天国と地獄
 

2021年9月6日更新

第176回  ちょっと風変わりな話<その1>

皆さんこんにちは、浅井隆です。
今日はちょっと風変わりな、普段皆さんがあまり話題にする事がない話をしたいと思います。
ズバリ、「ヤクザ」の話です。
ヤクザというと皆さんどういう印象を持たれているでしょうか?
私は毎日新聞社でカメラマンをやっていましたので、
取材でヤクザと関わることが何回かありました。
今はヤクザという言葉はあまり使わないかもしれないですね。
今回は、そんなヤクザとの不思議な話をしたいと思います。

私の父親は、大正14年生まれのもうすぐ96歳でまだ存命です。
その父が、以前言っていた言葉を思い出しました。
父は新潟の生まれで、子供のころは長岡市の「栃尾」という所で育ったそうです。
そこは、上杉謙信が子供の頃(長尾景虎の頃)にいたことで結構知られた所です。
今は、「厚揚げ」が郷土料理として有名ですね。
父方の祖父が、戦前まで新潟の加茂というところで紡績工場を経営していまして、
まぁ、超大金持ちではなかったかもしれませんがそれなりのお金持ち(小金持ち)だったそうです。
工場がうまくいっていた頃は、毎日家に芸者を揚げていたという、
そんな豪快な祖父だったと聞いています。

しかし、その工場が昭和恐慌の時に経営がうまくいかなくなってしまいました。
恐慌自体では工場は潰れなかったのですが、祖父はまぁ、人が良かったのでしょう。
いろいろな人の債務保証をしていたのです。
それを全部かぶって、どうしようもなくなってしまったのです。
祖父の本家は田舎の大金持ちでしたので、
「その借金は肩代わりしてやるから、出ていけ!」というようなことを言われ、田舎を追われました。
祖父母は、私の父を含む小さな子供6人を抱えて東京に出て、
知り合いを頼り現在の港区になるのでしょうか、芝浦の海の近くのボロ屋に身を寄せたそうです。

父は、新潟で過ごした子供の頃は(小学校の低学年くらいまででしょうか)、
学校には乳母がついてきて学校が終わるまで待っていて送り迎えをしてくれた、
というくらい“お坊ちゃま”の生活をしていたそうです。
それが、東京に出てきてからはまさに赤貧洗うがごとし、
超貧乏で日々の食事をするのがやっとというような生活でした。
祖父は、経営していた工場がなくなってしまったわけですから
どうやって収入を得ていたのかはわかりません。
まして子供は6人兄弟です。

ですから、私の父は小学校しか卒業していません。
ですが、当時の子供はしっかりしていました。
小学校6年ですから12歳くらいですね。
その少し後から父は「自分が働く、自分が家を支える」と言って、
新聞社で小間使いをやっていたそうです。

私が子供の頃、父がある時、そんな当時を思い出してふと、こう言ったのです。
「昔のヤクザっていうのは偉かったな。戦前のヤクザっていうのは違ったな」と。
当時、町の中にも下っ端のヤクザがいたらしいのですが、
彼らは町で会うと子供だった父に対しても道をあけて頭を下げ、
「関の坊ちゃん、いつもお世話になってます」
「私たちは皆さんのお陰で生きていけるんでございます。ありがとうございます!」
と言ったのだそうです。

つまり、私たちは裏社会で生かしてもらっていて、
それは正業で生きている人たちのお陰なのです、と感謝をしていたわけです。
ですから、たとえ相手が子供であってもきちんと挨拶したらしいのです。
ヤクザというと、普通 “悪者” というイメージがありますが、
戦前のヤクザというのはそうではなく、まともな人もいたそうなのです。
もちろん、全部が全部そうだとは限りませんが、
私の父親はそういう印象を持っていたということを聞いたことがあります。
その頃、うちの父親は「良雄」なので、
近所にいたヤクザの一人から「よっちゃん、よっちゃん」と呼ばれていたそうです。

そんな父も若いころは血気盛んだったので、
太平洋戦争になるとまだ戦争に行かなくてよい年齢だったのにも関わらず「志願兵」になって、
海軍航空隊でゼロ戦の整備兵をやっていました。
そして台湾の前線まで行き、何とか生き延びて帰ってきたのです。
戦後、復員して芝浦の家に帰ってきたわけですが、そこで父親は大そうびっくりしたそうです。

何に驚いたかと言うと、食べ物にです。
軍隊では、特に海軍では補給の概念があったようで、
最後まで虎屋の羊羹(!)があったそうなのです。
戦争に負けた頃にもです。
ところが帰ってくると、民間には食べるものは何もなく、
「こんなもの、食ってたのか!?」という感じだったそうです。

そして、帰ってきても働くところもありません。
生きていくためには働かなければなりませんから、
父はとりあえずガード下などで蒸かした芋でも売ろう、と考えたそうです。
ただ、やはりどこにでも「縄張り」というものはあるもので、
今で言えば愛宕警察なのか芝警察なのか、
地元の警察署にその許可をもらいに行ったそうなのです。
「復員して帰ってきたのですが、あのあたりのどこかで
私も芋を売りたいので許可をいただけますか?」と。

すると、驚くことに警察は、
「いやぁ~、私どもでそういうことはやっていない。あそこはヤクザが取り仕切っているので、
その親分さんのところに行ってやってくれ」と言われたそうなのです。
つまり、戦後で混乱しているし、そういうことは全部ヤクザ任せにしていたのです。
それも警察公認で、です。
私はこの話を聞いて、当時の戦後の混乱した社会というのは想像以上だったのだなと思いました。

