天国と地獄
 

2022年6月6日更新

第199回 「坂の上の雲」について<その3>

前回からの続きですが、この『坂の上の雲』という話は実によくできているというか、
うまく考えて構成してあると思います。登場する主人公が一人ではなく3人なのです。
一人の英雄を語るのではなく、群像劇として描くことで話の奥行きが何倍にもなっているのです。

主人公3人のうち、二人が兄弟で3人とも生まれ・育ちは伊予(現在の愛媛県)の松山です。
秋山家の二兄弟のうち、兄の好古(よしふる)は陸軍に入り、
馬に乗る騎兵隊を日本軍で初めて作り、それを精鋭に育成して日露戦争に行くのです。
なぜ騎兵かというと、当時のロシアは世界最強と言われる「コサック騎兵」を率いていました。
まだ戦車などがなく、一番早い移動手段が馬だったためです。
これに対抗すべく騎兵隊を作り、偵察したり奇襲したりと好古はそれを柔軟に使いこなし、
結果的にロシア軍を退却させることに成功するのです。

一方の弟・真之(まさゆき)は海軍に入り、出世を果たします。
少佐の時代に日露戦争が勃発、連合艦隊の作戦参謀に任じられ、
日本海海戦の作戦を立案、見事ロシアのバルチック艦隊を
殲滅(せんめつ)させた立役者となるのです。
このときの海戦は、世界に類を見ないものでした。
海の戦いにおいて、一方がほとんど無傷で相手が全滅というのは、
ほとんど例がないのですが、なんとそれをやってしまったのです。
後にも先にもこのときだけという、それくらいのものすごい作戦を練った参謀、
それが秋山真之なのです。

ただ、真之は子供の頃からケンカ好きでガキ大将だったのですが、
すごく繊細な神経も持っていたようで、この戦争を機に人がすっかり変わってしまいます。
日本海海戦を戦い抜き、最後に相手が降伏すると相手方の軍艦を見に行くのですが、
あまりの凄惨さにショックを受けてしまったのです。

軍艦の戦いというのは、本当に悲惨なものです。
前回の戦車の例のように、陸での戦いもひどいのですが、
陸の場合は逃げる気になれば退却したりどこかに隠れていて助かることもあり得ます。
しかし、海の戦いというのは逃げ場がありません。
もともと戦艦などは、でかい上にすごい巨砲を積んでいます。
一発飛んできて的中した日には、乗組員もろとも粉々になります。
しかも大量の火薬や弾丸も積んでいるわけですから、
それに火がつくと……あとはわかりますよね。
海戦といえば潜水艦でやられたときもひどいものですが、
とにかく船の戦いというのは本当に凄まじいのです。

真之は、無残な姿となった敵の兵隊らを見て、
自分がやった結果がこれだということで強烈なショックを受け、
日本に帰ってから坊主になると言い出すのです。
周りからは頭がおかしくなったと思われるのですが、
実は真之はおかしくはなったわけでなく、
すっかり人格が変わってしまったのです。
強烈な光景を目の当たりにして、ものごとを凄まじく深く考え過ぎたのですね。

もしこの戦争に負けたら、日本はロシアの植民地になるか、
あるいは対馬と北海道は取られて日本は半植民地という状態になるか、
という崖っぷちにいました。
ポーランドみたいに、総督がやって来て、ロシア軍が来て、下手すれば常駐して
反対したら皆殺し、というようなことになっていたかもしれないわけです。
そうなっていたら、日本の歴史がまったく変わっていたことでしょう。
ですから当時の軍人たちや政治家たちは、ロシアの脅威に対して命がけで戦ったのです。
決して戦争を賛美する意図はありませんが、
しかし太平洋戦争のような「軍部や政治家たちの無謀な賭け事」とは全く違う、
やむを得ざる戦いに挑んだのです。

さて、残るもう一人ですが、軍人はおろか、戦争とは全く無関係の人でした。
俳句、和歌、短歌に全く新しい新風を巻き起こした正岡子規です。
彼は若くして死んでしまいますが、まさに不世出の人でした。
特に弟の真之は、子規とは大学も同じで下宿も一緒という、不思議な縁を持ちます。
そう、本来の真之は文学少年だったのです。
真之が日本海海戦の当日に大本営に送った有名な電信「天気晴朗なれど波高し」、
これは彼が書いた文章なのです。
元々は「敵艦隊見ゆとの警報に接し、連合艦隊は直ちに出動、之を撃滅せんとす」
というなんの飾り気もない電文だったのですが、
彼の部下が「これで本部に連絡します」と言うと、
彼は一瞬「待て!」と言い、最後に「天気晴朗なれど波高し」と入れたのです。

実に文学少年っぽい話のようですが、しかし単に天候について言っただけではありません。
「天気が良い」ということは、見晴らしが効くので打ち漏らしはないだろう、
ただし「波が高い」ということは、日本側は射撃訓練をたくさんやっていたのに対し、
ロシア側はおそらく下手だからこちらに必ず有利になる、
勝つ可能性が高い、ということを言っていたのです。
これは銘文と言われていますが、
おそらくは正岡子規との交流の中でいろいろな小説を読んだりしていたことが、
大きく影響していたのだと思います。

さて、明治の最後のころに起きた日露戦争ですが、西暦で言うと20世紀の初頭に当たります。
戦争自体は1年半程度でしたが、当時の日本の政府首脳などトップのすごさというのは、
最初から講和を目指していたという点です。
彼らは、ロシアと戦っても完璧な勝利はないということを、極めて冷静に把握していました。
戦争をしても、下手をすると五分五分、
うまく行っても6対4でちょっと有利という程度が現実的な線で、
それならばより有利な状況を作り出し、
そこで講和に持ち込むというシナリオを描いたのです。

それは、財政的な面からも必須でした。
当時の日本といえば、主要な輸出品が絹、銅、それから陶磁器位でした。
大したものを輸出できていたわけではなく、国力は脆弱でした。
列強が手掛けるような工業製品などほとんどなかったのです。
当時の主力戦艦や巡洋艦は、全部イギリスとかフランスとかドイツ製、
あるいはイタリアで作られていました。

独自に対抗する兵器を作ることはできない、工業力もない、
輸出品も大したこともない、やっと農業国から抜け出し、
多少鉱工業があるくらいという、
言うならば自立がおぼつかない「未成年の国」だったわけで、
ロシアみたいな世界最大級の大帝国、最大の陸軍保有国と戦って勝てるなど、
普通はまずあり得ない話でした。

しかし、これ以上ロシアの侵攻を許し朝鮮半島を取られたら、
もう日本は後がありません。
対馬海峡を挟んでロシアと対峙するという構図だけは
何が何でも避けなければということで、やむにやまれず始めた戦争なのです。
<以下、次号に続く>

この本(坂の上の雲)を読まなければ、正岡子規と秋山兄弟の関係に
気が付く事が出来る人は少ないのではないだろうか?
人と人が出会うことで、物語は生まれるものである。
     (2022年5月 長野県松本市にて)