前回は長崎での思い出をお話しましたが、今回は大学3年の時、
ちょうど20歳の時に起きた、私の人生を変えた「転機」についてお話します。
私には、どうもちょうど10年ごとに転機が訪れるようなのですが、
その中でも一番印象的な出来事です。
ただ、その話をする前にせっかくですので最初の転機についてもお話ししましょう。
初めての転機は10歳、小学4~5年の時のことでした。
私は、物心ついた3歳くらいから千葉の柏に住んでいました。
当時、柏はまだド田舎で、地元の子供たちとは兄弟のように毎日自然の中で遊び周り、
のびのびと育ちました。
柏の小学校に通っていた頃の私は、家で教科書を開いたことが一度もありませんでした。
大体、小学校3年くらいまでの勉強なら、ちょっと頭のいい子なら教科書を見なくても、
先生の話を聞かなくてもスラスラとできるものです。
自分で言うのもなんですが、私もその例にもれず勉強もせずに
遊び歩いてはいたずらばかりしていたので、
しょっちゅうバケツを2個持たされ廊下に立たされていました。
ガキ大将というのとも違うのですが、当時の私はそんな子供でした。
ところが、そんな私が小学校3年の3学期に
東京の板橋区の稲荷台小学校に転校することになりました。
今までずっと一緒に遊んでいた幼馴染たちとも別れることになり、
新しい学校に入ってみると周りは都会の子供たちばかりで、
しかも家でも勉強する子が多くびっくりしました。
また、教科書が変わったこともあって、
小学校4年の時になんと私は学校の勉強についていけなくなってしまいました。
母親はそんな私を心配して、たまたま同じ国鉄の官舎にいらしたご主人が京都大学卒、
奥様がお茶の水女子大卒というエリートご夫婦に頼み込んで
家庭教師をしてもらうことになりました。
私はその時初めて、「勉強ってこうやってやるものなんだ」ということを教えてもらいました。
勉強とは、要するに“反復”がキモなのです。
たとえば日本全国の県名を覚えるなら、日本地図を見ながら「ここは○×県」と、
地道に繰り返し同じことをやって覚えるしかありません。
覚え方のコツのようなものはもちろんあるのですが、
大まかに言えば日本の初等・中等教育はだいたい反復して記憶するという性質のものです。
「勉強は、こうやればいいんだ」ということ知ったことは、私にとっては大きな転機でした。
学校の勉強のコツを覚えたおかげで、あまり学校の勉強に力をかけなくても成績が良くなった私は、
空いた時間を使って独自の勉強を始めました。
その頃はなぜか辞書が死ぬほど好きで、辞書ばかり読んでいました。
また、小学校6年の時には「三国志演義」という、大人が読んでも難しい小説を読んでいました。
当時、岩波文庫から出ていた小川環樹・金田純一郎が訳した半分漢文のような難解なそれを、
漢和辞典を引きながらひたすら読んでいたのです。
たまたま「少年少女文学全集」で「三国志」を読んでとても面白かったため、
原作を読みたいと思うようになったのがきっかけです。
しかし、不思議なことにその頃の私は学校で習う国語が苦手でした。
恐らく、型にはまった教育がダメだったのでしょうね。
作文も苦手でしたが、面白いことに今では文章を書くことを生業としています。
また、ちょうど同じ頃、私にとってもう一つ大きな出来事がありました。
たしか小学校4年か5年の時だったと思いますが、
ある日父親がお金もないのに日本コロムビアのステレオを買ってきたのです。
当時のステレオというのは、スピーカーとアンプが一体型のものが主流でしたが、
これが分離しているセパレート型というものができたということで、早速買ってきたのです。
新宿御苑近くの“コタニ”という、今はなくなってしまいましたがとても大きなレコード屋があり、
そこで購入したことを記憶しています。
父親が値切ると、店員が「もう、これ以上は無理」と言うので、
「じゃ、レコードを1枚付けてくれ」と言って、おまけにレコードを付けてくれたのです。
そして、これが私の運命を変えたのです。
そのレコードは、A面がベートーヴェンの 交響曲第5番「運命」で、
B面がシューベルトの「未完成」でした。
しかも、指揮はブルーノ・ワルターです。
彼はユダヤ人で、第二次大戦下ではヒトラーに追われアメリカに亡命した、
あまりにも有名な指揮者です。
演奏は、彼のために全米から優秀な演奏者を引き抜き編成された、
「コロンビア交響楽団」というオーケストラによるものでした。
1950年代から1960年代にかけて録音したものですが、今聴いてもものすごい演奏です。
一貫したテーマが様々に姿かたちを変えて登場し、時には激しく、時に静かに、
緩急を交えて聴くものに訴えかける。
しかもそれは、始めから終わりまで決して流れが滞ることはなく、
大作曲家が意図したであろう壮大なストーリーをも感じさせます。
当時、うちにはそのレコード1枚しかありませんでしたので、私はそれを毎日毎日聴いていました。
名演には、「全体の統一性と大きな流れ」や「緩急、抑揚」といった、
人を惹きつける要素がふんだんに散りばめられています。
私は、そうした要素をこのレコードを通じて直感的に会得したのでしょう。
私は、楽器を演奏したり楽譜を読んだりはできませんが、
経済のトレンドを俯瞰的に見ることや、講演会で人を惹きつける話し方といった、
いま私がやっていることにはこの名演のエッセンスが大きく影響していると感じます。
