天国と地獄
 

2021年5月13日更新

第165回  大学時代の思い出<5ヵ月半に亘る海外遊学編⑨>

そうこうするうちに、とうとう帰国の途につくのですが、
なにしろ当時はHISのような旅行業者はありません。
格安航空券(もちろんエコノミーです)を安いところで買い、帰りは南回りで帰国しました。
ロンドン、次がヨルダンの首都アンマン、それからバーレーン、
インドはボンベイ(ムンバイの旧名)、その後バンコク、香港を経由して、
ようやく日本にたどり着きます。全部で20数時間かかりました。

バーレーンまではロイヤル・ヨルダン航空、そしてインド航空か何かに乗り換え、
バンコクからはエア・サイアム(シャム航空)に乗りました。
中でも、ロンドンからアンマン、アンマンからバーレーン間がひどかったです。
ちょうどクリスマスの時期で、国に帰るアラブ人と思われる出稼ぎ労働者が多く、
私はエコノミーの一番後ろの方の席で、横の席はそのアラブ人たちでした。
信じられないことに、そのアラブ人が床に唾を吐くのです。
目の前の床に痰や唾をペッペッと!
当時、私は貧乏旅行中の学生でお金はありませんでしたが、
清潔さだけは心掛けていたのでこれには本当に驚きました。

当時も中東は治安が悪く、アンマンでは武装した軍が乗り込んできて、
乗客の荷物を調べました。私は日本人なのでほとんど調べられませんでしたが、
アラブ人たちは大変です。出稼ぎの帰りですから、
頭陀袋(ずだぶくろ)のようなものに荷物やお土産をたくさん詰め込んでいます。
それらを全て調べるため、3時間もかかったのです。
その間、ずっと飛行機から降ろしてくれません。
私はすることもなく、窓からずっと古いボロボロの夜の町を見ていたのを覚えています。

その後、インドからバンコクへ飛んだのですが、飛行機の到着が遅れたため、
予定の飛行機に乗り継げませんでした。
このような場合、航空会社がホテルを手配してくれます。
結果、私はこの6ヵ月の旅で一番良いホテルに泊まれることになりました。
今だったらどうってことのない空港近くのホテルなのでしょうが、
その時の私にとっては、
「おぉー、すげぇ! バスタブがある! シャワーも出る! シャワーがタダだ!」
と大いに喜びました。

そこで、またもや忘れられない出来事に遭遇します。
ホテルに着くと、食事券をくれました。
素晴らしい近代的なホテルのレストランで「こんなところで食事ができるんだ!」と、
喜び勇んで夕食を食べに行きました。

ところが、そのレストランで悲惨な目に遭ったのです。
まず、サラダとスープ、そしてメインの肉料理か何かを頼みました。
オーダー後、ウェイターが向こうのキッチンのシェフに向かって何やらニヤッとしています。
「何だろう?」と思いましたが、その時はわかりませんでした。

食事が出てきて、謎が解けました。
最初にサラダを食べたのが間違いでした。
何とそのサラダ、すべて生の唐辛子をカットしたものだったのです!
たぶん、貧乏学生をちょっとからかってやろうとでも思ったのでしょう。
私はその「唐辛子サラダ」をひとくち、口に入れ飲み込んでしまったのです。
もうそれっきり、スープも肉も食べられなくなりました。
あまりの熱さと辛さで、上あごと脳の間をずっと電流が流れている感じでした。
その晩はほとんど眠れず、泣きながら部屋で過ごすはめになりました……。
一生忘れられない思い出です。

次の日は一日時間があったので、
その時たまたま知り合ったイギリス人の若い夫婦と一緒に人力車に乗り、
バンコクを観光したのを覚えています。

最後の経由地は、香港です。
今と違い、昔の香港の空港はスリル満点で「世界一危ない空港」と言われていました。
着陸寸前には香港のビル街のすぐ上を、90度くらいぐわーっとターンし、
ターンしきったところで着陸するのです。
最後に翼を傾ける時に、傾けた翼がビルの屋上にぶつかりそうになるほど接近します。

香港を出発し、ようやく日本に帰って来ました。
まだ成田空港がなく、すべて羽田空港の時代です。
行きは親戚全員が見送りに来てくれましたが、
帰りも確か2~3人は迎えに来てくれたと記憶しています。

帰国後、1週間くらいはボーっとしていました。
イギリスなどヨーロッパの食事に慣れてしまったのか、
最初に納豆を食べた時、変な感じがしたのを覚えています。
そして、あれほど嫌いだった“コーンフレーク”を牛乳に浸して食べたくなり、
わざわざ買ってきて食べました。
また、イギリスで常温のビールを飲んでいたので、常温のビールにも慣れてしまいました。
何でもそうなのです。
最初は「何だ、これ?」と思っても、慣れるとそれが自然になってしまうものです。

