前回の続きです。
さて、祖父は奇跡的に戦場を生き残って帰ってきたわけですが、
昭和恐慌(昭和4年:西暦1929年)の時、他人の債務をかぶってしまい、
工場を潰してしまいました。
恐らく、自分の商売だけでしたら何とか持ちこたえていたと思うのですが、
人がよすぎたために債務保証をたくさん請け負っていたのです。
結局、親戚中から「債務は肩代わりするから出ていけ」と言われ、
子供たちを連れて東京に逃げ出てきたのです。
それまでは、毎晩芸者をあげているような大金持ちの家で、
私の父も世間の厳しさに触れたこともない生粋のお坊ちゃんでした。
実際、父は小学校までは学校に乳母がついてきたそうです。
終わるまで待っていて、一緒に家に帰ったというくらい筋金入りのお坊ちゃんだったのです。
ところが、東京に落ちのびたその日から赤貧、極貧の生活になり、
父はやむなく新聞社の給仕になったそうです。下働きですね。
そして、たまたま何かの使いでその当時の農林大臣の有馬さん
(有馬頼寧:競馬の「有馬記念」を創設したことで有名)の所に行ったそうです。
すると大臣が、「君はどこから来たの?」と声を掛けてくれたので
「新潟出身です。家が破産して東京で働いています」などと答えると、
「君はたまにここに来て、秘書に勉強を教えてもらいなさい」と言われ、
お茶とお菓子を出してくれて、2時間位勉強を教えてくれたそうです。
今でいうと、中学1年か2年の少年が働いているのを見て、
この子の将来のために学問を身に着けさせた方がよいと考えたのでしょう。
今は大臣といってもあまり大した人物はいませんが、
昔は大臣といったらとんでもなく権威も人徳もあったのです。
こうして苦労して働きながら勉強していた父は、やがて太平洋戦争が始まると、
まだ召集令状も来ない年頃なのに、志願兵として海軍と予科練を受けたのです。
何とも、血気盛んなことですね。
ちなみに予科練というのは、その後ほとんどが「特攻隊員」となるのです。
もし、予科練に先に受かっていたら、ゆくゆくは特攻隊になっていたでしょうから、
私も存在していなかったことでしょう。
海軍に入り、そこでもゼロ戦のパイロットを志願したのですが、
試験に落ちてパイロットにはなれませんでした。
いくつもある試験科目にはすべて合格したのですが、
最後に行なわれた、遠心分離機のような機械に乗り、
気を失ってから何秒で回復するかというテストで、わずか0・5秒足りずに落ちたそうです。
それでもゼロ戦にかかわりたいということで、ゼロ戦の整備士になったそうです。
そんな父でも入って3日で嫌になったというくらい、海軍は本当に厳しかったそうです。
初年兵は、冬に水が凍っているようなところで、朝から裸足で洗濯させられたといいます。
血圧が低い人などは、卒倒してしまうそうです。
そして、何かミスするとバットで打たれ、それでけがをしたり身体を壊してしまった人も
たくさんいたようです。すごい体罰だったそうです。
あまり知られてはいませんが、軍隊では自殺が非常に多かったそうです。
そんな状況下でも、父は耐えに耐えぬいて、最後まで生き残って帰ってきました。
祖父譲りの、極限の環境を生き抜く「サバイバル力」のなせる業ということでしょうか。
今から5~6年前、父がまだ元気だったころに、
ゼロ戦のかなり精巧な模型をプレゼントしたことがありました。
配達で届けられた荷物を開けた父がお礼の電話をくれたのですが、
その電話口で変なことを言いだしたのです。
「ゼロ戦って、こういう形をしていたんだね~」と。
私は「あれ? 認知症が始まったかな?」と思ったのですが、そうではありませんでした。
その1週間後くらいに実家に行った時に詳しく話を聞いたのですが、
父は戦時中、台湾の前線基地にいたそうです。
当時、そこで扱っていたゼロ戦は全てぼろぼろだったそうです。
撃墜寸前まで機関銃で打ち抜かれ、パイロットも血だらけになって帰ってきて、
エンジンを止めるとともに息絶えてしまった、ということもあったそうです。
物資不足で新しい部品もないため、動かなくなったゼロ戦から部品を取り、
別の機体につぎはぎにして何とか動くようにしたものばかり飛んでいたそうです。
当然、見た目はボコボコです。父は新品の本当のゼロ戦など、見たことがなかったのです。
だから「ゼロ戦というのはこんな形をしているんだ~」となったというわけです。
そのぐらいひどい状態で、日本は戦争をしていたのです。
これではアメリカになど、とうてい勝てるわけがないですね。
私の父はたまたま偶然がいくつか重なって生きて帰ってきましたが、
考えようによっては奇跡のような生還劇です。
父が無事帰ってこられた理由のひとつに、
遠い親戚の小池さんという人の存在があったようです。
この小池さん、実は海軍中将だったのです。
中将と言えば大将の次に偉い人ですから、一般の兵隊からすれば雲の上の存在です。
もともと弁護士をしており、戦時中は軍法会議のトップをやっていました。
軍法会議というのは実に怖いもので、軍内で問題を起こしたりすればこれにかけられて、
