天国と地獄
 

2020年11月5日更新

第146回 大学時代の思い出<その2>

 

千葉の柏の公団に住んでいた小学生の時のことですが、母親の親友のおばさんに、
私より5つか6つくらい上の娘さんがいました。
母親同士が親しかったのでよくお互いの家に遊びに行き、
その人が私のお姉さん代わりといった感じでした。
ある時、そのお姉さんが「私は絶対、子供を産まないの」と言ったことに衝撃を受けました。
理由は、お母さんが被爆者でその娘である彼女も被爆二世であったためだといいます。
私が小学校1年、彼女が小学校6年くらいの時のことでした。

私はそこから日本の被爆問題について興味を持ち、広島、長崎にぜひ行かなければいけない、
という思いがずっとありました。そしてとうとう、大学1年生の時に長崎を訪れました。
当時は、前回のコラムで述べた塾をまだ始めていなかったので本当にお金がなく、
着の身着のままリュックを背負い、夜行列車に乗りこんで向かったのです。
幸い、父親が国鉄で働いていましたから、家族も使える「10日間フリーパス」
(急行までは全国乗り放題)があり、それを借りての旅行でした。

訪れたのは夏で、なにしろ暑かった記憶があります。
炎天下をひたすら歩き、国鉄職員とその家族が泊まれる安い旅館に泊まりました。
場所は良いところにあるのですが、本当に粗末な宿でした。
その長崎で、次は夜行列車で広島に向かうという日の午後に、
私の人生を大きく変える出会いをしました。

有名な国宝の「大浦天主堂」は長崎の港の方にありますが、
その日に訪問したのは爆心地に近い「浦上天主堂」でした。
当時、浦上天主堂の中は一部は被爆したままの状態で、
崩れ落ちた天使の銅像の首だけが落ちていたりと、凄惨な状況も残っていました。

そこを出た後、まだ時間があると思い、近くにいたおじさんに
「東京から来てこれから広島に行くのですが、汽車の時間までまだ時間があります。
2時間位でこの辺りでどこか見るところはないですか?」と声を掛けました。
すると、浦上天主堂というのは丘の上にあるのですが、
おじさんはそこから見える小さな建物を指し、
「君、あれわかる? あそこは如己堂(にょこどう)と言うんだよ」と薦めてもらいました。

「如己堂」は、永井隆博士が病室兼書斎として住んでいた四畳半一間の小さな掘っ建て小屋です。
永井博士は長崎に原爆が落ちた時、自ら被爆しながらも、被爆者の救護活動に生涯をささげました。
そんな永井博士のために浦上の人々が建物を立て、
博士はこの建物を「己のごとく人を愛せ」というキリストの言葉から「如己堂」と名付けました。
永井博士が当時の様子をまとめた随筆「長崎の鐘」と、
それをもとに作曲された歌謡曲のエピソードが、
最近NHKの朝ドラ「エール」でも放送されて有名になりましたね。

まず如己堂を見て、その横の図書館に入りました。
すると、どうやら図書館の館員らしい、不思議なおじさんが出てきて、
長崎弁で「いらっしゃい! どちらからいらっしゃいました?」と聞いてきたのです。
ずんぐりむっくりで目がギョロっとした、でもとても可愛げのあるおじさんでした。
「私は早稲田の学生で、たまたま浦上天主堂でここのことを聞いてきました」と答えると、
「あ~そうですかぁ。冷たい麦茶でも飲みんしゃい」と言ってくれました。
その瞬間、不思議なことですが「ここが私の居る場所だ!」と直感で感じました。

彼は、後に私にとって恩師となる野中先生という方でした。
長崎市の名門の一族の出身なのですが、長崎市政に強く反対したため、
左遷につぐ左遷に遭い、最後はこの小さな図書館の一館員となっていたのです。
ただしお話しを聞いてみると、彼の反骨精神というか気概は全く失われていませんでした。

大体、普通の観光者は如己堂を訪れません。
ですから、来るのは学校の先生や本当に歴史の深いものに興味のある人、
あと被爆問題に興味を持っている人などです。
彼はそこにやって来た若者や学校の先生、学生に「今日はどこにお泊りですか?」と訊ね、
おもむろに「そんなところキャンセルしなさい!」
「うちに来なさい。泊まんなさい」と言って誘うのです。
そうは言っても、ちょっと広めの家を借りていて、そこで皆で雑魚寝をするのです。
許可などとっていない、お勝手民泊です。

