天国と地獄
 

2021年4月26日更新

第163回  大学時代の思い出<5ヵ月半に亘る海外遊学編⑦>

ローマを後にした私は、「コモ」という町に行きました。
私はヘミングウェイが好きだったのですが、
彼の有名な小説で第一次世界大戦を描いた「武器よさらば」
(映画のタイトルは「戦場よさらば」)という作品があります。
主人公の男性と女性が湖のボートを漕いでスイスに逃げるのですが
(最後に女性が死んでしまったと記憶しています)
その舞台がコモという町だったのです。
その「コモ湖」にどうしても行きたかったのです。

コモは本当に小さな町で、その日はとても寒い日でした。
ここに限らずヨーロッパは秋になると晴れの日がほとんどなくなり、
底冷えする日がほとんどです。
そんな寒空の下、私は駅からリュックを背負い歩きに歩いて、
ようやくユースホステルにたどり着きました。
そこでは二つ、思い出があります。
ひとつは、そこで知り合ったヒッピーたち(当時はヒッピーがたくさんいました)
と一緒にイタリア料理を食べに行ったときのことです。

少し記憶が曖昧なのですが、無断でサービス料をつけられたのか、
最初に言っていた額より何リラか高く要求されたのです。
すかさず、学生たちはウェイターを呼んでクレームを付けました。
それでもウェイターは「サービス料は仕方ないんだ」と取り合ってくれません。
すると学生たちは、食べ終わったあとの食器を割らない程度に
フォークでカーン、カーンと叩いて抗議し始めたのです。
十数分は続いたでしょうか。
私はこれを見て感心しました。彼らの「主張」に対してです。
日本人でしたら「しょうがないな……」とあきらめてしまう人が多いと思いますが、
彼らは納得できないことにはとことん主張するのです。あれは印象的でした。

それともうひとつは、
ユースホステルの中庭で、アメリカ人が古い楽器を演奏していることでした。
ギターともちょっと違う楽器を弾いていて、
それはまるで、映画の世界のようでした。
彼も決して裕福ではなさそうでしたが、風情があり、心が豊かそうな人でした。
とても、幻想的な光景を醸し出していたのです。
今でも記憶に残るワンシーンでした。

コモを後にした私は、スイスを超えてミュンヘンに行きました。ミュンヘンでは偶然にも、
あの有名な「ビール祭り」(ドイツ語でオクトーバーフェスト)が開かれていました。
ミュンヘン駅から列車で20分くらいの郊外にあるユースホステルに泊まったのですが、
そのときにカルチャー・ショックを受けました。
そこは、決して高級住宅街ではなく、いたって一般的な住宅街だということなのですが、
どの家も見たことがないほど立派だったのです。
どの家も日本の住宅の3倍の大きさはあったと思います。
しかも、庭も歩道も綺麗でした。私は、「日本の住宅って、一体何なんだろう?」
「日本には都市政策という概念はないのかな?」などと訝しく思いました。
当時の日本は、経済成長が著しかったので世界から注目されていましたが、
庶民の住環境はドイツの足元にも及ばず、こんなに違うんだなと驚きました。

ここでもユースホステルで出会った若者と
オクトーバーフェスト(ビール祭り)へ行ったのですが、
そこでアメリカ人と思しきカップルのバックパッカーに出会います。
私が「アメリカ人ですか?」と訊ねると、死ぬほど嫌な顔をして
「違う! うちらはカナダ人だ! あいつらと同じにしないでくれ!」と言うのです。
私はそれまでアメリカ人がこんなにバカにされているとは知りませんでした。
もちろん、昨今は事情が異なるでしょう。
しかし、当時はイギリス人も「アメリカの英語なんて英語じゃない!」と
アメリカ人のことをとても馬鹿にしていたのです。

