天国と地獄
 

2021年5月6日更新

第164回  大学時代の思い出<5ヵ月半に亘る海外遊学編⑧>

ヨーロッパを旅した後、再びロンドンからボーンマスへ戻りました。
10月末か11月初旬だったと思いますが、もう本当に寒かったことを覚えています。
ヨーロッパは秋になるとどんよりとした天気が多く、雨が降らなくても底冷えがするのです。

列車に乗り2時間半くらいでボーンマスに着き、
3軒目のホストファミリーの家に向かいました。
1軒目はボーンマスの隣り町・プールにあるポンドさんという大工さんの家でした。
2軒目はお子さんがいないブレイトンさんの家でした。
料理がすごく美味しくて、カメラを教えてもらったり、本当に親切な人でした。

そして3軒目は、ボーンマスからかなり北上した郊外にありました。
その家のホストはおばあちゃんで、当時もう80歳近かったのではないでしょうか。
とても太っていて、いかにもイギリスのおばあちゃんという感じでした。

当時、イギリスの庶民は日本についてあまり詳しく知らなかったようです。
私の部屋には世界地図が貼ってあったのですが、
そのおばあちゃんが「日本はどこにあるんだい?」と聞くのです。
私が世界地図を指して「ここだよ」と言うと、
「へぇ、中国の何州なんだい?」と言うのです。
そのおばあちゃんは日本が独立国家だということを知らなかったのです。
まだ未開国だと思ったのではないでしょうか。
当時は日本製品が世界を席巻し始めた頃で、
経済に詳しい人などは日本が経済大国になりつつあることを知っていたとは思いますが、
一般の人の認知度はその程度でした。

その家にはおじいちゃんもいましたが、二人は夫婦ではありませんでした。
おじいちゃんの名前は“エルフ”といい、とても良い人で私のことを可愛がってくれました。
おばあちゃんほどではないですが、やはり小太りで少し膝が悪かったのか、
軽くびっこを引いていました。
両方ともつれあいと死に別れてしまったそうで、昔からの知り合いだったのかもしれません。
家賃をエルフさんが出して、一緒に住んでいるという感じでした。

私の本名は関喜良(せきのぶよし)なのですが、
英語では“NOBUYOSHI”という発音が難しいようなのです。
たまたま語学学校で“の”から始まる
“ノーマン” (ノルマン人という意味なのでしょうね)という単語を習った私は、
「私を呼ぶときはノーマンと呼んでくれ」と伝えました。
エルフさんは最初、「“イエスマン”がいい!」と言っていましたが、
結局、ノーマンというのが私のあだ名になりました。
ちょっと肌寒い時期でしたが、
おばあちゃんの孫かひ孫を連れて海水浴に行ったことも覚えています。
エルフさんの話はとても面白く、私にいろいろなことを教えてくれました。
中でも印象的だったのは、彼が5~6歳頃の話です。
彼が住んでいる家の裏の空き地で、大人たちが飛行機を飛ばしていたそうです。
その飛行機は5mか10mくらい上昇すると、すぐに落ちてしまったそうです。
落ちて壊れた飛行機を大人たちが直すのをずっと見ていたと言っていました。
その後、彼は第一次世界大戦に行ったそうです。
第二次世界大戦ではなく、第一次世界大戦です。
彼はトラック隊の運転手として参加したので生きて帰れましたが、
兵隊だったら亡くなっていても不思議ではありません。

第一次世界大戦というのは、本当にひどい戦争でした。
毒ガスも使われ、イギリスの兵隊たちの中には失明した人がたくさんいたそうです。
それまでの戦争というのは、騎馬隊と兵隊が突撃し、銃で撃ったり、
銃剣突撃をするなどして、ほとんどが短期間に終わるものでしたが、
第一次大戦では塹壕を張り巡らせた陣地を取り合う局地戦が各地で行なわれ、
戦闘が長期化しました。塹壕を掘り、鉄条網を張り巡らせ、
お互いに大砲を打ち合い、最後は突撃するのです。

兵士は塹壕の中にいるわけですが、雨が降ると塹壕の中に水が溜まり、
ぬかるみになります。冬などは、凍る寸前です。
足はずっと冷たい泥の中に浸かり、その上、夜通し砲弾が飛んでくるのです。
病気になる人や発狂する人が続出しました。
私は、過去の戦争の中で最もひどいのが第一次大戦だと思います。
あのヒトラーでさえ、戦場では毒ガス兵器は使わなかったそうです。
若き日のヒトラーも第一次世界大戦に従軍しており、
毒ガス兵器がどれほどひどい被害をもたらすかを知っていたからだと言われています。
そのような話を聞いていましたので、
私にとって第一次世界大戦は悲惨な戦争として記憶にこびり付き、身近に感じられるのです。

