天国と地獄
 

2020年12月4日更新

第149回 大学時代の思い出<5ヵ月半に亘る海外遊学編②>

 

その後の英国では、語学学校とホームステイがパッケージになっているツアーを申し込んでいました。
一人でその集合場所に向かったのですが、
そこが「ボーンマス」というとても遠い場所だったので、たどり着くまでが大変でした。

パリからボーンマスまでは最も安い移動手段を使いました。
ドーバー海峡には「ナイトフェリー」というのがあるのですが、
パリの北駅から夜行列車に乗ってカレーという港町(三銃士にも出てくる町です)に行き、
そこでフェリーに乗り換えます。
国境でスタンプをもらうのですが、夜中なのでとても眠かったのを覚えています。
そこから大きなフェリーに2~3時間ほど乗り、ドーバーに着くとまた列車に乗ります。
その間、ほとんど寝られません。
体力的にきつい移動ですが、コストは4、5000円と他に比べてとても割安です。

ようやくロンドンの有名なビクトリアステーションに到着しました。
まず、駅を出たところにある観光案内所に入ったのですが、
そこで大変びっくりした出来事がありました。
案内所にはイギリス人のおじいさん2人が座っていたのですが、
「ここに行くにはどうしたら良いですか?」と訊ねると、
相手の言っている事が一言もわからなかったのです。
私は一瞬、間違ってイギリスではなくどこか別の国に来てしまったかと思いました。
冷静に辺りを見渡しても、やはりここはロンドンです。
下町の訛りがすごくて聞き取れなかったのですね。

遊学した1975年当時は、どこに行っても戦後のヨーロッパの
まだ暗い雰囲気が色濃く残っていました。
戦前を知る世代もまだ生きていた時代です。
そうした人たちが話すロンドンの下町言葉は本当に訛っていたのです。
私はそこで「私は今まで学んできたのは、アメリカン・イングリッシュなんだ」と改めて実感しました。
日本で習うのはアメリカ英語ですが、イギリス英語とは発音が全然違うのです。
私の言っていることはわかってもらえるのですが、
相手の言っていることが全くわからないのです。
ほんとうに途方にくれました。

何度も何度も聞き返して、やっと言っていることがわかるのです(それでも何となくですが)。
地下鉄の地図を見せてくれてボーンマス行きのバスの停留所のある駅を教えてもらったのですが、
今度は最終目的地であるボーンマスに向かうバスのバス停がわからないのです。
辺りに居た人に片っ端から聞きましたが、そのバス停の場所がわかりません。
そんなこんなで時間ぎりぎりになってしまい、本当に焦りました。
そのバスに乗れなければ、自費でボーンマスまで行かなければなりません。
ギリギリのお金しかありませんでしたから、気が気ではありませんでした。

なんとかそのバスに乗り込むと、乗っていたのはフランス人の団体でした。
フランス人の高校生位の男女が英語を勉強しにきたツアーのようです。
アジア人は私だけだったのですが、その高校生たちは田舎から来たのか知りませんが、
日本人に会うのは初めてのようで、皆が私の方を見ながら
「日本人? いや中国人か?」などとこそこそ言うのです。
「いやだな~」と思いながらも、疲れていたのでぐっすり寝入ってしまいました。
数時間後にたたき起こされると、目的地ボーンマスに到着していました。

そこにはツアーの業者が待っていて、
タクシーに3~4人ずつ乗せられて各ホストファミリーの家に向かいました。
私はボーンマスの隣のプールという町に行き、
チャーチヒル道路脇のポンドさんという人の家に連れて行かれました。
その家は、驚くほどボロ屋でした。
というよりホスト(家主)が大工さんで、
自分で自分の家を作っていたそうなのですが、未完成なのです。
工程の半分くらいまでできたという感じでした
(実は、今から4~5年前にポンドさんの家を見に行ったのですが、もう他人の家になっていました)。