そして、言われたヤクザの家を恐る恐る尋ねて行き、
ドアを開けて「私、実は軍隊から帰ってきまして、
食えないのであそこらへんでちょっと芋を蒸かして売りたいのです。
隅の方で結構ですので、場所を貸していただけませんか」と言ったそうです。
すると下っ端のヤクザが出てきて
「何言ってんだ。確かに軍隊に行ってお疲れだったけどね、もう今は良い場所なんて残ってないよ。
皆、食うために必死なんだから、無理だよ」と言われてしまったそうです。

すると奥の方から「おう。なんだ、よっちゃんじゃないか!」という聞いたことのある声がして、
親分らしき貫禄のあるヤクザが顔を出しました。
なんと、父が子供のころ下っ端だったヤクザが親分になっていたというのです。
そして「よく帰ってきたなぁ~。俺もひどい目に遭ったんだよ」と言ったそうです。
実は彼は硫黄島という、一番の激戦地に行っていたそうです。
日本軍が全滅・玉砕したところです。

神戸の山口組もそうなのですが、
今で言う暴力団の発祥は、もともと神戸港の船の荷物を陸揚げしたり
船に積んだりする仕事を担っていました。
そういう人たちを「沖仲仕」(おきなかし)と言うのですが、
そういう仕事を請け負っていたのですね。
ですから芝浦も港がありますので、おそらく軍人としてではなく
軍隊の物資を運んだりする役割で硫黄島に連れて行かれたのでしょう。
戦闘員ではありませんでしたが、それでもそういう人々もほとんど死んでいます。
99%は死んでいるのです。
助かったのは、降伏したか、足などを撃たれて気絶してしまい、
不本意ながらアメリカ軍に助けられて生き残ってしまった、
それくらいしか生還できた人はいませんでした。

話はちょっとそれますが、
クリント・イーストウッドが監督した映画に「硫黄島」2部作がありました。
『父親たちの星条旗』の方はアメリカ側からの視点で描かれたもの、
そして『硫黄島からの手紙』の方は日本側から見た硫黄島の戦いですが
これが見るに堪えないくらいすごいのです。本当に悲惨な戦いです。

米軍は上陸作戦前の準備砲撃として、まず飛行機を空爆し、
そのあと「艦砲射撃」といって戦艦などから大量の砲弾を撃ち込んだのです。
それはもう、普通の大砲ではありません。
戦車の大砲は、以前新聞社の時自衛隊の取材で見せてもらったことがありますが、
あまりにもすごくて……。戦艦の大砲は、その10倍も20倍もすごいわけですから、
1発飛んできたらもう、そこら辺の小山ひとつくらい吹き飛んでしまいます。
それを何日も打ち続け、もう誰も生きていないだろう、
まさか誰も生き残っていないだろうという状態で敵は上陸してくるのです。
摺鉢山(すりばちやま)という、硫黄島の一番端に小山があるのですが、
その形が変わったというくらい大砲を打ち込んできたのです。

しかし、日本側もそれは想定していて、前もって摺鉢山を要塞化していたのです。
当初、米軍は硫黄島を何と5日で潰せる計画だったそうですが、それが1ヵ月以上続いたのです。
しかも、予想以上に日本側の抵抗がひどく、
米軍の海兵隊というのは一番初めに突撃するように訓練された強い部隊なのですが、
それほどの部隊でさえも波打ち際から島へ上がれなくて、
最初の部隊はお互いに手をつないで泣きながら死んで行ったそうです。
海から頭を上げた瞬間に、頭を打ち抜かれたのだそうです。

ですから、その生き残りの海兵隊員は「絶対に日本だけは許せない」と言っているそうです。
それくらいすごい戦いだったのです。
硫黄島というのは、その名の通り火山島なのですが、
地下に穴を掘るにしても中の温度は50度~60度もあります。
そして、最後は水もなくなったわけです。

水もなく、意識が朦朧とする中で数ヵ月間も戦ったわけです。
そこから生き残って帰ってこられたのですから、そのヤクザの親分もすごい人です。
そこで昔話になり、「そうか、そうか、お前も生き残ってきたか」と涙を流し、
親分自ら父を、皆が商売をしている場所に連れて行ってくれたそうなのです。

空襲で焼け焦げて何にもないところに皆が場所を借りて店を出したりして、
そのショバ代を親分に払っているのです。
そこへ当のヤクザの親分が、
「皆さん、御免なさい。ちょっとだけ場所をズレてやって下さいませんか。
こちら、戦争から帰ってきた生き残りで、この若さで命がけで戦ったお兄さんなんです。
皆さん、我慢してやって下さい」と。
そして、何と角地の一番良いところに場所をとってくれたそうなのです。

それで蒸かし芋を売って、父親は何とか生活ができたそうなのです。
ただ、うちの父親は真面目すぎて、千葉から芋を買ってきて蒸かして売ったのですが、
なぜか儲からないのです。
すると、それを見た周りの親切な人が教えてくれたそうです
「兄ちゃん、芋をそんなふうにまっすぐに切ってちゃだめだよ。
斜めに切って大きく見せて、少しでも高く売らなくちゃ」と。
父親は、まっすぐ切った芋を、ほぼ買ってきた値段で売っていたのです。

これが、一つ目の風変わりな話です。

今年96歳になる父は、志願兵として戦争にも行き、
戦後勤めた国鉄を退職した後は自転車で世界中を回るなど、
私よりもずっと多くの深い経験をしてきた。
どんな立場の人にも礼儀を尽くしていたことが、
父を支えているのかもしれない。
     (2009年 イタリア・アマルフィーにて)