天国と地獄
 

2022年7月5日更新

第201回 「坂の上の雲」について<その5>

また、この戦争がいかに命がけだったかを知るエピソードもあります。
なんと、驚くべきことに当時の日本軍には、補給の概念がありませんでした。
私も読んでいてびっくりしたのですが、
特に北の方の戦いでは冬になるとロシア軍はいくらでも物資を補給してくるのに
日本軍は補給がないので、3日3晩飲まず食わずで寝ることもできないという有様でした。
それなのに、毎日突撃するのです。
最後には、持って来たおにぎりも何もかもが凍ってしまって食べられない、
水も飲めないという状態です。それでも、日本軍は戦ったのです。

すさまじいというか、明治時代の日本人というのは本当にすごかったのですね。
ここで突撃すれば死ぬ、という状況でも絶対に誰も嫌とは言わなかったのです。
上級司令部も「ここでお前らが頑張らなければここが崩れる、となった時には、
全滅してでも戦え!」ということを言うのです。
それで司令官も誰も彼も全部死んでしまう、
ということが日露戦争ではたくさん起こったのです。

筆舌を絶する戦いぶりですね……まさに命がけですが、
それは一兵卒も上級士官も関係なく、軍トップも同じでした。
総参謀長の児玉源太郎は、台湾総督や内務大臣を歴任し、
多くの叙勲も受けるほどの大人物だったのですが、
大山巌を総司令官にしたときに自らは格下げして参謀となって、満洲へ行ったのです。
今まで積み上げた地位を手放し、「俺がやらなければできない」と言って参謀となり、
しかも砲弾飛び交う現地に乗り込むなど、なかなかできるものではありません。
下手をすれば命を落とすこともあるし、
作戦が失敗すればそれまでの名声が地に落ちる恐れもあります。
しかし児玉は日本を守るために、自分の持てる力を
最大限発揮して、できることを当然のようにやったのです。

残念ながら、太平洋戦争の時にはそんな参謀はいませんでした。むしろ逆です。
「ゲゲゲの鬼太郎」で有名な水木しげるという漫画家を皆さんよくご存知だと思います。
彼は根本から片腕がないのですが、
それは南方の島かフィリピンに行った時に失ったものです。
米軍との交戦で他の部隊は全滅する中、
彼が所属する部隊は隊長が「お前らは生き残れ」と言って、
最後の突撃をさせなかったのです。
結局、その部隊だけ生き残ってしまうのですが、それが後々大変なことになります。

日本では、現地の詳しい状況がわからなったため、
推測に基づいて「全部隊、全滅、玉砕!」と新聞に載ってしまったのです。
そして、のちに彼のいた小部隊だけが生き残ったということがわかったのですが、
軍部はなんと、「それは困る!」と言ったのです。
普通、生き残ったら喜ぶはずなのですが、「お前らだけ生き残っていたら困る」
「名誉の戦死をしたはずだ」と、実にひどい扱いをしたのです。
そして、なんと参謀がわざわざ内地から現地まで赴き、
その部隊に「もう一回、突撃して死ね」と説得したのです。

結局、説得に応じた彼の部隊は、突撃の前夜に少ないお酒など酌み交わし、
皆で死出の覚悟をかみしめたことでしょう。
そして当然、その参謀も一緒に死んでくれると思っていたところ、
その参謀は、「俺は帰る」と言い残して帰ってしまったのです。
それで水木しげる以下その隊員たちは、
最後は歌を歌いながら、泣きながら突撃して行ったのです。
その結果、ほとんどの隊員が死んでしまうのですが、水木しげるは
爆撃を受けて片腕は無くなったものの、傷病兵として後方送りとなり生き残ったのです。

太平洋戦争時の軍の上層部は、これほどまでに腐っていました。
兵隊の命をコマ同然に扱い、国富をタネ銭にして
自分たちは砲弾の届かない安全な場所で
汚れた野心を満たすためのギャンブルに興じていたわけです。
考えてみれば、日露戦争の時にはあれほど優秀で命がけだった軍人たちが、
太平洋戦争の時にはこの体たらくだったわけですから、
司馬遼太郎がこの国の権力者たちに失望したのも無理はありません。

余談ですが、「坂の上の雲」には出てこないと思いますが、
旅順などで降伏したロシア軍の捕虜は大部分が金沢に収容されました。
その時の待遇があまりにも良くて、
ロシア兵は帰る時に、「ロシアに帰りたくない」と言ったそうです。
一方で、太平洋戦争の時は捕虜同士を殺し合わせたり、人体実験をしたり、
ひどいものでは飯を食わせずひたすら歩かせて死なせるなど
(フィリピンで起きた「バターン死の行進」)しています。
こうした捕虜に対する非人道的な扱いは、終戦後の軍事裁判で厳しく糾弾されました。
こうした点にも、明治期と昭和期の戦争の在り方、
日本人の質の違いを垣間見ることができるでしょう。
                      <以下、次号に続く>

司馬遼太郎が書籍の中で知らしめた歴史的事実は、
私に多くの気づきを与えてくれた。
私の現地に実際に取材に行くと言う姿勢は、
司馬遼太郎に学んだ点も大きい
(2022年4月 
    アメリカ・ニューヨークのトランプタワー前にて)