大工さんのホストは背が高くいなせなおじさんで、
ホーリン、コーリン、リチャードという子供が3人いました。
リチャードはまだ生まれて半年位の赤ちゃんで、ギャーギャー泣き叫んでいました。
ゲストは私の他に私より1~2歳年上のカオルという名前の埼玉から来た青年、
フランス人の髪の毛の長い綺麗な女の子、
スペイン人のマイティという女の子の3人がいました。
狭い家でしたが、にぎやかで楽しかったです。

まず、翌朝の朝食にびっくりしました。全て焦げているのです。
パンは丸焦げ、ベーコンエッグも丸焦げ。
失敗作なのではないか思ったのですが、違うのです。
それがイギリス流の食べ方なのです。完全に焼きすぎですね。
ニュージーランドもそうですが、パスタなども煮込みすぎでふにゃふにゃです。
日本人からすると「こんなもん食えるか!」という感じなのですが、
おそらくイギリスは島国ということもあり、長きにわたって新鮮なものがなく、
よく焼かないと食あたりになることが多かったのではないかと推察します。
お金持ちは別として、庶民は新鮮なものにありつけなかったのではないでしょうか。
その名残りで何でもガンガン焼くのだと思います。

あと、当時はイギリスではビールを常温で飲んでいました。
日本人からすると、ぬるいビールなんて飲めたものではありません。
しかし、それに慣れてしまい日本に帰ってきてもしばらくはビールを常温で飲んでいました。
英国人はコーヒーをあまり飲みません。紅茶、それも必ずミルクティーです。
レモンなどは邪道と言われていました。
今はイギリスでもレモンティーも飲みますし、ビールも冷やして飲みます。

翌朝、プールテクニカルカレッジ工科大学に行きました。
大学が夏休みの間、語学留学用に部屋を貸しているためです。
1クラス15~20人で担当の先生がつきます。
私は「今日から日本人もいない。完全に英語だけの世界だ。
やったー!  これで英語に専念できる!」と意気込んで部屋に入りました。
ところがなんと16人いる生徒のうち、14人が日本人だったのです。
「まずい……こんなに日本人ばかりでは英語の勉強にならないんじゃないかな……」と
落胆してしまいました。
残りの2人はノルウェーから来たおじさん達でしたが、
その2人も日本人ばかりのクラスで面食らったと思います。
当時の日本は、飛ぶ鳥を落とす勢いでしたからね。

私以外は、全てJTBの団体ツアーから参加していました。
私は全て自分で問合せをして個別に申し込んだのですが、そういう人はほとんどいません。
その分、とても勉強になりました。
インターネットなどない時代の航空券や学校の手配は大変でしたが、
本も全て買うともったいないので書店に行って必要な部分を立ち読みし、
紙を持って行ってメモをとりました。

ちなみに、日本人では私だけが学生であとは社会人の方たちでした。
皆さんが参加していたJTBのツアーは、
イギリスで語学研修してそのあとパリに行くというものでした。
学校の先生などが多く、あとはお金持ちの御曹司などもいました。
皆さん年上だったということもあり、私を可愛がってくれました。
とても仲良くなり、最後、彼らがパリに行く時には、
私はナイトフェリーで追いかけて行って(彼らはもちろん飛行機です)、
皆が泊まっている高級ホテルの床に寝かせてもらいました。
そしてJTBのバスに一緒に乗り、最後はシャルルドゴール空港まで行って見送りました。

皆さんを見送り一人っきりになった途端、寂しさがこみあげてきたのを覚えています。
その後、パリに数日間滞在し、ナイトフェリーで再びロンドンまで戻り、
ロンドンから列車でボーンマスに戻って今度は別の家にホームステイしました。
どうせなら、様々な家庭を見てみたいと思ったからです。

今でも私は自分で時刻表と地図を片手に
旅の計画を立てるのが得意だが、
携帯電話もインターネットもない時代に
一人ヨーロッパを旅することは
本当に大変なことだった。

  (2020年10月 山形県にて)