天国と地獄
 

2023年4月14日更新

第220回 父の死と父の歩み <その2>

前回からの続きで、昨年末に亡くなった父の話をしたいと思います。
父は、関東大震災の2年後に生まれました。
翌年は昭和元年、新しい時代の幕開けです。
さらに昭和2年に昭和恐慌、昭和4年(1929年)に世界恐慌が起きると言う、まさに激動の時代でした。
日本がまず経済的に倒れ、そしてアメリカも倒れ、世界中が倒れてぐちゃぐちゃになりました。
世界中が、波乱の訪れを予感させる時代に突入して行ったのです。

天災と恐慌に加え、寒冷化にも見舞われます。
東北地方には、「山背」という夏に起きる気象現象があります。
海から冷たい風が吹きつけ、これが起きるとお米が取れなくなるのです。
当時は、そうして凶作に見舞われると食うに困った農家が
娘を売ったりするということまでありました。
こうした状況を見ていた若い兵隊たちは社会に不満を持ち、
やがてそれが高じて226事件や515事件を起こすのです。
人はやはり生き物なので、食べられなくなったり景気が悪くなったりすると、
日頃は想像もしないようなことをするのです。

結局日本は、その後泥沼の日中戦争に突入して行きます。
政治が悪いと言って政治家を殺すといった暗い時代に突入し、
そして最後にやってはいけない太平洋戦争をし、
1945年には敗戦、どん底にたどり着くわけです。

私の父の家は、昭和恐慌で潰れてしまいました。
新潟の加茂という、京都の賀茂から名前を取った町があり、
そこで紡績関係の工場を経営していたのです。
そこそこ小金持ちの家でした。
小学2年生、3年生の頃は、乳母が学校までついてきて
帰るまで待っていたといいますので、かなり良い生活をしていたのだと思います。

ところが昭和恐慌で世の中がひっくり返ると、父の家にもその影が忍び寄ります。
人が良かった祖父は、いろいろな人の債務保証を引き受けており、
結局は破産してしまいました。
どうしようもなくなり、親戚中から
「借金は肩代わりしてやるから、ここから出て行け」と言われ、
一家で家財道具だけ持って汽車に乗り、東京に出て暮らし始めました。
それから赤貧洗うがごとく、どん底まで落ち、
知り合いを頼りながら転々としていたのです。
ですから父は、小学校しか出ていません。

ただ、父は学歴こそありませんでしたが軍隊に入ってから徹底して勉強し、
優秀な人材になったようです。
しかも、上司や同期にも可愛いがられていました。
整備兵として前線に配属されていましたが、
やがて本土決戦が近づくと前線から本土へ戻され、命が助かりました。

そして、千葉の木更津海軍航空隊で敗戦を迎えました。
当時の海軍は陸軍とは全く違う軍隊で、物資の調達・補給をきちんと考える組織でした。
日本が負ける寸前まで、海軍では虎屋の羊羹が出ていたというほどです。
食事の中身もとても良く、洋食器を使う訓練まであったそうです。
つまり、ナイフとフォークで食べる訓練です。

イギリスやアメリカは敵だと言っていたのに、なぜそういう教育をしたかと言うと、
勝ってアメリカやイギリスに行った時、フォークやナイフを使えないと
外国人に馬鹿にされるからという理由だったそうです。
こんなことは、陸軍なら絶対にありえません。

戦争末期の昭和20年頃、木更津海軍航空隊には基地を守るために
最寄りの丘の上に「高射砲」という、B―29などを撃ち落とす大砲がありました。
それは陸軍の担当でしたが、食べ物は現地調達だったため、
そこの兵隊にはほとんど食糧の持ち合わせがなかったそうです。
あまりにひもじくて、海軍の基地に時たま下りて来て、
「海軍さん、海軍さん、何かおいしいものはありませんか」と
食べ物をもらいに来ていたといいます。
海軍の人たちは、自分たちを守ってくれている陸軍があまりにかわいそうなので、
食糧をあげたそうです。そのくらい差があったのです。

その後、日本は戦争に負け、終戦を迎えました。
当時は、戦争に負ければ兵隊は全員去勢され、
奴隷として連れていかれるというひどい噂が流れていて、
父も周囲も皆、本気で信じていたそうです。
皆、いよいよ奴隷かとヤケになって酒を飲んだり、
残った機関銃をぶっ放したりする中で、すごい人がいたそうです。