さて、いよいよ20歳の時に訪れた2度目の転機についてお話しましょう。
大学3年の20歳の時、私はヨーロッパに遊学しました。
海外の有名な大学に行ったわけではありませんので留学なんて言えませんが、
約5ヵ月半、語学学校に入って勉強したり、
リュックを背負ってヨーロッパ中を周ったりしたのです。
遊学した理由は、第145回のコラムに登場した、
大学入学直後に入った“日本の古典を読む会”があまりに難しく、
ちょっと嫌気がさしたからです。
しかも「自分独自の何かをやりたい!」という思いもありました。
私はもともと公害問題に興味があったので、
大学2年の時に同じ早稲田大学政治経済学部の政治学科にいた親友の菅原を誘い、
“宇宙船地球号を守る会”という環境問題の研究会を作りました。
当時は、地球を小さな宇宙船と見立てた“宇宙船地球号”という言葉が世界的に流行っており、
それを使ったのです。
研究会に集まったのは、全部で十数人でした。
自分なりには一生懸命やっていたのですが、いつしか意見が合わなくなり、
やがて会は内部分裂してしまいました。
当時は私も純粋でしたから、情熱に燃えて取り組んでいた分その衝撃は大きく、
大いに落ち込んで半分「死のうかな」と思ったくらいでした。
そんなことで悶々としていた大学2年の秋、きっかけは突然訪れました。
当時、私は早稲田近くの高田馬場にある芳林堂書店によく行っていたのですが、
そこでたまたま「世界貧乏旅行のすすめ」というようなタイトルの本を見つけたのです。
それを読んだ私は、ある決心をしました。
「あ、そうだ! 確かに研究会は上手く行かなくなってしまったけれど、
心機一転、遊学してみよう!」――そう思い立ったらもう行動せずにはいられません。
私は遊学のために大学を1年間休学することにしました。
そして休学初日の4月1日から、あらゆるアルバイトを始めたのです。
今のようにインターネットなどありませんでしたので、
少ない情報を頼りに仕事を探しました。
求人誌と言えば、当時はガリ版(謄写版)刷りのような学生ウォーカーや
アルバイトニュースの初期のものが発刊されていただけで、
「リクルート」もまだなかった時代です。
私はその求人誌を見て、東西線の落合駅から徒歩10分くらいの所で
朝から“こんにゃく作りのアルバイト”を始めました。
ですが、あれはとにかくキツかったです。
でっかい鉄の円筒形の水槽に水を入れて作業するのですが、危ないし熱いし、
倒して下敷きになろうものなら本当に死んでしまうのです。
さすがに2週間で辞めてしまいました。
それよりさらに危ないバイトもしました。
給料は良いのですが、仕事の内容があまり書かれていませんでした。
その会社に行くと工場に連れて行かれ、
毒薬(化学物質)が入っていたタンクの中に入って内側を洗う仕事でした。
もちろん防毒マスクなんてものはありません。
さすがにこんなことをしていたらガンになって死ぬと思ったので、1日で辞めました。
4月からアルバイトをし、その稼ぎに加えて件の塾の経営で稼いだお金から
学費を払って残ったお金を合わせて60万円、
それから確か父親に30万円借りたのを覚えています。
4月1日から出発する7月20日までの約2ヵ月半、時給が一番高そうな所を探し、
いろいろなアルバイトをしました。本当に何でもやりました。
その稼ぎでトーマスクック(英国の旅行代理店。残念ながら2019年に倒産)の時刻表や
ユーレイルパス(ヨーロッパ内の鉄道や航路を利用できるパス)を買い、
パスポートを取得しました。
当時は茨城県の取手に住んでいましたので、
水戸まで取りに行かなければいけなかったのは大変でした。
5ヵ月半の遊学の予算は、日本円で90万円にしました。
1日いくらで生活するかも綿密に計算し、ギリギリの金額にしたのです。
往復の飛行機代、向こうでの語学学校代、ホームステイ代、旅行代、
本代、食費、全部入れて90万です。
貧乏旅行どころか、超貧乏旅行でした。
実際、日本に帰って来た時手元にあったのはわずか5000円で、本当にギリギリでした。
旅先は、もちろん高いホテルなどとても泊まれないので、
ユースホステルや1泊1000円位のホテルを利用しました。
当時(1970年代)はそういうところがあったのです。
ヨーロッパにはまだ戦後の暗さが残っていた最後の頃で、
ウィーンですら華やかさとかけ離れた、死んだような街だったのをよく覚えています。
その時に苦労した経験は、私のリスク管理の原点になりました。
海外は日本と違って治安が悪いところも多く、
しかも一人旅ですから自分のことは自分で守らなければなりません。
何かあれば死ぬしかない状況とは、本当に厳しいものです。
お金が足りなくなっても、今のように日本から送金してもらうこともできません。
携帯電話もなく、公衆電話から国際電話でたまに電話するくらいしかできません。
遊学当時は、父親に1度ぐらいは電話したかもしれませんが、
ひょっとしたら記憶違いで絵葉書を送っただけだったかもしれません。
唯一、お土産といえば、布で作った刺繍のワッペンです。
1ヵ国で1つ買い、自分でリュックに縫い付けました。
それ以外のお土産はありませんでした。
あとは、そんなに上手くはないのですが、簡単な英語が喋れるようになりました。
ただ、この時に覚えた英語は、その後多くの外国人と仕事をしたり
交流を持つ機会が多い人生となったので、随分と役に立ちました。 |