天国と地獄
 

2022年8月5日更新

第203回 「坂の上の雲」について<その7>

前回から話題の祖父がまだ新潟にいて裕福だったころ、
小さかった私の父親を膝の上に乗せて、
晩酌をしながらよくこう言っていたそうです――「乃木将軍だけは、困った人だった」と。

これも以前書きましたが、私の祖父は日露戦争に「伝令」として参加しています。
伝令というのは、現場と司令部の間を往復して命令を伝える役目を果たします。
祖父は、旅順の二〇三高地の攻撃の時も伝令を務めていました。

伝令は、戦死する確率がとても高かったそうです。
何とか敵にやられないように塹壕の中を走って行くのですが、
塹壕にはたくさんの死体があったりして、
どうしても身体の一部がはみ出てしまうことがあるそうなのです。
そこを、機関銃で狙い撃ちされることが多いようですね。
敵にしてみれば、伝令を殺すことで戦況を有利に運べますから、
一説によると伝令の9割以上が戦死したとも言われています。
祖父はそんな中を生き残ったわけですから、よほど運が良かったのでしょう。

司馬遼太郎の「坂の上の雲」を読む限り、
旅順攻囲戦では乃木軍の参謀長・伊地知幸介の評価が芳しくありません。
彼は砲兵の専門家だったのですが、長いことドイツに留学していたこともあり、
皆から期待されていました。
ところが、全く融通がきかない頑固者であったと司馬は書いています。
また乃木将軍についても、人格的にはとても素晴らしかったと評価している反面、
戦争は下手だったと司馬は書いています。
近代戦の素養がなかったようですね。
いわゆる、古武士としての人格者だったのではないでしょうか。
乃木は、伊地知参謀長の言うことに何も反対しなかったと言われています。

総司令部は、二〇三高地を含めたロシア軍の要塞のはるか後方にいました。
前線から総司令部まではとても距離があり、
伝令が司令部と前線を行き来しているに間に戦況は変わってしまいます。
しかも、参謀の誰一人として現場を見ていません。
伊地知が「(前線など)見ない方がいい! 見ると頭が左右されてカッカしてしまうんだ!」
と言ったこともあり、誰も前線の様子をうかがい知ることができませんでした。

ロシア軍からしても、日本軍は不気味に映ったようです。
その理由は、日本軍がなぜか「26日」に攻撃を仕掛けてくるというものでした。
たとえば8月26日の攻撃の次は9月26日といった具合です。
満州軍の総司令部や東京の大本営の参謀官が
「なぜ、同じ日に攻撃をするんだ?」と聞くと、
乃木は「いや、その日は験(げん)が良いから」とか、訳のわからないことを言ったそうです。

ロシア軍からすると迎え撃つことが容易になります。
二〇三高地を含めた旅順要塞を包囲した乃木軍は10万、対するロシア軍は4万。
そして日本側の死傷者(死んだり大怪我をした人)は6万人以上に及びました。
戦争史上でも例がないほど多くの犠牲が出ています。
ロシア側は、2,000~3,000人の死傷者しか出していません。

この責任は、乃木にあると司馬は言います。
もちろん、これはあくまでも司馬史観と言われるものであり、
後世には反論(乃木希典は優秀であったというもの)を多くありますが、
そのことは今回のコラムでは考慮しません。
私の祖父の言葉からも、こと二〇三高地の激戦においては
司馬史観に信ぴょう性があるとみているからです。

祖父は日露戦争に、そして父は太平洋戦争に行きましたが、
2人とも生きて帰ってきています。
父が終戦後に実家へ帰ってきたとき一番びっくりしたのは、
民間に食べるものがなかったということでした。
なんと海軍には、終戦まで食べ物が豊富にあったのです。
最後まで「虎屋の羊羹」があったというから驚きです。
陸軍はそうでもなかったようですが、海軍はやはり補給の面などで優れていたようです。

日露戦争の時も、海軍の方が兵站に優れていました。
弾も豊富に用意していましたし、最新鋭の戦艦4隻、巡洋艦4隻など、
優れた兵器を用意していたのです。
それに対して、陸軍は砲弾がすぐ足りなくなってしまうなど、
計算や準備をきちんとしていませんでした。
食糧の補給もひどく、たとえば満州においても
必要な量の半分くらいしか送れなかったといいます。
若い兵士たちは、腹を空かせながら戦いました。

ここまでいろいろと書いてきましたが、
兎にも角にも私は皆さんに「坂の上の雲」をぜひ読んでほしいと思っております。
書かれている内容が史実に忠実かどうかに関しては賛否両論ありますが、
小説としては紛れもなく一級品です。

余談ですが、乃木将軍は私の尊敬する吉田松陰と遠い親戚関係にあります。
吉田松陰は叔父の玉木文之進から教育を授かりましたが、
その文之進は玉木家に養子に行ったのですが、玉木家は乃木傳庵の分家に当たります。
この乃木傳庵の子孫こそが、乃木希典なのですね。

吉田松陰の死後ですが、乃木希典は玉木文之進の家に住み込みで教育を受けます。
文之進はとてつもなく厳しい人であったと言われ、
そうした人に乃木希典も教わったことから人格者になったのかもしれません。
私もたまに乃木神社に行ってお参りをしますが、
お時間がありましたらぜひ「坂の上の雲」を読みつつ
乃木神社に参拝してみるのはいかがでしょうか。

「歴史は勝者によって作られる」と言うが、
勝った方に都合よく伝えられていることは多いのかもしれない。
たとえ事実は違ったとしても、歴史を学ぶ姿勢は必要だ。
(2022年4月 アメリカ・ダラスのケネディ大統領暗殺現場にて)