天国と地獄
 

2020年10月26日更新

第145回 大学時代の思い出<その1>

 

以前のコラムで、すでにお話ししている部分があるかもしれませんが、
今回は大学時代の話をしたいと思います。
私は早稲田大学の政治経済学部の政治学科という、
早稲田大学で一番人数が少ない学科に入学しました。
もともと早稲田大学というのは、大隈重信が創設し政府側ではなくて民間側という、
「在野精神」というものをとても大事にしており、
野武士的な学生が非常に多い不思議なところでした。

大学3年の頃、慶応大学の学生と交流する機会が結構あったのですが、
慶応の学生というのは本当にお坊ちゃんタイプで、品が良くておとなしく、
対して早稲田の学生はやはり一人ひとり個性があり、野武士的で、政府や公に対しては
良い意味で彼らが悪いことをすれば楯突いてでも自分の命を懸けて何かをやるという、
独特な校風がありました。
今はわかりませんが、私たちの頃は結構“バンカラ”で個性が強い大学だったのです。

私は付属高校から入ったものですから、
全く浪人もせずに18歳の時に早稲田の政経に入りました。
本来、早稲田の理工学部に行くはずだったのですが、
たまたま高校時代に本屋で公害の本を読んでショックを受け、
「早稲田の理工学部に行けばその公害を垂れ流す側に立つのだろうな」と思い、
絶対にそれは嫌だったことと、できたら政治家になりたいという思いもあり、
父親の反対を押し切って早稲田大学の政治経済学部の政治学科に入ったのです。
私の家は普通のサラリーマンの家でしたので、「よく早稲田に入れてくれたな」
と思うのですが、当時の学費は今と比べると安かったですね。

入学すると、構内ではいろいろなサークルから勧誘されました。
体育会系のクラブから応援団(早稲田には有名な応援部というのがあるのです)、
それから旅行研究会や鉄道研究会などいろいろあったのですが、
たまたま「日本の古典を読む会」から声を掛けられ、
本当はあまり興味がなかったのですが入部してしまいました。
それがまた、江戸時代やそれ以前の学者が書いた、読んでもほとんどわからない
非常に難しい「言志四録」(佐藤一斎が後半生の四十余年にわたり記した随想録で
指導者のためのバイブルと呼ばれ、西郷隆盛終生の愛読書でもある)
という本を真剣に読む勉強会でしたので、正直「困ったな」と思っていました。

大学にも慣れた夏休みのある日、家で夕飯でも食べようかなと思っていると、
近所のお米屋さんのマツノさんのお父さんが突然やって来て、
「うちの娘、学校の勉強のデキが悪いので、家庭教師的なことをやって教えてくれないか?」
と言うのです。その娘さんの友達も一緒に引き受けることになり、
実家の2階の6畳一間の自分の部屋に折り畳み式の小さなテーブルを買ってきて並べ、
小学校4、5年生くらいの女の子2人を生徒に学習塾を始めたのです。
早稲田にちなんで「稲穂塾(いなほじゅく)」という名前にしました。

勉強の仕方がわからない子供たちに基礎から勉強を教えると、非常に人気が出ました。
どんどん生徒が集まって繁盛し、下手すると当時の普通のサラリーマンより
年収が多かったのではないでしょうか。毎月30万円くらいは稼いでいたのです。
当時は1973年の第1次石油危機の時です。学生番号が73でしたからよく覚えています。
第4次中東戦争をきっかけにOPEC(石油輸出国機構)が原油価格を一気に4倍に引き上げ、
石油依存度の高い日本経済は激震に見舞われました。「トイレットペーパー騒動」が発生し、
翌74年の消費者物価指数は20%以上上昇、「狂乱物価」と呼ばれました。
さて、その73年のサラリーマンの平均年収はといいますと、
厚生労働省の統計調査によれば約140万円です。
そんな時代に、大学1年生の私は360万円も稼いでいたのです。
平均的サラリーマンの2.5倍ですね。ですから大学2年以降、学費は自分で出していました。
実家暮らしでしたので居住費と食費だけは親に出してもらっていましたが、
それ以外は自分で出していました。学生にしては随分とリッチだったのです。

そのお金を使って、大学2年以降は夏休みに毎年40日間ヨーロッパ旅行に行っていました。
そして子供たちには、その間「大手の夏期講習に行って勉強しろ!」と言っていたのです。
それでも、9月になると必ず全員が戻って来ました。
自分で言うのも何ですが、私は非常に面倒見が良く、教材は全部手作りでした。
いろいろな教材を買ってきて、その中から生徒が最低限これだけできれば良い、
というものを選んで教えたのです。
本当に簡単な足し算、掛け算から始まり、分数計算、漢字に至るまで、
一番大事なポイントだけを選びました。
それらを盛り込んで、手書きで教材を作っていたのです。

