天国と地獄
 

2021年7月5日更新

第170回  中国と私 <その1>

今回は、中国について話してみたいと思います。
今や中国はアメリカと覇権を競い合う大国に登りつめたわけですが、
皆さんは中国についてどういうイメージをお持ちでしょうか?
「尖閣諸島を狙っている中国」「習近平が独裁している中国」
あるいは「香港を弾圧する中国」……。
こうしたニュースに日頃触れる日本人にとって、
おそらく近年の中国はあまり良い印象ではないのではないかと思います。
ただ、人類すべてが滅びるということにでもならなければ、
日本という国が独立してあり続ける限り、
中国も隣国として存在し続けるでしょうし、
私たちは中国とは本当に近い隣人として、
これからも長く付き合っていかねばならない、ということだけは確かだと思います。
そんな中国という国について、私が体験したことをお話しして行きたいと思います。

私が初めて中国に行ったのは、恐らく1997年だったと思います。
私の親しい知人から「中国でビジネスをやろうと思っているので、
一緒に中国を見に行ってくれませんか?」と誘われたのがきっかけです。
北京の空港に着いてまず驚いたのは、何十年前に建てられたのかというような、
もうボロボロの空港だったことです。
現在では非常に近代的できれいな空港になっていますが、
当時はまだボーディング・ブリッジもなく、移動式のタラップで、
トイレなども「戦前から使っているのか!?」というほど恐ろしく汚いものでした。
北京市内も、現在でこそ高層ビルをはじめとしたすごい建物群が立ち並び、
道路もきれいに整備されていますが、
当時は立派な建物と言えば人民大会堂と北京飯店(ホテル)くらいしかなく、
あとはボロボロの街並みばかりでした。

ただ、一つとても印象的だったのは、昼ご飯を食べに連れていってもらって
たまたま入った街中の店でのことです。
そこはまるで、崩れかかったお寺のような四川料理の店でした。
雨漏りするためか、ビニールシートみたいなものが屋根に敷いてありました。
麻婆豆腐などが出てきたのですが、
そこで食べた麻婆豆腐が、なにしろ人生で一番美味しかったのです。
店はボロボロですし、そしてやたらと辛かったのですが、
とにかく美味しかったのを鮮烈に覚えています。

現在では、その店もきれいなビルに入ってしまったかもしれませんが、
当時の中国というのはどこもそんな感じで、
食べ物からは深い文化や歴史を感じさせるものの、
街並みはボロボロでせっかくの良さがガレキに埋もれているかのような状態でした。
もちろん、まだファーウェイもアリババもまだなかった時代ですから、
現在のように興隆著しい中国からは想像もつかない、本当に貧しい国でした。
ただ逆に、今ではそんな中国の姿を見ることはもうできませんから、
その頃の中国を訪れておいてよかったと思っています。

と、書いていて思い出しました!
実は北京に行く前、1995年に上海を訪れていました。
当時、私が書いた本を出版していた「総合法令」という出版社から
「本を書いてくれ」という依頼を受け、取材を兼ねて数人で上海に行ったのです。
上海と言えば、今や東京をも凌駕する超高層ビル群や
百万人は住めるかという超巨大マンション群を擁するメガシティで、
その中心地である浦東(ほとう)には有名な高いテレビ塔が
街のシンボルとしてそびえ立っています。
しかし、当時の浦東(ほとう)にはまだそんなビルなど一つもなく、
昔の古い町並みを壊している現場を、ただひたすら見ていたことを覚えています。
都市再開発の話を聞いても、「え!? ここにそんなビルが建つんだろうか?」
と思った覚えがありますが、わずか26年前にはそんな街だったのです。

帰国の時にも、なかなか印象的な経験をしました。
タクシーを使って空港に向かい、到着するや50歳ぐらいでしょうか、
私より年配のおじさん数人(当時、私は38~39歳)が空港の汚いカートを持ってやって来て、
「押してやるから」と勝手に私の荷物を運んでしまったのです。
されるがままにチェックインのカウンターまでついて行くと、
そのおじさんたちが「しぇんえん。しぇんえん」と言うのです。
私は最初、中国語の挨拶かなにかと思ったのですが、どうやら違いました。
日本語で「1000円、1000円」と言っていたのです。
要は、「チップを1000円くれ」ということでした。
同行者たちは「あげる必要ないよ」と言っていましたが、
私は「このおじさんたちはこれで食べているのだから」と1000円をあげると、
すごく喜んでいたのを覚えています。
彼らはそういう風に、空港についた日本人にチップをもらって食べている人たちだったのです。

