天国と地獄
 

2020年11月25日更新

第148回 大学時代の思い出<5ヵ月半に亘る海外遊学編①>

 

今回は、5ヵ月半にわたるヨーロッパ遊学についてお話しします。
なぜ遊学かと言いますと、別に海外の名門大学に留学したわけでもありませんし、
ホームステイしながら語学学校に通い、最後にヨーロッパ中を列車で周るという
約5ヵ月半の“旅”だったからです。

正確には覚えていませんが、出発は7月20日過ぎだったと思います。
語学学校が7月25日に始まったので、7月15日位には出発していたかもしれません。
成田空港を作っている最中でしたから、私は羽田から出発しました。
当時は学生がヨーロッパに半年近く行くなどということは珍しい時代で、
親戚のほぼ全員が羽田まで見送りに来てくれました。
父方の方は6人兄弟だったので、ぞろぞろ大勢の人が来てくれたことを覚えています。

お金がありませんでしたから、とにかく一番安い航空券をとりました。
今でしたらヨーロッパに行くにはロシアの上空を飛ぶため、
羽田からだいたいロンドンやパリまで12時間半くらいで行けますが、
当時は旧ソ連の時代でしたからソ連の上空を飛べなかったのです。
そのため二つ航路があり、ひとつはアンカレッジ(米アラスカ州)経由、
もうひとつは南周りといって、香港、バンコク、ムンバイ、
バーレーンなどを経由し、24時間以上もかかりました。
私はアンカレッジ経由でしたが、一番安かった大韓航空を利用したので
金浦国際空港経由(当時は仁川空港はありませんでした)で行きました。

父親が国鉄職員でしたので列車にはよく乗っていたのですが、
飛行機に乗るのはその時が初めてでした。
しかも、最新鋭のジャンボ機です。
まず、離陸の時の加速でびっくりしてしまいました。
一番安い航空券でしたので一番後ろの席だったのですが、
一番後ろは一番揺れるし、一番うるさいのです。
飛行機というのは、もっとスムーズに飛ぶものだと思っていましたから、
“ゴォー”という音をたてて荒々しく離陸する様子に驚きました。
しかも7月だったので、韓国上空では積乱雲の影響ですごく揺れました。
日本の旅客機は雲を避けて飛ぶのであまり揺れないのですが、
彼らはそれをしません。特に、アンカレッジから先の北極上空ではすさまじく揺れ、
ほとんど眠れないほどでした。

金浦国際空港に着いてびっくりしたのは、初めての外国ということもありますが、
空港の滑走路を降りるとその脇に塹壕が掘ってあり、
兵士の人形や機銃の台座などがあったことです。
当時は今よりも韓国と北朝鮮が緊張状態にありましたので、
まさに戦時中であるかのような雰囲気に驚いたことを覚えています。

金浦国際空港からは、現在ではもう飛んでいないので皆さんご存じないかもしれませんが、
エンジンが四発ついている長距離飛行が可能な“ボーイング707” (150人乗りくらい)
に乗り換えてアンカレッジまで行きました。
そして、アンカレッジからさらにパリに行きました。
本当は最初からイギリスに行きたかったのですが、
そのコースが一番安いチケットだったのです。
パリで数日を過ごし、ドーバー海峡を渡って夜にイギリスへ入るという、大変な行程でした。

ところで、アンカレッジ便は北極を越えて欧州に行くのですが、
その際にあまり左側を飛んでしまうとソ連領なので撃墜されてしまいます。
そのため、カナダ寄りを飛んだと思います。
その後、例の大韓航空機撃墜事件が起こるのですが、
当時の大韓航空機はスパイ活動をしていたと言われていました。
相手国の領空ぎりぎりを飛んで情報収集していたと言われています。
もしかしたら、その時もやっていたのかもしれません。

パリでは5泊位したのですが、大韓航空の機内で仲良くなった日本人のグループと同じ
安宿に泊まることにしました。
その宿は「ポートロワイヤルホテル」といい、名前には高級感がありますが、
パリのルクサンブール宮殿やソルボンヌ大学の南のいわゆる下町にその町名がある場所です。
一泊1000円ほどで3畳の部屋にベッドがひとつと窓がひとつというようなところでした。
エレベーターなどはなく、螺旋階段を上がっていくのですが、
上に行く際は下でまず階段の電気のスイッチを入れます。
それが20秒か30秒で消えてしまうのです。
ですから、6階位に上がるとなると急がないといけません。
下手をすると、着くまでに真っ暗になってしまうのです。
トイレは共同で、シャワーは下の階でいくらか払うと(200円くらいだったでしょうか)
シャワールームの鍵を貸してくれて、20~30分以内に浴びるという仕組みでした。
1階にはお金を出せば簡単な朝食を出してくれるレストランと簡易的なバーがあり、
まさに安宿を匂わせる雰囲気です。

一緒に泊まった日本人たちは、徐々にスペインや他の地へ行き、
最後には私一人となってしまいました。
私はその間、パリの街を見て周ったのですが、
何しろお金がなかったので乗り物といってもせいぜいメトロに乗ったくらいです。
あとは、ひたすら歩いて回りました。
ノートルダム寺院を越えてシャンゼリゼ通りから凱旋門まで、
片道10㎞位はあったと思います。
それでもその時はまだ20歳でしたから、歩くのは苦になりませんでした。

その後、秋にもう一度パリに戻ったのですが、その時も同じホテルに泊まりました。
予約しないでも空いていれば泊めてくれるので便利なのです。
サンジャック通りという細い通りがあるのですが、
そこを通りぬけていくとソルボンヌ大学があり、
今は別のところに移ってしまいましたが「京子」という日本の食材を売っている店がありました。
店内にテーブルもあってそこで食事もでき、
焼いた冷凍餃子にご飯とスープがついたメニューがありました。
日本から輸入したものなのでとても高く、当時で700円位だったと思います。
当時の私としては、まさに大金でしたが、日本食が恋しくなって普段は節約に励み
週に1度食べるのがとても楽しみでした。

パリでの滞在で思い出すのは、ある夜にホテルのバーでアメリカ人の初老の男性から
「一杯飲んでいかないか? ご馳走するよ」と声を掛けられたことです。
私は喜んでご馳走になることにしました。
聞くところによると、彼は貨物船の船員で全世界を周っているらしく、
その話を3時間位してくれました。
「日本にも行ったぞ!」と言っていました。
すごく良い人で、楽しい時間だったことを覚えています。
そういった出会いも旅の醍醐味です。

高価な直行便に乗れず、乗り継ぎを重ねてイギリスまでの航路を辿った。
人との出会いは旅を豊かにしてくれた。
        (2020年7月 札幌にて)