その当時はコンビニのコピー機もありませんでしたので、
大学の政経学部の図書館で100円玉や10円玉をたくさん持ってコピーしていました。
ですから、周りからは「何をやってるんだ?」と思われていたでしょう。
こちらは子供の塾の教材でしたので、
他の学生が図書館の本をコピーする際には「どうぞ、お先に」と譲りながら
暇な時にコピーして教材を作っていました。

塾は、大学の講義が早く終わった日はそこに合わせて早い時間から、
遅い日は遅い時間から教えていました。
さすがに日曜日は休みにしていましたが、土曜日はやっていましたので
週6日はやっていたのではないかと思います。
最終的には一人の生徒に対して結構難しい大学受験の家庭教師までやりましたが、
あれは本当に大変でした。
さすがに大学受験くらいになると、こちらでもわからないことがあるのですが、
先生というのは生徒から馬鹿にされてはまずいですし、
絶対にわからないと思わせてはいけないのです。
ですから「しょうがないな、こんなこともわからないのか。
明日までに勉強して来い!」と言って、こちらも夜中に必死になって正解を見つけ、
次の日に知らん顔して「わかった? キミ、できた?」「いや、できません」
「じゃ、教えてあげよう」と。そういう、いろいろな手を使って乗り切ったのです。
大学受験は確率計算などかなり難しいので、良い勉強になりました。

それから、よく生徒たちを東京国立博物館やいろいろなところに連れて行きました。
近所の利根川の支流の小貝川には岡堰(おかぜき)という小さなダムがあり、
「今度の日曜日、天気良さそうだな」と言うと、
一番下は小学校4年、上が中3か高校で、その中で来たい人だけ集まり、皆でよく出かけました。
最盛期には、1クラス6人として全部で40人近く教えていたのではないでしょうか。
後で聞いた話ですが、稲穂塾はすごく評判が良くて、
後々まで「あの塾があれば良かったのにね」と親御さんの間で有名だったそうです。
今は塾がたくさんありますが、当時はあまりなかったのです。

大学時代、早稲田の政経政治でたまたま私が取った授業の中で、
藤原保信先生の政治思想史は面白かったです。
西洋中心なのですが、ギリシャ哲学から始まって、
マキャヴェリやトマス・ホッブズなどの政治思想を英語の原文で読むのです。
藤原先生はすごく優秀な先生で、人気もありました。
私も「この先生、面白いな!」と食らいついて、よく研究室に勝手に遊びに行っていました。
ただ、「古臭い昔の政治思想なんて勉強していても、
今そこにある政治を変えなきゃダメですよ!」などと言って研究室で1時間半激論し、
なんと最後に先生を泣かせてしまったのです。
若気の至りとはいえ、ひどい学生だったと思いますが、先生と一騎打ち、いや、いい思い出です。
その先生は政経学部長にまでなられたのですが、
その後、白血病か何かで若くして亡くなられました。
私が毎日新聞社を辞めてすぐの頃でお葬式にも行きましたが、
そのときにはもう「浅井隆」になっていて、歳月を感じたものでした。

私は早稲田大学というのは“バカ田大学”だと言っているのですが、
中にはひどい講義があって、ただ教授の書いた教科書を読んでいるだけのものがありました。
しかも、必ずその教科書を買わないと試験に合格しないのです。
早稲田大学は古くからありますので、教科書だけを売っている書店が大学の近くにあり、
そこに行って買うのですが、その教科書を買わせて自分に印税が入るようにしているのです。
それをただ読むだけ、何もしないのです。
黒板にも書かないし、ただただ読んでいるだけです。
本なら自分で読みますし、あれを授業とは呼べません。
ひどい教授でしたので、ほとんど講義にも出ませんでした。
ただ、単位を落としたらまずいと思ったので、単位を取るためには出ていましたが。
それから、早稲田大学の夏休みは40~50日と長いのです。
授業をやっている期間が短いので、ある意味ひどい大学ですね。
前期試験がだいたい7月に終わってしまうので、
そうすると9月の中旬まで授業がなかったのではないでしょうか。

まあ、しかし校風は良かったですし、たまに良い先生にも出会うことができました。
明治大学から来ていた岡野加穂留先生の授業は面白かったです。
むしろ早稲田よりも、外部から来た先生の方が政治家と結構コネクションを持っていて、
政治の裏話などを話してくれて、非常に面白かったなというのを覚えています。

次回は、大学1年の夏休みに私の人生を変えた長崎旅行の話をしたいと思います。

大学時代に塾をやったことが、
私の商売(経営)の原点とも言えるかもしれない。
個人規模ではあったが、
大勢の子どもたちをいかに集め、満足させるか。
そのために細かい配慮をし、時間と労力を費やした。

   (2020年8月 鹿児島県・霧島市にて)