天国と地獄
 

2021年4月15日更新

第162回  大学時代の思い出<5ヵ月半に亘る海外遊学編⑥>

久しぶりに第154回のコラムに続く、
私の大学時代のヨーロッパ遊学の話の続きをしたいと思います。

フランスの「カルカッソンヌ」に行った時は、10月の末に近かったと思います。
地球儀で見るとわかりますが、フランスは日本よりかなり北にありますので、
北風が吹きとても寒かったことを覚えています。
約6ヵ月間の滞在中、最も長く滞在したのは
イギリスの最南部「ボーンマス」という町ですが、
そこの緯度は樺太の真ん中あたりと同じくらいです。
なんと、イギリスの最南端でもそれほどの高緯度なのです。
「寒い」と言ってもイギリスの緯度はせいぜい青森や北海道くらいだと思っている人がいますが、
実際はもっと北に位置しているのです。
マルセイユとほぼ同緯度にあるフランスのカルカッソンヌも、
冬になるともう、めちゃくちゃ寒いのです。
私が行ったのは秋でしたが、上り坂をリュック背負いながら登っていく時は汗をかきますが、
目的のお城に到着すると身が震えるほど本当に寒かったことを覚えています。
ピレネー山脈からの北風が吹きすさぶようなところでした。

カルカッソンヌはド田舎ということもあり、日本人の観光客などは一切いません。
古びたお城の城門を入ると、奥にお城の一部を改装したユースホステル
(1泊1000円くらいと安かったです)があったのですが、
そこに泊まり夕食はホテル横にある安価なレストランに行きました。
私は一人でしたが、レストランには30人くらいの団体がワインを飲んで騒いでいました。
私が声を掛けてみると、一人の中年女性が英語を話せました。
そして彼女が「一人じゃ寂しいでしょ。一緒に飲みましょう」と誘ってくれたのです。
他の人は英語を話せませんでしたが、身振り手振りでコミュニケーションし、
3時間もどんちゃん騒ぎをしました。本当に楽しくて素晴らしい思い出が出来ました。
その女性とも数年間は文通をしました。
行く先々でこういった出会いが多くありました。
お金はなく、ギリギリの旅行でしたが、まだ若くて感受性が強かったこともあり、
人々との交流が織りなす「心の旅路」という感じでした。

ところで、第154回のコラムで「ジュネーブからカルカッソンヌに行った」と書きましたが、
恐らくジュネーブからまずバルセルナに行ったのではないかと思います。
思い起こすと、カルカッソンヌへはその後に寄ったようです。
なぜこういう言い方をするのかと言いますと、
私は1冊の小さな手帳にこの旅の全てを克明に書き込んでいたのですが、
ある時、その手帳を盗まれてしまったのです。

ヨーロッパ一周の最後にパリからロンドンに戻り、
その後ボーンマスに帰ろうというときのことです。
ロンドンでも何しろ安いホテルを探そうと駅の荷物預けにリュックを預け、
最低限のものだけを持って街に繰り出し、
アフガニスタン人街で安いホテルを見つけることができました。
チェックインしてから預けたリュックを取りに駅に戻ったのですが、
その間、例の手帳をホテルの机の上に置きっぱなしにしていました。
そして、戻るとその手帳がないのです。おそらく盗まれたのでしょう。
掃除のスタッフが何か金目のものなどないかと部屋を物色し、
漁っても何も出てこないので、腹立たしまぎれに手帳を
どこかに捨ててしまったのかもしれません。
寝れないほどショックでした。
どこに行って、誰に会って、何を食べて、どんな教会があってと、その全てを記録していました。
それが、私の「心の旅路」の全てだったのです。

旅の全ての記録が失われてしまったため、記憶だけを頼りにこのコラムを記しています。
私は66歳ですので、およそ半世紀前のことを完璧に覚えているわけではありません。

ところで、記憶を辿っている時にふと思い出したのですが、
当時のヨーロッパは今と全く違って、まだ第二次世界大戦後の暗い雰囲気が残っていました。
正直、ウィーンなどは本当に死んだような街でした。廃墟かと思うくらいです。
カルカッソンヌも今は世界遺産となりましたが、
当時は見捨てられたような城でユースホステルにも人がほとんど泊まっていませんでした。