以前のコラムで書きましたが、
ブリジットという友人を訪ねてフランスのコメルシーという町に行った時に、
ブリジットのお父さんに最高級フランス料理店に連れて行ってもらいました。
レストランの帰り道、小高い丘にすさまじく大きなオベリスクが立っているのが見えました。
「あれは何?」と訊いたところ、
「ああ、ここは第一次世界大戦最大の激戦地で、ここで数万人が死んだんだ。
この丘を取り合うためにアメリカ軍とドイツ軍が戦った。
それはそれはひどい戦いで、いまだに掘ると米軍の骨が出てくるんだ」と教えてくれました。
このコラムを読んでいる多くの人にとっては、
第一次世界大戦なんて歴史や教科書に出てくるどこか遠い出来事に思えるかもしれません。
しかし私は、その当時実際に戦争に関わった、国も立場も違う
いろいろな人から話を聞いているので、とても他人事とは思えないのです。
今後、あのような戦争が起きないことを切に祈っています。

日本海があるので意識しづらいですが、実は日本のすぐ裏には北朝鮮、
中国、ロシアという核兵器を保有する独裁国家が3つもあるわけで、
このような国は世界でもあまりありません。
たとえば、アメリカなどは太平洋を挟んで中国やロシアとはかなり離れています。
ベーリング海峡を挟んでアラスカはロシアのすぐ近くですが、
アラスカはアメリカ本土から離れています。
日本の場合はすぐ近くにあのような国々があり、大きな脅威なのです。

戦争は絶対にやってはいけないことですが、
残念なことに人類の歴史はほとんど戦争の歴史といってよいでしょう。
技術も戦争によって発展してきました。
インターネットも軍事技術から始まっています。
過去の多くの物事が軍事と関係しているのです。
これを、どう理解するかです。
知らんふりしたり、平和を守るために軍事の研究など必要ない、というのは大きな誤りです。
軍事や戦争について研究しなければ、平和は守れないのです。

戦後の日本では、昭和初期から太平洋戦争終戦までは軍部がのさばり、
無謀な戦争をしてしまったため、戦争や軍事を研究することをタブー視する風潮がありました。
しかし、先ほども言った通り、戦争を抑止するには戦争の研究が不可欠です。

ヨーロッパは地続きですから、
敵国から戦車などが乗り込んでくればどんな国でもたやすく占領され、
最悪、なくなってしまうという現実があります。
ナチスに占領されたフランスでも、
レジスタンス(地下抵抗運動)などの形でドイツ軍に抵抗しました。
中国も、何回も異民族に征服されてきました。

やはり海があったという点で、日本は非常に運が良い国だと思います。
モンゴル(元)が攻めて来た時も、九州の一部をかすった程度で済みました。
太平洋戦争の際も空襲は受けましたが、沖縄を除き、
実際に本土に米軍(連合軍)がやって来たのは戦争が終わってからです。
戦後、彼らは子供たちにチョコレートをくれたり、
占領軍としては比較的良い扱いをしてくれたと思います。
占領軍の行動というのは、普通は本当にひどいものです。

話は最後のイギリス滞在に戻りますが、
ボーンマスには1ヵ月半~2ヵ月近くいたでしょうか。
ボーンマスでは、語学学校に通いました。
夏は短期間のちょっとした語学研修みたいなものだったのですが、
秋に戻った時には「キングス・カレッジ・オブ・イングリッシュ」という
古い建物の語学学校に通いました。
ただ、そこも日本人が多く、結局日本人同士でつるんでしまいます。
半年近くヨーロッパにいましたが、そのためかあまり英語が上手くなりませんでした。
ですから、今でも私の英語は本格的なものではなく、あいさつに毛がはえた程度の英語です。
しかし、外国人に対しては全然気おくれませんし、どんな交渉もできます。
その点では、やはりヨーロッパに行って良かったなと思っています。

前にもお話ししたと思いますが、
日本人の友人とボーンマスの映画館に映画を観に行ったことがあります。
確かイギリスの映画だったと思いますが、鑑賞中、不思議なことが起きました。
ジーっと映画を観ていると、イギリス人がワァーと笑うのです。
日本人の私たちには、なぜ面白いのかが全くわかりません。
私たちは互いに「おい、何が面白いんだよ?」
「いや、わからない。何なんだろうな?」と首を傾げ、
とりあえず少し経ってから「あはは、あはは」と形だけ笑いました。
センスというか、語学だけの問題ではないのです。
たとえば、東京の落語と大阪の漫才などを比べても、笑いの質が違いますよね。
それと一緒だと思います。感覚とか文化が違うのです。

イギリスでは学校に行けば日本人はいましたが、
それ以外は周りにはイギリス人しかいません。
町を歩いていてもイギリス人ばかりです。
ず~っとイギリス人ばかり見ている中、
パッと鏡を見ると自分だけが黄色人種であるということにすごくショックを受けました。
日本にいたらわかりませんし、旅行で行ったくらいでもわかりませんが、
やはり長く住んでみてはじめて人種間の違いというものを感じ、
非常にショックを受けたことを覚えています。

 

第一次世界大戦について、国も立場も違ういろいろな人から
話を聞いている私は、その悲惨さを常に身近に感じている。
海外での経験の全てが、戦争は絶対にしてはいけないと考える土台になっている。
(2021年4月 東京・世田谷区にて)