天国と地獄
 

2022年5月20日更新

第198回 「坂の上の雲」について<その2>

さて、明治維新というのは幕末あれほど志士たちが大騒ぎした
『尊王攘夷』の『攘夷』をかなぐり捨てて倒幕が成功して、
新政府ができると同時に開国するという、実に不思議な革命だったわけですが、
外国との鍔迫り合いはその後も続きました。
特にロシアは、版図拡大の野心を隠しもしませんでした。
南下政策によってシベリアまで到達し、満州にも進出するだけで飽き足らず、
日清戦争で日本が貰った遼東半島にも手を伸ばしてきたのです。

歴史の教科書にも出てきますが、
ロシアとドイツとフランスが軍事力をタテに干渉(三国干渉)して、
日本に「遼東は返せ」「お前がもらうんじゃない」と言って返還させたのです。
このとき日本は、まだまだ国力が足りず列強に膝を屈したわけですが、
この一件を機に「いずれロシアとは戦わざるを得ないだろう」と腹をくくり、
十数年かけて対露戦争の準備をして行くのです。

それがのちの日露戦争に繋がって行くわけですが、
日露戦争などと言っても「そんな昔の話」とピンとこない人も多いのではないでしょうか。
私は当時の世の中の気運なども多少わかる気がするのですが、
たとえば、うちの社員でも40代、50代の社員にとっては、
まあそういうことが起きたということは知っているけれど、
全く興味もないし実感もない、というのが正直なところだと思います。

日本は自分の国の歴史と国語を大事にしない国民になってしまったのかな、
と私はつくづく残念に思っています。
歴史を知らない、過去を知らないということは、
自分たちがどんな経緯で今ここにいるのかがわからない、
ひいては自分が何者かわからないということで、非常に危険です。
また、歴史の教訓に学ぶことも重要です。
過去の人々の失敗や成功を知り、それを自らの糧にしないことには、
この国の未来を描くこともできず、
将来自分たちが困難な状況に陥った時に対処することができなくなるのです。

今回のコロナにしても同じことが言えます。
これだけ厳しい社会状況にあって、経済的にも苦しい、
家からもあまり出られず、家族や知人とも会えずに精神的におかしくなったり、
死にはしなくても死ぬほどつらい目に遭っている人もたくさんいると思います。
そんな時にどうしたらよいのか、ということを知るために、
たとえば100年前に大流行したスペイン風邪の事は大いに参考になるはずです。
私たち一人ひとりが、そうした歴史から学べる教訓を知っておいた方が良いと思うのです。

現在の日本の学校教育では、日本の歴史は神話の時代から教え始めます。
縄文時代、弥生時代などの古代史から教え始めると、
多くの学校で明治維新か、良くて第一次大戦くらいで学年末が来てしまいます。
それ以降の授業は、あまりやっていないのです。
ですから、「私たち日本人がどうやって近代化し現代に至ったのか」という、
肝心なところを知らずじまいです。

私はむしろ、歴史は幕末から教えるべきだと思うのです。
まず近代史をやり、現代まで来たら戻って、
遡って江戸時代や縄文時代について教えた方が良いのではないか、と思っています。
古代を軽視するわけではないのですが、
やはり現代、近代の事を知らないと、歴史と現在が地続きであること、
歴史が自分に重大なつながりがあること、
そのことの重大さに気づくことはできません。
特に太平洋戦争、ノモンハン事件などの激動の時代を知らずに、
私たちがなぜ今このような時代を生きているのか、
どんな未来が招来しうるのかを理解することはできないでしょう。

司馬遼太郎が太平洋戦争から生き残って帰ってきて、
歴史を書こうと思い立った理由も、そうした「歴史の教訓を遺したい」という思いでした。
中でも、特に彼を駆り立てたのが「ノモンハン事件」です。
日中戦争の前後にソ連軍と日本軍が満州国とモンゴルの国境で激突したのですが、
司馬遼太郎もその時の証言を生き残っていた衛生兵から聞き、
小説にまとめようとしました。
結局は執筆を断念しましたが、未公開講演録として週刊朝日に掲載された記事が残っています。

この戦闘では、毎日戦場から無数の日本軍の死体が送られてきて、
それはこのままいったら日本軍は全部いなくなってしまうのではないか
と思う位の数だったそうです。
もう、完膚なきまでにボコボコにやられてしまったのです。
ロシア軍が用いた「機甲師団」という、
ナチスドイツが用いたのと同じものにやられたのです。
これは、とにかく装甲が厚い強い戦車を作り、
その戦車の後ろに兵隊が隠れながら突撃してくるというものです。
当時の日本軍の戦車は、それに比べてうすっぺらな装甲で、
ソ連軍の戦車から撃たれたら一発で吹っ飛んでしまう、棺桶みたいな戦車でした。
つまり、大人と子供の喧嘩というか、まったく相手にならない戦力差だったわけです。