そんなアメリカへの印象が変わり始めたのは、
アメリカがICT(情報技術産業)で躍進してからではないでしょうか。
マイクロソフトやアップルなどの新興企業の存在が
アメリカを先進的なイメージに変えたのでしょう。
2000年前後のドットコム・バブルの頃には、
イギリス人の若者があえてアメリカ訛りでしゃべっていました。
隔世の感があります。
昔はアメリカ人がイギリスに来てしゃべると、
「おい! 田舎者が来たぜ」みたいな雰囲気がありました。
ベネチアを舞台にした「ツーリスト」という映画がありますが、
主人公の二人が有名な「ダニエリ」というホテルにチェックインする際、
フロントの男性が「アメリカ人がっ!」と馬鹿にしたような顔をしています。
私がびっくりしたのは、カナダ人もアメリカ人が嫌いなことでした。
私たちにしてみれば、アメリカとカナダは隣国同士ですし、
一見しただけではどっちがどっちか外見ではわからないくらいです。
ところが、カナダ人があれほど嫌な顔をして
「アメリカとは一緒にしないでくれ!」と言うのです。

この旅で、私はたくさんのアメリカ人と出会い、親しくなり、住所を交換しました。
私は律儀な性格なので(自分で言うのも変ですが)、帰国後、全員に手紙を書きました。
ところが、アメリカ人からは一通も返事が戻って来ませんでした。
「なるほど。アメリカ人とはそういう国民性なのだな」と感じたことを覚えています。
そのときはワイワイ楽しく過ごすのですが、あとは“きれいさっぱり”といった具合です。
ある意味、気持ちのいいほど“あと腐れ”がないようにも思います。
それに対して、ヨーロッパ人は出会って最初こそ“つっけんどん”な印象を持ちますが、
住所交換するまで親しくなると、手紙を出した際にほぼ全員から返事が来るのです。
ヨーロッパ人とアメリカ人は、同じ白人でも全く違う民族のようですね。

話を戻しますが、ミュンヘンのオクトーバーフェストでは、
ウェイターの太ったおばさんが2~3ℓ入りのジョッキ6個~7個を両腕に抱え、
テーブルに「ドン!」と置いていく光景が鮮明に残っています。かなり、豪快でした。
本場のフランクフルトソーセージをほおばりながら、よく食べ、よく飲み、楽しく騒ぎました。
その日は終電ギリギリになってしまいましたが、私は多少ドイツ語が出来たので、
「中央駅はどこですか?」と周囲に聞きながら
(ヨーロッパには駅がたくさんあり、わかりにくいのです)、
何とか駅までたどり着いたことを覚えています。
街の人は皆さん豪快に酔っぱらっていたので、
道を聞くのも一筋縄ではいきませんでした(苦笑)。

ミュンヘンのあとはフランクフルトかどこかに寄り、そこからアムステルダムに行きました。
アムステルダムではアンネフランクの家にも行きましたが、
ゴッホ美術館などもまだなかった時代ということもあり、
アムステルダムでの観光はあまり記憶に残っていません。

そのあとにジュネーブ、バルセルナ、カルカッソンヌ、
そして最後にマルセイユかアビニヨンあたりからフランスが世界に誇る
「ル・ミストラル」という超豪華特急列車に乗りました。
ル・ミストラルは、今は現役を退いていますが、
秋が深まったころのローヌ渓谷に吹く突風と同じくらい速いという触れ込みから
“ミストラル(突風)”という名前が付けられたそうです。
ル・ミストラルは世界的にも有名で、
当時としては世界一の速度(時速150~160キロ)を誇っていたと思います。
その後、日本の新幹線に抜かれてしまうのですね。

ユーレイルパスを持っていると1等車も少しの追加料金で乗れたので、
1等車を予約しました。
6人乗りのコンパートメント(個室)という、今ではあまり巡り合わないタイプの部屋です。
そこに私がよれよれのジーンズにリュック姿で乗り込むと、
先客として見るからに元貴族のような初老の夫婦がいました。
入ってきた私を見るなり、嫌そうな顔をされました。
室内ではお互いに目を合わさずに過ごしました(苦笑)。
やはり、人種差別的なものもあったのだと思います。

夜の10時頃、パリに着きました。
金銭的に予約のできるホテルなどは泊まれませんので、
10月末の底冷えのする夜でしたがリュック姿で駅の周辺をウロチョロしました。
しかし、空いているホテルがないのです。
もはやここまでか、と思うほどでした。
リュックは20キロくらいの重さですし、意識も朦朧としてきたのですが、
ようやく空室のある安宿を発見できました。

