、焼け野原から再建を始めました。
その後、1950年の朝鮮戦争を機に大復興を遂げ、
1964年の「東京オリンピック」に象徴される高度経済成長期を経て、
1985年には戦後のピークを迎えました。


そして、そこから40年後の2025年がもうすぐやって来ます。
歴史のパターン性から考えて、このトレンドを止めることは不可能でしょう。
やはり今回も激動の大転換期が訪れ、何らかの形で徳政令も実施されることでしょう。
拙著『ドル建て金持ち、円建て貧乏』『1ドル=200円時代がやってくる!!』
『2026年 日本国破産』シリーズ(全て第二海援隊刊)などの中で、
困難な時代を生き残るための多くの方策を示していますので、
ぜひ参考にしていただきたいと思います。

父親の人生は、まさに戦前・戦中・戦後という大混乱期の中で
その時々を全力で日本のために生き抜いてきたように見える。
戦争では前線で戦い、復員後は天皇陛下より
二度も叙勲を受けるほど経済に貢献し、
老後はボランティア活動を通して多くの人々の世話をしてきた。
いつまでも私の心の中には、そんな父親が生き続けている。
(2009年 イタリア・ローマにて)