天国と地獄
 

2021年9月15日更新

第177回  ちょっと風変わりな話<その2>

二番目は、以前このコラムでもお話ししましたように学生時代のことです。
私は大学が休みのたびに長崎に行っていましたが、その時の話です。

私が毎年長崎に行くようになったのには、悲しいきっかけがありました。
早稲田大学の政治経済学部に入り、夢に燃えていた大学1年生の時のことです。
早稲田は前半の試験が早く、7月の上旬に行なわれます。
そして試験が終わったあと、そのまま9月まで夏休みに入るのです。
夏休みは2ヵ月位ですね。大学の先生は楽だなぁ~と思った記憶があります。

その試験を受けている会場に突然、学務課の人がコンコンと入ってきて、
「関さん、関喜良さんいますか?」と言うので、
「はい!」と返事をすると「ちょっと」と呼ばれ、
「自宅で大変なことがあったらしい」と言われてました。
急いで自宅に電話をすると弟が出て、泣きながら「お母さんが死んじゃった」と言ったのです。

母親の死にショックを受け、呆然とした日々を送っていました。
そんな中で迎えた夏休みをどうしようか……と思っていたところ、
私が子供の時に住んでいた柏の団地のご近所のYさんという、
生前母が親友のようにとても親しくしていたおばさんが連絡をくれました。
おそらく、母の訃報を聞いてのことだったと思います。

Yさんは被爆者でした。
被爆したものの幸運にも助かり、娘さんが二人と息子さんが一人いました。
その娘さんのお姉さんの方が私のことをとても可愛がってくれて、
まるで実のお姉さんのようによく面倒をみてくれたのです。
そのお姉さんが、「私は子供を産まないの」と言っていたのですが、
子供だった私にはその意味がよくわかりませんでした。
あとで考えて、もしかしたらYさんの被爆のことがあったのかもしれない、と思いました。
そんなこともあって、私は原爆や被爆者に対して人一倍思い入れが強かったと思います。
母の死を通して、長崎・広島を見ておいでと言われているような気がして、
私は夏休みに長崎と広島に行くことにしたのです。

まず、長崎に行きました。
そこで、以前コラムに書いたように、たまたま永井隆
(自らが被爆しながらも被爆者の救護活動に当たった長崎大学医学部の医師で、
つい最近の朝ドラ「エール」の主人公にもなった古関裕而<こせきゆうじ>が作曲した
「長崎の鐘」の随筆の作者)の記念館、
そして「如己堂」(にょこどう:「己の如く人を愛せ」という
キリスト教の言葉からとった名前)に行き、
その記念館の横にある長崎市立児童図書館で野中先生という人に出会い、
「ここが私のいる場所だ!」と思い、
その後毎年、春休み・夏休みの間中、ずっとそこに通ったのです。

何度目かに野中先生の家を訪ねた時のことです。
私は事前に、「今日行きますよ」と連絡をしていたのですが、
先生は忘れていたようで不在でした。
先生の家についた時には雨が降っていて、傘もなく、
ずぶ濡れになりながら先生の家の軒下で先生の帰りを待っていました。

すると、お向かいの家の女性が「どうなさったんですか?」と心配して声をかけてくれたのです。
「野中先生を訪ねてきたのですが、ご不在のようで……」と答えると、
「雨にぬれて大変でしょう。どうぞ、入って下さい」と、
ご自分の家の中に招き入れてくれたのです。
私はたいそう雨に濡れていましたので大変ありがたく、
お言葉に甘えてお邪魔すると、なんとそこはヤクザの親分の家だったのです。

その親分はまだ若く、35歳位だったのではないでしょうか。
当時、私は19歳でしたが、その私が「こんな若い親分もいるんだな」と思った記憶があります。
お茶や食べ物を出してくれて、とても親切にしてくれました。
ヤクザというのは、ただただ怖い人たちというイメージがあったのですが、
「ヤクザにも、こういう人もいるんだなぁ」と先入観が覆された思い出です。

様々な人とのご縁で、私の人生は彩りと
深みを増すことができてきたとつくづく思う。
無駄な出会いなど一つもなかったと
70歳に近付くにつれ、感じている。

   (2021年8月 小淵沢にて)