翌日からは例のポートロワイヤルホテルに移り、2~3日間滞在したと記憶しています。
お金はありませんでしたが時間は十分あったので、
6ヵ月の滞在中ルーブル美術館には何回行ったかわかりません。
7~8回くらいは行ったかもしれません。
当時は、たしか水曜日に国際学生証を持って行くと無料で入館できたのです。
朝一番から入館し、昼になると外に出て安いパンか何かを一つ買ってランチをとりました。
それでまた美術館に戻り、閉館まで観賞するということを繰り返したものです。
信じられないかもしれませんが、当時は「モナリザ」もそんなに人気がありませんでした。
また、運良く私は閑散期に通えていたので、
「モナリザ」の絵の前に座り2時間くらい見つめていたことを覚えています。
コロナ以前の話ですが、ここ数年は訪れる人も多く、
中国人観光客などが騒いで風情もへったくれもありません。
私は、本当に良い時代に通うことができました。

パリからまたナイトフェリーでロンドンに戻ったのですが、
その際、ロンドンで生活していた日本人から
「お前もこっちに残らないか?」と誘われたことを覚えています。
残らないかと言われても、ワーキングビザもありませんので残るに残れません。
しかし、当時は不法滞在の若者がけっこういました。いい加減な時代だったのですね。
ですから、紛れてもわからないだろうと。
私も海外での生活に憧れもありましたから、このまま残りたいという気持ちもありました。
もし残っていたら、今ごろどうなっていたことでしょう。
想像すらできませんが、全く違った人生を送っていたことだけは確かでしょうね。

ロンドンには大英博物館とナショナルギャラリー(国立美術館)という
2つの世界的な展示場がありますが、
ナショナルギャラリーにはゴッホの「ひまわり」がありました。
その「ひまわり」を見ている時のことです。
日本で買ってボロボロになるまで読み込んでいたガイドブックを見ていると、
後ろから突然「日本人ですか?」と声を掛けられたのです。
ずっと日本人と話していなかったので、嬉々として後ろを振り向くと
そこにはイギリス人の紳士が立っていました。
あっけにとられましたが、日本語と英語を交えながら話をすると、
彼はシンガポールにあるHSBC(香港上海銀行)の支店長だといいます。
とても親切な人で、当時は私が20歳で彼は35~40歳くらいだったと思いますが、
「ご飯をご馳走するよ」と言ってくれて、それから5日後くらいに待ち合わせをしました。
彼はベーカーストリートに連れて行ってくれました
(シャーロックホームズに出てくる有名な通りです)。そこは、最高級マンション街でした。
日本でいうマンションではなく、ロンドンの街中にある古い建物です。

そこは大きなビルで、その3階か4階に巨大な部屋が10室ほどありました。
その全ての部屋に、信じられないようなアンティークの品が飾ってあるのです。
しかもそれは、日本や中国などアジアのアンティークでした。
そこに人が住んでいる形跡はありません。
「これは、あなたの部屋なのですか?」と訊ねると、「知り合いの部屋」だと言います。
「知り合いの方は何をしているのですか?」と訊ねると、「香港の副総督だ」と言うのです。
仰天しました。貴族の中の貴族ですね。
それにしても、よく部屋を見せてくれたものです。
やはりイギリスの貴族というのは、ちょっとレベルが違いました。
彼は、ひょっとするとその後HSBCで頭取まで上り詰めたかもしれません。
その彼とも、日本に帰国してから5~6年間は手紙のやりとりをしていました。

そしてロンドンを後にした私は、ボーンマスへと帰るのです。

 

日本いると、国による人の性格や習慣などの違いを知ることはあまりないが、
海外で多くの外国人に出会うと一口に白人、黒人、黄色人種では
括れないことがよくわかる。
ヨーロッパ人とは帰国後も文通が続いたが、アメリカ人はさっぱりだった。
(2021年3月 東京・飯田橋にて)