今でも中南米やアフリカなどの途上国に行けば、そうした人たちは見かけるでしょうが、
今の中国ではまずありえないお話ですよね。
今では、逆に中国人の方がお金持ちは多いですし、
日本人も当時に比べて金持ちという印象はなくなった
(というより、実際のところ中国人より金持ちは少なくなった)わけですから。

私はこの上海取材をもとに、
1996年に「徳間書店」から『チャイナ・プロブレム』という本を出版しました。
中国が将来、日本や世界にとって最も厄介な国になる、ということを書いたのです。
中国本土での大気汚染などの環境問題が日本にも波及すること、
あるいは軍事的伸長による周辺国への侵略の脅威などに言及していますが、
その当時はそんなことを言っている人は誰もいなかったと思います。

当時、徳間書店には徳間康快さんという有名な創業者がいました。
読売新聞の記者からのし上がり、
あの「となりのトトロ」で有名な宮崎駿監督を育て上げ、
スタジオジブリの初代社長になり、
出版業にとどまらず、実に様々な事業を手掛けていずれも成功させるという、
非常にやり手の人でした。
その徳間書店から、私は『大不況サバイバル読本』という本を93年に出し、
それが大ヒットし、それで独立できたのです。

その徳間康快さんは、どういうわけか私のことを気に入って下さり、
とてもよくして下さいました。その後、私が第二海援隊を立ち上げ、
会員向けに経済トレンド講演会を開催するにあたって
どこか良い会場はないかと徳間さんに相談すると、
気前よく「徳間ホール」を貸してくれたのです
(現在は売却され「スペースFS汐留」に改称)。
そこは、ちょうど新橋の「ゆりかもめ」のすぐ近くにある徳間書店本社ビルの中にあり、
規模としてはそんなには大きくない(収容人数が60~80人程度)ホールでしたが、
イスはフランスから取り寄せた一脚60万円位のものを置き、
通常なら外部の人には誰にも貸さないという特別な会場でした。
「となりのトトロ」などの、徳間さんが手掛けた新作映画ができあがった時、
彼が一人でそのホールの真ん中に座って試写会をするときに使ったといわれる場所です。
それを私には貸してくれたのです。非常にありがたいことでした。

徳間康快さんは、私にとって恩人のひとりであり、
会うといつも「浅井君、お前は面白いやつだな」と言って、
「竹ちゃん(竹下登元首相)でも慎ちゃん(元東京都知事の石原慎太郎氏)でも、
会いたい人がいたら誰でも会わせてやるよ」
「いつでも俺のところに遊びに来い」と言ってくれたものです。
でも、私は政治家や有名人と人脈を持つことには特に興味がなかったので、
「ありがとうございます」と一応お礼を言って、頼んだことは一度もありませんでした。

この徳間さんという方は、実はものすごい中国通で、中国が大好きで
当時からこれから中国が伸びると信じ、
中国のいろいろな人とも積極的に会っていました。
とにかく「中国は素晴らしい」という考えの持ち主で、
徳間書店の社員もそのことはよく知っていました。
そのため、私が「中国は脅威になる」という内容で
『チャイナ・プロブレム』を出版しようとした時、
編集担当からはあからさまに
「無理ですよ。徳間康快さんがそんな本、許しませんよ」と言われました。
結局、私は徳間さんに直接「これは、私個人の考えなので」と言って説得し、
何とか出版にこぎつけたのです。
ただ、今から思うとこの本は、ある意味予言に近い本だったと思います。
でも、当時はそんなことは誰も言っていませんでしたし、
徳間康快さんも「そんな心配をする必要はありませんよ」と、
でき上がったその本を見て笑っていました。
もし、徳間さんが現在もお元気であれば、
なんとおっしゃっただろうかと思わずにはいられません。

1996年に徳間書店から発行した「チャイナ・プロブレム」。
その問題提起は、まるで過去から現在を見透かしていたかのようだ。
中国については、『文明と経済の衝突』など間接的に取り上げたものを含めると、数冊上梓している。

私は早い時期から中国には関心を持ち、取材に出掛けていた。
今では日本を凌駕する面も多数持つ中国だが、
当時はその力も危険性もあまり問題視されていなかった。
   (2021年5月 東京・御茶ノ水にて)