先程の話の続きですが、記憶を辿るとジュネーブからバルセルナに行ったようで、
今はありませんが「カタラン・タルゴ」という
スペインが世界に誇る豪華特急列車(独特の設計で普通の列車より1車両が短く、
それでスペインに多いカーブの道もうまく走るのです)に乗りました。
ちなみに、私はユーレイルパス(ヨーロッパ以外の居住者に対し発行される鉄道パス。
旅客は決められた日数・等級・地域のパスを持っている間、
ヨーロッパ内の定められた地域の鉄道や航路を何度でも利用できる)を持っていましたので、
カタラン・タルゴも乗り放題でした。

その列車の旅にも印象的な思い出があります。
当時のスペインはバスク独立運動が激化していたためテロが多く、
特に爆弾テロが頻発していました。
フランスからスペインに入る国境では、憲兵隊のような人たちが乗ってきました。
当時のスペインは、まだフランシスコ・フランコ総統という
独裁者によって統治されていたのですね。
憲兵隊の服も昔の名残で、ナポレオンの時代のものとまでは言えませんが、
今でしたら「こんなの見たことない」というくらい時代がかった服装でした。
日本人である私は、彼らに検査されるようなことはありませんでした。
ところがフランス人やスペイン人は、全ての荷物を開けさせられて
ポケットの中も隅々までナイフや爆弾などがないか調べられているのです。
ものすごい光景でした。
臨検のため、国境の駅ではかなり長く停車し、その後ようやくスペインに入って行きました。

私のユーレイルパスの有効期間は21日間でした。
よりたくさんの国に行きたかったので、夜行列車をたくさん使いました。
夜行列車を使えば宿泊費も浮きます。
しかも、基本的に空いていますので横になって寝られます。
トーマスクックというヨーロッパの時刻表があったのですが
(現在は売っていませんが、最近まで日本でもオレンジ色の表紙で売られていました)、
それを日本から持って行き、どうやって目的地に一番安く行くかを調べながら旅をしたのです。
そのときに時刻表に慣れたことで、今でも時刻表を読むのが得意です。
ちなみにトーマスクックは最近でこそ日本語訳が付いていますが、
当時は全て英語だったので解読が大変でした。

ユーレイルパス有効期間中、特急も乗り放題となりますが、
座席の予約はしなければなりません。
予約をしなくても空いていれば座れるのですが、
スペインなどはうるさいのでバルセロナの駅に到着して
すぐに帰りのカタラン・タルゴの座席を予約しました。
ところが、カウンターに50人くらいが延々と並んでいるのです。
当時、スペインなどは本当に遅れた国で、ましてやコンピュータなどない時代ですから、
全て手書きでやっていたのです。
予約を取るだけでも大変な作業で、2時間くらいかかったと記憶しています。
その点、日本の「みどりの窓口」はすごく便利ですよね。

大学3年生の時に1年間休学してこの個人旅行に行ったので、
バルセロナを訪れたのは1975年だったと思います。
第二次世界大戦が終わったのが1945年ですから、その30年後です。
バルセロナには旧市街というのがあり、そこはまさに迷路のようでした。
食事を終え、宿に戻る前に旧市街を見て回ろうかなと思い、
そちらの方に向かうと、はるかかなたから音楽が聞こえてきました。
今でもそのメロディを覚えています。
トランペットの演奏で民族音楽を流していたのです。
「何だろう?」とその音の方に行ってみることにしました。
夜の10時過ぎだったので、電灯もほとんどない薄暗い中を歩きました。

すると、広場で何十人という人が手をつないで、
その音楽に合わせて踊っていたのです。
私は「どうせならやってみたい!」とその輪に入ろうとすると、
「おう! 一緒に踊ろうよ!」と仲間に入れてくれました。
フォークダンスみたいな感じで、皆で踊りながらぐるぐる回るのです。
1時間くらいは踊ったでしょうか。本当に懐かしいですね。
今はもう、ああいった旧市街の雰囲気もなくなってしまいました。
私が行った頃のヨーロッパは、戦前の雰囲気が残っていた最後の頃だったと思います。

ここで、最初から整理しておきましょう。旅の順番はこうだったと記憶しています。
まずはボーンマスからロンドンに行き、ロンドンからナイトフェリーでパリへ。
パリからボーンマスの学校で知り合ったブリジットの住んでいるアルザスロレーヌ地方、
そのドイツとの国境地帯にあるコメルシーという小さな町に訊ねて行き、
夕方列車でまたパリに戻り、パリ22時発くらいのウィーン行きの夜行列車に乗って
インスブルックで途中下車し、その後多分ウィーンに行ったのだと思います。