司馬遼太郎はそんな状況に大いに悩みます。
彼は、一応大学を卒業して満州に渡り戦車学校を出たため、
太平洋戦争時には満州で戦車隊の小隊長をやっていたのですが、
若い部下たちといつも悩んでいたらしいのです。
ソ連の戦車というのは、作りはいい加減、荒っぽい作りでよく壊れるし、
エンジンもただデカイだけなのに、ものすごい鉄板が厚く、打ち抜けない。
載っている大砲もばかデカくて、日本側の戦車はそれで撃たれて
当たった瞬間にもうおしまいになります。
皆さんは知らないと思いますが、戦車というのは徹甲弾と言って、
相手を貫く弾(たま)を打つのですが、戦車の中は装甲に囲われた「密室」状態です。
その密室の中が、弾が当たった瞬間には何百度にもなるのです。
一瞬で全員即死です。
もう、中など見られたものではないそうです。
それぐらい恐ろしいものなのです。

そういう兵器に自らの命を乗せ、
勝ち目のない戦いに駆り出される理不尽さ……
司馬遼太郎はノモンハン事件の5年後の1944年に満州に渡り、
終戦の年の1945年まで戦車隊で満州にいたのですが、
その間延々と考え続けたらしいのです。
「日本軍のこれは戦車ではない」と。
しかも、日本軍はノモンハン事件での壊滅的な犠牲を一切反省しておらず、
戦車の改良すらしていないのです。
「これでいいんだ」「精神論で行け」みたいなやり方に、
ずっと疑問を抱いていたわけです。

そして多くの同胞が次々と戦死する中、司馬遼太郎はたまたま生き残ってしまいます。
これは人から聞いた話なのですが、その顛末は本当にひどい話だったといいます。
満州には「関東軍」というのがいたのですが、
いよいよ時局が厳しくなるとその関東軍のトップが
「自分は生き残りたい、日本に帰って日本を防衛したい」と言って、
一番の精強部隊を護衛代わりに引き連れて日本に帰ってしまったのです。
残されたのは歳を取った兵隊たちばかりで、
そこにソ連軍が攻めてくる訳ですからひとたまりもありません。
満州の日本人は、民間人も含めて全員死ぬほどの目に遭いました。
抑留され、男性はシベリアに送られ死ぬまで強制労働させられ、
女性はひどい目に遭い、子供も皆殺しにされ、
と生き地獄が繰り広げられたのです。
そんな中を逃げまどいながら、ようやく一部の人たちだけ日本に生きて帰ってきたのです。

その関東軍の一番強い部隊の精鋭だけが日本に戻ってきた時、
司馬遼太郎の戦車隊もたまたま戻って来られたのです。
帰国後、栃木県の佐野の基地に配属された司馬は、そこで終戦を迎えます。
敗戦にショックを受けた司馬は、数日間考え込みます。
「一体、この戦争は何だったのだろう」
「なんとくだらないことをいろいろしてきた国に生まれたのだろう」
――そして過去の日本、たとえば鎌倉、室町、江戸期や明治時代のことを考えてみても、
「国家そのものを“賭けもの”にして賭場にほうりこむようなことを
やった人がいたようには思えなかった」という考えに至ります。
終戦のわずか40年前、日露戦争当時には強大なロシアと
命がけで対峙した軍人や政治家たちがいました。
しかしその40年後には、おろかな軍人や政治家たちがこんなばかげた戦争を
行なってしまう……とても同じ民族とは思えないほどに
日本人が変わってしまったことに大いに失望し、
そして「輝かしい時代の日本人の魂」を文字に残すという、
ひとつの志を抱くに至ったのです。

司馬遼太郎の小説は、単にどうやって兵士が戦ったとか、
その主人公がどうだったか、というものではありません。
時代や社会といった当時の背景、登場人物がどのようにして事を成し遂げたのか、
その時に人々は何を考えていたのか、為政者や権力者たちは何を考えていたのか、
国民はどうやって死んで行ったのか、
非常に客観的に世界情勢までも含めながら書いているのです。

私はそうした多様な切り口というものに注目し、何回も読んでいます。
『坂の上の雲』は10回は読んだでしょうか。
一度読み切った後、また他の本を読んで、
1年位間が空くとまた読むという感じで繰り返しています。
それでも毎回毎回発見があるのです。

ただ、残念なことも実感します。
私も(2021年)12月で67歳になりましたが、
歳をとってきてだんだん感性が鈍ってきたのを実感するのですね。
特に、幕末のものなどを読むと、
昔は「俺も志士になって日本を変えるぞ!」と思ったものですが、
最近は「まぁ、種は撒くけど、日本を変えるのは息子たちに任せるか」と、
だんだんそういう気分になってくるのを感じるのです。
それも致し方ないことかもしれません。
なにしろ、67歳で刀担いで鉄砲担いで戦争には行けませんからね。
 <以下、次号に続く>

司馬遼太郎の本を何度も何度も読んでいるが、
毎回新たな気づきを得ることができる。
いざとなったら武器を取り、戦う覚悟はあるが、
67歳になり、残念ながらもう戦争には行けないとも感じている。
    (2022年2月 長野県にて)