天国と地獄
 

2020年12月15日更新

第150回 大学時代の思い出<5ヵ月半に亘る海外遊学編③>

 

二軒目のホームステイ先は、ブレイトンさんという人の家でした。
ブレイトンさんには子供がいなかったので、わが子のように私を本当に可愛がってくれました。
最初のホームステイ先は、正直に言うと「ひたすら稼ぎたい」という感じがプンプンしていました。
出てくる料理もひどく、「こんなベーコン食べたらお腹を壊すな」というほど
油がギトギトなものなど、安い加工品がほとんどでした。
ところがブレイトンさんのところは、奥さんが美容師だったのですが、
南アフリカの黒人と白人のハーフでした。
とても料理が好きで家も綺麗。しかも泊まっている留学生は私だけです。
私のこともとても気に入ってくれました。
ブレイトンさんはカメラが趣味だったのですが、そこで私もカメラに関心を持ちました。
カメラマンになったきっかけは、ブレイトンさんだったと思います。

私は10歳で学問を志し、20歳でイギリスに渡って英語を覚え国際的な感覚とリスク感覚を身に付け、
さらにはカメラを教わりました。
そして、これまでのコラムでも述べたように、
30歳でノラッド(アメリカの核戦争司令部)を取材しています。
しかも、自費で取材した写真の版権を毎日新聞と交渉して自分のものにし、
それをいろいろな出版社に売り込み、そこから様々な人脈を作り、初めて本を書いたのです。
そして、40歳の時に第二海援隊を作りました。
50歳で全てが安定し、60歳からボランティアを始めました。
この先、70歳にもまた何かあるのではないでしょうか。
こうやって、10年ごとに運命を変える出来事が起きてきたのです。

地球儀を見るとわかりますが、ボーンマスはイギリスの一番南にあり、
すぐ反対側にはフランスがあります。
緯度はロンドンからは南西に特急列車で2時間半位のところで遠いのです。
北海道よりも北に位置し、樺太の真ん中位にあります。
それなのに、そんなに寒くない。メキシコ湾流(暖流)があるからです。
これがなければ、死ぬほど寒いところです。
もともと霧が多く雨も多いのですが、
たまたまその年は30年とか50年ぶりに晴れが多くとても暑い年でした。
ずっと晴れていました。
ところが私がパリから帰ってきたら、今度は一変、晴れ間がほとんどない日々が続きました。
ブレイトンさんのところにいた時期です。

何しろお金がないものですから、語学学校にずっと通うことが出来ません。
10月末くらいからまた2ヵ月間くらい別の語学学校に通いましたが、
それまではブレイトンさんの家から徒歩で2時間くらい歩いて
(距離でいうと10キロ位でしょうか)隣町のプールの図書館まで行き、
そこで勉強していました。ひたすら英語の本を読みました。
周りには誰も知っている人などいません。
ただ、図書館は誰でも利用できるので良かったです。
その頃の私は、バスにさえ乗りませんでした。
バスに乗ったらそれだけお金が消えていくからです。
何しろ、1日の生活費は3000円です。
6ヵ月の予算は90万円でしたが、6ヵ月で割ると1月15万、
これには飛行機やホームステイの費用も含みます。
15万÷30日は5000円ですが、飛行機代や交通費を除くと
1日の生活費として使えるのは3000円以下、
いや2500円とか2000円とかだったと思います。

話は戻りますが、パリのポートロワイヤルホテルに滞在していたときの夕食も
レストランなどでは食べていません。
道を挟んだところに雑貨店のような、
いろいろ食料品を売っているお店があったのでそこで調達していました。
オーナーはフランス人だったと思いますが、店員はアラブ人なのです。
私はフランス語はできませんでしたが、そこに通っているうちに
数字くらいはしゃべれるようになりました。
ちなみに、夕食は基本的にパンとハムだけです。ハムは2枚しか買えません。
あとは水道水です。ミネラルウォーターは高くて買えません。
毎日、そのお店でハムを「ドゥー(2枚)」と頼んでいたら、
アラブ人の店員が私のことを「ムッシュ・ドゥー」と呼ぶのです。
「2枚の男」です。彼も貧乏なのでお互い同情を込めて苦笑いしながら話していました。
たまに、オーナーの見ていないところで切れ端をくれました。
そして、1週間に一度だけ148回で述べた「京子」で餃子を食べました。

ブレイトンさんのところは、最初のホームステイ先に比べると
見違えるほど素晴らしい食事でした。
一軒目のホームステイ先だったポンドさんのところにいたときの話ですが、
食事の面で3週間目くらいが一番きつかったことを覚えています。
毎日ひどい料理ですし、朝の主食は決まってシリアル
(当時はコーンフレークといっていました)です。
いまでこそシリアルは日本でも普及していますが、
当時は日本ではこんなもの食べたことがありませんでした。
牛乳を入れて食べるのですが、最初は“犬のエサ”かと思いました。
日本の実家では、貧しいとはいえ大好きな納豆ごはんなどを食べていましたので
日本食がとても恋しくなりました。
寝ていると、白いご飯、納豆、おしんこ、味噌汁などが夢に出てくるのです。
しかし、目が覚めるとイギリスの狭い部屋にいるという現実に戻り、
本当に涙が出ました。
ところが、2ヵ月が過ぎたあたりからシリアルが好きになり、
日本に戻った直後は朝食にシリアルを食べていましたから、慣れというのは不思議なものです。

もう亡くなったと思いますが、前述したようにブレイトンさんは
私のことを自分の子供のように可愛がってくれたので、
毎日夕食後リビングで英会話の練習に付き合ってくれました。
それでだいぶ英語を覚えたのです。
家は裏庭のある、小さいけれど綺麗で素敵なお家でした。
当時びっくりしたのは、食事のあとブレイトンさんが必ず皿洗いをするのです。
「日本とは違うなぁ」と思った記憶があります。
ニュージーランドもそうですが、旦那さんがお皿を洗うのです。

イギリス滞在中、日本人の友達と映画を見に行ったことがあったのですが、
映画館でイギリス人の中で映画を見ていると、
時々イギリス人が笑うのですが私たちには
「何かおかしい場面があったのか?」とわからないのです。
英語の深い意味が理解できないのです。
その友達と「今の、どこがおかしいんだよ?」と顔を見合わせる。
イギリス人が笑い終わってから、私たちが遅ればせながら笑うのです。
周りを見ながら(わかってもいないのに)笑うのです。
すると、今度はイギリス人が「何だ?」という目で見てくるのです。
面白いと思うとか笑うということは、
英語だけでなくその国の習慣などを理解していないとできるものではありません。
半年いただけでは、そこまで理解することはできませんでした。
本当に英語を習得するには、ほとんど日本語で話さない環境で、
大学に入って英語で試験を受けるなどをして、
最低でも2年か3年は真剣に勉強しないと習得できないのではないでしょうか。

ブレイトンさんの家でお世話になった後、いよいよヨーロッパ一周に出かけました。

大学時代のイギリス遊学と
その後のヨーロッパ放浪で
学んだ英語のおかげで、
私はその後の外国人との
ビジネスでの話し合いや
交渉に臨むことが出来た。
どんな所でもどんな形でも、
学ぶ気持ちさえあれば
人はそれを会得することができるのだ。

(2020年11月 東京・御茶ノ水にて)