ウィーンは先ほど言った通り当時は死んだような町で、
そこでもユースホステルに泊まったのですが、
そこでたまたまスイスから来ていたスイス人の若者と友達になりました。
その若者に「遊びに来いよ」と言われたので、
そのあとベルンというスイスの首都、川が流れていて
時計台の沢山ある街に泊まりに行ったことを覚えています。
ウィーンでは、「第3の男」という映画に出てくる大観覧車を見に行きました。
「第3の男」は第二次大戦直後のスパイの話です。
すごく印象深い映画で、大観覧車はこの映画が好きな人にとっては有名な場所なのです。

当時、ウィーンはぎりぎり西側圏でしたが、もう少し行くと「鉄のカーテン」、
すなわちソ連が率いていた東ヨーロッパでした。
それが1989年のベルリンの壁の崩壊により東と西の交流が盛んになったため、
ウィーンはその拠点として大変繁栄したのです。
当時はそれ以前の段階でしたので、新しい建物などは一つもなく、
まさに廃墟のような感じで観光客などはほとんどいませんでした。
それでも私は、ベートーヴェンの家などを観光しました。
また、以前も書きましたがそこで私は風邪を引いてしまったのですが、
ユースホステルで知り合った若者が教えてくれた「ホットワイン」
(赤ワインに薬草を入れて熱くして飲むのが風邪に効くとされています)
を飲んだことを今でも覚えています。

私はどうしてもイタリアに行きたかったので、
ウィーンの後はローマに向かったと記憶しています。
そこで初めて古代ローマ帝国の遺跡を見ました。
2000年前のローマ帝国の遺跡、
それもシーザーが演説したとされる場所などが遺跡としてそのまま残っているのです!
意外にも古代ローマの中心部はとても狭く、
上から見下ろしたのですが「こんなに狭いところだったんだ」とびっくりしました。
ただし、コロッセウムは大きかったです。
ローマで覚えているのは、やはりユースホステルで知り合った
(どこの国の人かは忘れてしまいましたが)若者が
「ローマ大学の学食が安くて美味しいよ」と言うので
歩いてローマ大学の学食まで行ったことです。
評判通り、とても美味しくてお財布に優しい学食でした。

何しろ飛行機や宿泊費、そして学費を含めて
90万円の予算で6ヵ月を過ごさなくてはいけませんでしたから、
1日に使ってよい金額が3000円くらいだったのを覚えています。
しかも、現在とは為替レートが違います。
当時、為替が1ドル=280円の時代でしたから約10ドルにしかなりません。
今、10ドルで何かできますか?

毎日、いくら使っていくら残ったかをきちんと計算して常に残高を確認していました。
毎晩、寝る前にホテルの部屋で残ったトラベラーズチェックを数えながら、
爪に火をともすような、いやそれ以下の生活を送っていました。
ですから、今でも私は倹約家であると自負しています。
このとき学び、身に着いたことです。

ローマには3泊くらいしたのでしょうか。その間、ローマ中を歩きました。
5キロ以内の距離は全て歩いたと思います。
イタリアには古い映画がたくさんありますが、
その一つに「終着駅」という映画があります。
母親が映画好きだったので覚えていたのですが、
「ローマのテルミノステーション(終着駅)がここなのか!」と感動したことを覚えています。

この旅に私は小さなカメラ1台を持っていきました。
35ミリフィルムが入っているのですが、
1枚分を半分に使う「ハーフ」というやり方があり、36枚撮りだと72枚の写真が撮れます。
それを帰国してから現像しました。
現在のデジカメと違って、撮れる数に限りがありますから、
1枚シャッターを切る毎にアングルを考え抜きました。
結果、良い写真がたくさん撮れたと思います。

 

手帳を細かくつける習慣、無駄使いしないお金の使い方、
時刻表を調べて旅行を計画する、
時間を読んで行動する……
これらは全て6ヵ月のヨーロッパ遊学中に
徹底的に身に付いたと言える行動形式で、
今でも私の人生を助けてくれている。
(2021年2月 東京・神保町にて)