その人は、国が負けた瞬間に上官のところに行って話を付けると、
自分の有り金を全部はたいて靴など軍でいらなくなったものを貰い受けました。
そしてそれらトラックに積んで、横浜に行って売りさばいたのです。
そうやって儲けたお金で横浜の駅の裏側を買い占めると、
その後彼はどんどん商売を成功させ、財閥になったそうです。
父たちはどうせ自分たちは奴隷にされるんだとお酒を飲み、
ヤケになっていたましたが、その彼だけは違ったのです。
私はその話を聞いて、やはりどん底の時こそたくましく生きなければいけないと思いました。

すごい人が、もう一人いました。
当時、木更津海軍航空隊の司令官をしていた人です。
終戦を迎えると、この司令官はこう言ったそうですーー「お前らが生き残ったということは、
これから日本を立て直すのはお前たちだということだ。カネもいるだろう」。
そして、トラックに銃武装した兵隊を乗せて日銀に行き、
役人を脅してたくさんのお金を取ってくると、それをみんなに平等に配ったそうです。
家を一軒買えるくらいの額といいますから、
今でいう5千万円とか、1億円くらいの価値だと思います。
嘘のような話ですが、実話です。

父は、そのお金と虎屋の羊羹を持って、東京の祖父の家に帰りました。
祖父は「これで、関家も再興できる!」と死ぬほど喜んだそうです。
しかし、良い話もそうは続きません。
祖父はそのお金を郵便局か銀行に入れてしまい、
半年後に実施された預金封鎖で結果的に紙キレ同然になってしまいました。
祖父は、さぞかし大きなショックを受けたことでしょう。
祖父はそのせいで死んだと私は思っています。私は祖父の仇をとろうと思っています。

そういえば、「戦後最大の宰相」と呼ばれた田中角栄は、陸軍で戦争に行っています。
外交や規制緩和、民営化に辣腕を振るった中曽根康弘は、
海軍の主計士官で予科練に行き船に乗っていました。
彼らのような太平洋戦争に行って本当に厳しい局面を見てきた人が国の中枢にいて、
皆、戦争の悲惨さをよく知っていました。
田中角栄は「戦争を知らない世代が政治の中枢になった時がとても危ない」と言っていましたが、
まったくその通りです。今がまさにその時です。
2世、3世の政治家も多くなって、本当の苦労をしておらず、
世の中の恐ろしさも知らないからです。

政治が目指す「世の中の安定」のためには、2つの大事なことがあります。
1つは景気が良いこと。人は景気が良いか、悪いかで全く変わります。
ましてや大不況や国家破産になると人は荒み、世の中は荒れます。
もう1つは、まともに飯が食べられるかどうかです。
戦後は飽食の時代と言われていますが、
大多数の人々がまともに食べられる状態だからこそ、
今の日本は辛うじて平和でいられるのです。
この2つを維持するために、あらゆる手立てを講じるのが政治家の使命ですが、
今の政治家はそのことが全く分かっていません。

父の話に戻りますが、以前このコラムでお話しした
「歴史の40年パターン」に則って考えますと、
私の父は大正14年生まれで97歳まで生きましたので
「上って下って80年」という流れを一巡以上、生きたわけです。ほぼ1世紀です。
そう考えるとすごいですよね。
「上って下って80年」という人生を、4、5回さかのぼると西暦1600年前後になり、
ちょうど大阪夏の陣、冬の陣が終わった頃です。
さらにもう4回遡ると1200年頃になるので、ちょうど源平の合戦の頃、
いずれも天下分け目の激動期にあたります。

父の人生も、そして私たちの人生も、この40年周期の上に乗っているのです。
誰もが歴史の一部を担っているのです。

父は戦後、国鉄(いまのJR)で技術者として働いた。
ATC(自動列車制御装置)、新幹線の制御システム、
埼京線の原案やsuicaのシステム構築等に貢献し、
その功績は天皇陛下の御前に2度も呼ばれたほどだった。
退職後はボランティア活動に尽力し、
80代の時に70代の病人の介護をしたりしていた。
目標とする、尊敬できる人物でもあったのだ。
   (2014年9月 イギリス・コッツウォルズにて)