天国と地獄
 

2021年8月25日更新

第175回  中国と私 <その6>

敦煌には、莫高窟(ばっこうくつ)に代表される壮大な仏教遺跡があります。
敦煌市の東南25kmに位置する鳴沙山(めいささん)の東の断崖に
南北に1,600mに渡って掘られた莫高窟・西千仏洞・安西楡林窟・水峡口窟など
600あまりの洞窟があり、その中に2400余りの仏塑像が安置されています。
私は莫高窟を見学しましたが、もはや中国文化というより
シルクロード文化といった感じがしました。

天に向かってそびえ立つ、断崖に掘られた莫高窟
               (2002年 中国・敦煌)

シルクロードといえば、シルクのペルシャ絨毯ですが、
これがいたる所で売られていました。
当時はSARS(重症急性呼吸器症候群)の影響で
日本人がほとんど中国へは行かない時期でしたので、
恰幅の良い私(中国では太っている人をお金持ちだと見なします)をめがけて
現地の商人たちの“営業”が一斉に始まったのです。
モノは間違いなく良かったので、私はそこで現在も自宅で使っている
6畳ほどのシルクのカーペットを買いました。

最初、絨毯を売る男性は日本円で150万円くらいと言ってきました。
私も中国人に負けるものかと、先祖の商人の魂を奮い立たせました
(私の父方も母方も、武士と商人の両方の出です)。
言い値で買うつもりは毛頭ありません。かなり値切ってやろうと思いました。

「いや~、どうしようかな」と言って悩んだ挙句、
最後には「要らない」と言いました。
それでも相手は絶対に値段を下げようとしません。
すると私は「わかった。もう帰るね」と切り出すと、
彼は日本語を知っていたのですね。
「シャチョーさん、チョットマッタ。チョットマッタ。
シャチョーさん、ワカッタ。ワカッタ。ワカッタよ」と言って追いかけてきました。
そんな彼に私は通訳を介してこう言いました。
「あのね、今SARSで大変でしょ? 君がこれを私に売らなかったら
君の家族は大変な思いをすると思うよ」。すると「ワカッタ、イイヨ」と言って、
結局、手持ちの50万円ほどで買うことができました。

絨毯は大きくて、持って帰ることができなかったので、日本に送ってもらうことにしました。
その時に驚いたことがあります。
なんと、絨毯の裏にマジックで自分のサインを書かされたのです。
最初は、「何を言っているのか?」と思いましたが、
サインをすることでそれが間違いなく買ったものを送ったという証になるそうなのです。

本当に送ってくるかどうか心配でしたが、ちゃんと自宅へ届きました。
きちんとした商人は、人を騙すといった卑怯なことはしないのだなと感心した次第です。
このとき買った絨毯は、今でも家のリビングで活躍しています。

敦煌で値切って買った絨毯は、
今でも自宅リビングで快適に使用している。
         (2002年 中国・敦煌)

敦煌はとても魅力的な場所でした。
観光でラクダに乗ることができるのですが、
いわゆるオアシスの周りをゆっくりと周遊します。
私が乗ったフタコブラクダは背がとても高く、190-230㎝はありました。
背中に乗ったのですが、ラクダが立ち上がるときに大きく揺れるので
落ちそうになるのです(苦笑)。面白いというより恐怖でした(笑)。

食事の際、中国人女性が天女の羽衣の舞(飛天、敦煌舞)
を披露してくれたのには感動しました。
飛天を見ると、日本の昔話に出てくる天女の羽衣は
中国から来たものだということがすぐにわかります。
ガイドさんから聞いたのですが、昔はこれを男性が踊っていたそうなのです。
理由はわかりませんが、今は女性が踊るようになったそうです。
商売的な意味合いからかもしれませんね。

羽衣の舞を舞う天女たち
      (2002年 中国・敦煌)

さて、敦煌を後にした私たちは西安(昔の長安)へと向かいました。
司馬遼太郎の小説『項羽と劉邦』の舞台にもなっていますが、
西安は咸陽(カンヨウ)とも呼ばれていました。
西安は歴史の宝庫でして、秦の始皇帝の墓、兵馬俑(へいばよう)などもあります。
正直なところ、兵馬俑には少しがっかりしましたが、
それでもここがあの「咸陽」(秦の都)で、
その後の「長安」(漢帝国の都)も
最初はここにあったのかと思うと、感慨深いものがありました。

長安は、特に唐の時代、大帝国の首都として世界最大の都市にまで成長しました。
当時、ヨーロッパは暗黒の中世でしたから、
最大の都市でも5万か10万くらいの人口しかいませんでした。
同じ時代に唐には100万人もいたのです。
西安は山の中に位置しますが、まさに長きにわたって「世界の都」だったのです。

そんな西安を堪能した私たちは、最後に上海を経由し、日本に帰国しました。
第二海援隊グループでは、今までに海外ツアーを幾度となく実施してきましたが、
このツアーは最も過酷でした。
体力面、食事面、衛生面、どれをとってもダントツの過酷さでした。
だからこそ、思い出に残っているということもあるでしょう。
率直に面白いツアーでした。
私も66歳になり、さすがに「あのツアーをもう一度」と言われても無理ですが、
若い時に行っておいて本当に良かったと思っています。

今年96歳になる父は、志願兵として戦争にも行き、
戦後勤めた国鉄を退職した後は自転車で世界中を回るなど、
私よりもずっと多くの深い経験をしてきた。
どんな立場の人にも礼儀を尽くしていたことが、
父を支えているのかもしれない。
      (2009年 イタリア・アマルフィーにて)