天国と地獄
 

2023年4月6日更新

第219回 父の死と父の歩み <その1>

先日、私は今までの人生において最も悲しかったことを経験しました。
個人的な話で恐縮ですが、昨年の12月に実父が亡くなりました。97歳でした。
約100年生きたわけで、「よく生きた」「大往生」と言ってよい人生だったと思います。
それでも、子供としては実の親が亡くなると他に比べるものがないくらいに悲しいですし、
いくつになっても「あと5年は生きていてほしかった」と思うものですね。
そしてまた、「5年前は元気だったなぁ」と写真を見てつくづく思ってしまうものです。

以前のコラムでも少し書きましたが、
私の父は激動の太平洋戦争の敗戦も経験しています。
父は、行かなくてもよいのに志願兵として戦争に行きました。
一般には規定の年齢まで徴兵されないのに、
その2年くらい前にわざわざ自分から志願して出陣したのです。

その理由は、「ゼロ戦」に憧れていたためだったそうです。「ゼロ式艦上戦闘機」です。
実はゼロ戦という言葉は、戦後できた呼び方です。
「ゼロ」は英語なので、戦争中は「零戦」(れいせん)と言っていました。
空母に乗せて戦う戦闘機で、空母に両翼を折って積むことができたのです。
軍事オタクでもなければ、今の若い人たちは全く知らないことでしょう。
父は希望がかなって、ゼロ戦の整備兵をしていました。

私は8年くらい前、父の誕生日にゼロ戦の模型をプレゼントしたことがあります。
驚かそうと思い、黙って実家に送りました。40センチ以上の大きな模型でした。
金属製でエンジンも回り、翼も動く、かなりよくできた模型でした。
届いたころ、感想を聞いてみようと父に電話をしてみると不思議なこと言うのです。
「ゼロ戦は、こんな形をしていたんだ。(ある部分を示して)ここは、こんな風だったんだな」。
私は、「これはボケたな」と思いました。

その後実家に行った時、そのことを詳しく聞いたのですが、
話を聞くにつれ父は全くボケてはおらず、私の思い違いだとわかりました。
実は、父は戦いの最前線にいたので、模型のような真新しいピカピカのゼロ戦は
一度も見たことがなかったのです。
前線で父が整備していたゼロ戦は、米軍に機関銃で打ち抜かれ、命からがら逃げ戻ってきたり、
ひどいのになると後ろから打たれていて、操縦して帰ってきたものの
操縦士がその直後に死んでしまったり、というありさまでした。
コックピットは、当然血だらけです。
傷だらけであちこち壊れており、ボコボコになって原形をとどめないような
ゼロ戦しかなかったのです。
私はそれを聞いてショックを受け、戦争のすごさを痛感しました。

父とゼロ戦の話には、こんな後日談もありました。
父をニュージーランドのオークランドに連れて行った時、
現地の博物館にゼロ戦があるというので見に行きました。
オーストラリアが鹵獲しニュージーランドに渡った、本物のゼロ戦がそこにはありました。
思っていたより、かなり大きいものでした。
戦闘機ですから、エンジンは化け物のようです。
実際、エンジンが飛んでいるようなものでした。
博物館には掲示板があり、いろいろなデータが載っていました。
主翼の大きさやエンジンの強さなどです。

その掲示板を見ていた父が、急に不思議なことを言い始めたのです。
なんと、1ヵ所数字が間違っていると言うのです。
通訳を呼び、博物館の学芸員に伝えたのですが、
先方は「そんなことはない。きちんと調べた」と言います。
私もそうだろうなとは思いつつ、でも一応チェックしてほしいと言ってみたら、
ご丁寧に奥に調べに行ってくれました。
そして、しばらくして戻ってきた学芸員は真っ青で、
「本当だ。あなたの言う通りだ」と言ったのです。

戦後60年以上経っても、パッと何気なく数字を見てその違いが分かるほどに、
父は当時、ゼロ戦に命をかけていたのです。

父は60歳を過ぎてから自転車で海外を旅するような健脚者で、身体も丈夫だった。
老後は、私と一緒に海外旅行にもよく出かけた。
実際に戦場に行った人ならではの話には、驚くべきものも多かった。
少しは親孝行したつもりだが、まだまだ生きていてほしかったというのが本音である。
(2009年 イタリア・ローマにて)