今はあるかは不明ですが、当時「銀嶺(ぎんれい)」という素晴らしいレストランがありました。
古い洋館でまさに長崎、ポルトガル、スペインという雰囲気も感じさせる
私みたいにお金のない学生にとっては憧れのレストランです。
その銀嶺に、「如己堂」で野中先生に声をかけられてその気になってくれた人たちが
夕方5時に集合します。実際に来るのは、声をかけたうちの3分の1位でしょうか?
ただし、その銀嶺で食事をするわけではありません。集まるだけです。
それから2時間位かけて、坂本龍馬の亀山社中(海援隊の前身)の古い建物や出島、
寺町などを回るのです。

ガイドブックには出てこない裏通りのあまり知られていないところを歩き、
その歴史を語り教えてくれました。
その後、皆で安い居酒屋に行きます。
だいたい居酒屋到着が、7時半とか8時頃だったでしょうか。
そこから2時間位飲んで、最後に先生のボロくて汚いお勝手民宿に行って、
そこでも盛り上がれば夜中の2時3時まで激論し、ようやく布団一枚かぶって寝るのです。
そして翌朝は、「こんなまずい朝食があるのか!?」と言うものが出ます。
なぜなら、先生と私が作っているからです。
史上最悪の朝飯だったのではないでしょうか?
そして、先生も私もろくに掃除をしたことのないような人間でしたので、
ほこりはたまったままです。布団も干したりしたか定かではありません。
宿泊代はなく、寄付金として1000~2000円を取っていました。

でも、そんな暮らしが楽しくて、結局広島には行ったのですが、
1泊か2泊ですぐまた長崎に戻って、しばらく長崎に滞在していました。
国鉄のパスは10日間しかありませんでしたので、
帰りはどうしたか忘れてしまいましたが、結構長く2~3週間は滞在していたと思います。
当時、携帯電話はありませんし、その間、親に全く連絡をとりませんでしたので、
家に帰ると、「おまえ、いったいどこに行ってたんだ!」と父親にひどく怒られたのを覚えています。

それが大学1年の夏休みの話です。
その後、春休み、2年の夏休み、春休みの計4回位、夏休みは40日間、春休みは20日位、
野中先生のお勝手民宿の手伝いに長崎に行っていました。

『竜馬がゆく』にも登場する、饅頭屋長次郎と言われた近藤長次郎という人物がいます。
彼は、非常に優秀な人でした。
しかし、優秀なだけに海援隊の中でも他の隊員とうまくいっていませんでした。
彼は他の人間を出し抜き、グラバーに頼んで勝手にイギリスに留学しようとします。
この彼の行為は亀山社中の社中盟約書に反することで、
それが間の悪いことに最大の理解者である坂本龍馬が京都に行って
不在の間に露見してしまいます。誰も彼を庇うものがいない中、
ついに長次郎は切腹に追い込まれてしまうのです。
京都から戻ってくると、龍馬はひどく泣いたそうです。
「なんでお前らは、こんなに優秀なやつを殺したんだ」と。
明治維新後、生き残っていれば日本を代表するリーダーの一人になっていたのではないでしょうか。
それほど優秀な人材だったのです。

その長次郎のお墓に、野中先生と行ったことがあります。
大学2年目の夏休みの、「精霊流し」(長崎のイベントで、同じタイトルの有名な
さだまさしさんの曲がありますが、彼の出身は長崎ですね)の日です。
街中の人が浮かれ、飲んだり騒いだりしている時に、
野中先生が「関しゃん(私のこと)、今日はちょっと大変だけど、あるとこ行きますから。
お客さんも呼びませんから。二人だけで行きますから」と言うのです。
一体、何をするつもりかと思いながらついて行くと、寺町のあるお寺に入って行きました。
あたり一面、どこもかしこも真っ暗です。
懐中電灯を持って行ったのですが、さすがに怖かったことを憶えています。

今でこそ大分有名になりましたが、当時は近藤長治郎のお墓なんて
誰も見向きもしませんでした。
ですから、草むしりなどは全くされていなくて、荒れ放題でした。
トゲのある葉っぱや背の高さまで伸び放題の草を、全部手でむしりました。
終わった後、居酒屋に行って手を見ると血だらけでした。
蚊にも100か所くらい刺されていて、へとへとになったのを覚えています。

そんなことをしてきたから、龍馬に対して特別な思いがあり、
後に「第二海援隊」(坂本龍馬の「海援隊」に続く、二番目の「海援隊」という意味)
なんて会社を作ることになったのかもしれません。

野中先生のところには、本当にいろいろな人が全国から集まってきて、
その人たちからいろいろな話を聞き、たくさんの話をしました。
何か有名な観光地に行くより、そこにいる方が断然面白かったです。
そして、その経験が今の私を作ったのかもしれません。

大学時代に長崎の野中先生の所で見聞きし、
体験したことが私の基礎を作り上げたといえるかもしれない。
それくらい、貴重な人生経験だった。
       (2020年7月 東京・羽田空港にて)