帰国後、3月までは休学していたので塾を再開しました。
約半年間、塾を休みにしていたのですが、生徒たちは皆、戻って来てくれました。
待っていてくれたのです。

その年の3月だったと思います。親友の菅原と丹沢に登山に出かけました。
いや、よく行ったなと思います。プロが登る山ですから。
丹沢は東京からも近く、それほど高くない山ですが、すごく遭難が多いのです。
私たちも迷ってしまい、塔ノ峰だったでしょうか、丹沢の山小屋で一泊しました。
アップダウンが激しくて、なかなか距離(高さ)を稼げず、本当にきつかったです。
ちょうど20歳の頃で、足は強かったのだと思います。
何しろ、ヨーロッパではとんでもない長距離をずっと歩いていましたから。

翌年にはアメリカに行き、その後も毎年塾で稼ぎ、
大学をやめるまで毎年、夏は40日間ヨーロッパに出かけました。
久しぶりに帰国すると、もう浦島太郎です。
当時はインターネットもありません。
向こうでは日本の新聞も読めませんし、日本のテレビも見ないので、
帰国後ニュースを見てもわからないことばかりです。
「日本は、こんな風になっていたんだ」と感じることがたびたびありました。

海外滞在は、孤独との闘いでもありました。
遠い異国の地では、日本にいる身内を頼るのは簡単ではありません。
病気になれば、行き倒れて死んでしまうかもしれません。
ポイントは、やはりお金です。持っているお金は限られますから、
小切手やトラベラーズチェックを少しずつ大事に使いました。
毎日、いくら使ってあといくら残っているか、
それをどう分散して使うかを考えていました。
旅行が終わって残金を調べると、わずか5000円でした。
5000円というと、旅行中の2日分の予算です。

ヨーロッパではユースホステルなどに泊まるのですが、結構盗難があります。
カバンなどに入れておくと危ないので、パスポート、航空券、
トラベラーズチェックは寝る時も首から下げて下着の下に入れていました。
母親に薄いガーゼで作ってもらった、首から下げる袋に入れていたのです。
そのため、汗でパスポートも航空券もトラベラーズチェックもゆがみ、
色が染みてしまいました。トラベラーズチェックを銀行に持っていくと、
「何だ、これは?」とけげんな顔をされました。

私の場合、不思議なことに10年ごとに大きな区切り、人生の節目が訪れました。
10歳で勉強のやり方を覚えて学校の成績が上がり、
小学校5~6年の時は“神童”と呼ばれていました。
学校の先生でさえ知らないことを知っているような子供だったのです。
20歳でヨーロッパに行き、英語を多少覚え、危機管理能力を身につけました。
30歳で「NORAD」に行き、新しい取材の世界を見つけ、それを元に自分で本を書きました。
40歳で「株式会社 第二海援隊」を立ち上げ、
50歳で会社と自分の基盤が固まり、
60歳でボランティアを始めました。
そして、あと4年ほどで70歳です。70歳で、また変化があるのでしょう。

20歳のヨーロッパ旅行は、その後の私の人生を切り開いた一つの大きな区切りだったのです。
本当に、行って良かったと思います。
以前(コラム第147回)も書きましたように、
当時私は“宇宙船地球号を守る会”という環境問題サークルを立ち上げたのですが、
意見が対立して思うように行かず悩んでいました。
退学や自殺まで考えましたが、そんな時、高田馬場にある芳林堂書店で偶然、
『世界貧乏旅行のすすめ』という本を読み、「俺も行ってみよう!」と思い立ったのです。

お金を貯め、航空券の手配から語学学校の入学手続きに至るまで、
ありとあらゆる手配を全部、自分でやりました。
パスポートの取得ひとつ取っても、今と違いすごく大変でした。
航空券にしても“リコンファーム”、つまり「その飛行機必ず乗る」という確認を、
航空会社に2回しなければなりませんでした。
3週間前と出発直前の2回、ボーンマスの田舎の公衆電話からロンドンに電話をかけました。
全て自分でゼロから始め、そのような細かいことも全部自分でやったのです。
しかし、そんな大変だったことも今となってはよい経験・思い出です。

海外旅行をするだけでも、今とは全く違って大変な手間がかかり、
困難な時代だった。そのような状況下で、最初は言葉も大して通じない中、
半年もヨーロッパ各地に滞在したことは、私を支える大きな礎となっている。
(当時の行程を記した手帳とポストカード、
       ユーレイルパスなどを貼ったアルバムより)