下手をすると死刑になります。それを取り仕切るトップと血縁関係があるということで、
海軍の中でも何かと良くしてもらったようなのです。
あるとき、父の部隊で問題を起こして軍法会議にかけられることになった人がいました。
すると、いつも怖い鬼軍曹が優しい顔で父を呼んだのです。
「お前のために美味しいお菓子を酒保(しゅほ:軍施設内の売店)で買ってきたぞ」と。
さらに次の日には、その鬼軍曹がさらに偉い人を連れてやってきて、
父を別室に呼んでこういうのです。
「関、小池中将殿はお前の親戚らしいな」と。
父は小池さんのことを忘れていたらしく、「違うと思いますよ」と言ったのですが、
もちろん向こうはすべて確認済みです。
軍隊というのは入隊前に思想調査をはじめ身辺調査を徹底して行ないます。
もちろん、戸籍なども詳しく調べられていて、誰が親族かなど当然知っています。
そのことを念押ししたうえで、鬼軍曹と偉い人は父にこう言ったそうです。
「(父の所属する)○○基地の中で問題が起きていて、今度横須賀で軍法会議が開かれる。
なるべく刑を軽くしてもらえるよう、手紙を書いて欲しい」――。
仕方がないので、父は小池さん宛てに手紙を書いたそうです。
しかも、一度ならず何度も同じような話があったそうです。
やがてその話が広がると、「関だけはいじめちゃいけない」と基地の司令官をはじめ
全員から大事にされたそうです。
戦後、父がその小池中将と再会した時には、
「おまえには本当に困った。何回も何回も手紙を書いてきて、
そのたびに本当はやってはいけないけれど減刑にした」と言われたそうです。
父は小学校しか出ていなかったのですが、軍の中でも非常に優秀で、
また勉強も必死にしたそうです。そして、試験を受けてどんどん昇進して行ったそうです。
戦局が悪化し、いよいよ本土決戦で負けるかもしれないという状況になると、
海軍のトップも優秀な人材は失うわけにはいかないと考え、
父のいた台湾の基地からも優秀な若手たちが本土に戻されたそうです。
父も「最後まで生かすべき人間」として横須賀に戻され、それで助かったらしいのです。
ちなみに本土帰還時に使われたのは、不思議なことにDC3などの、
アメリカの飛行機だったといいます。
横須賀に帰ってきてからも父は戦闘に参加しましたが、
中でも最も恐怖を感じたのが空母から飛んでくる「艦載機」だったそうです。
敵が爆弾で攻撃してきた場合、爆弾はどこに落ちるかわからないので
「殺られる」という恐怖は少ない(もちろん不安はあります)のですが、
艦載機は機銃掃射という機関銃を打ちながら迫ってきます。
もう、相手のパイロットの顔までわかるほど近づいてくるのです。
しかも、機関砲は並の機関銃や鉄砲ではありません。
口径20ミリ(2センチ)などの大きい弾で、
それを時速何百キロで飛んでくる飛行機から打ち込んでくるのです。
もし、これに当たれば「やられた!」とか「痛い!」というようなものではなくて、
首や上半身が吹き飛んでしまうくらいのすごい威力なのです。
自動車なども、一発当たれば軽く吹き飛んでしまいます。
戦車でもやられてしまうぐらいのものです。
そんな艦載機を地上にある機関砲で応戦するのですが、
もう、怖いなんていう生やさしいものではない恐怖だそうです。
顔が見えるほど近くまで飛んでくる相手に、狙いを定めて打つのです。
砲士の後ろにはだいたい指揮官がいて「やれ~。撃て~」などと叫んでいるのですが、
ある時、急にその声がしなくなったそうです。
敵機が去って父が後ろを見ると、その指揮官は上半身がなくなっていたそうです。
想像することすら困難な経験を、父はしてきたのです。
横須賀での戦闘では、たまたま南方の激戦地から戻ってきた古参兵もたくさんいたそうですが、
そういう人たちはもう命令も聞かず、真っ先に逃げてしまったといいます。
戦地で仲間がほとんど全滅した中、必死の思いで本土まで生き残って帰ってきた人たちです。
やっと帰ってきたのにこんな所で死にたくない! という気持ちだったのでしょう。
もう、上官が何を言おうが何をしようが、機関砲を置いて逃げたそうです。
戦争というのは、人間をも大きく変えてしまう、そういうものなのです。
ただ、海軍というのは陸軍と違って、食事事情は本当に良かったそうです。
終戦直前まで、羊羹があったと言っていました。たばこもあったそうです。
戦争が終わって東京の実家に帰ってきた時、あまりに食べ物がないのでびっくりしたそうです。
それからは、悲惨な生活が始まりました。
戦後のどさくさの中、父親は芋を千葉あたりに買いに行って、
それをふかし芋にして売っていたそうですが、人が好いのであまり儲からなかったそうです。
そうこうするうちに、たまたま新橋のガード下に「国鉄職員募集」という張り紙を見つけ
応募したところ、「これを担いでみろ!」みたいな簡単な試験で受かってしまったようです。
父は、その国鉄でも力を発揮しました。
実は、国鉄も学歴社会だったのですが、父は小学校卒業という最終学歴にも関わらず、
技術方面を中心に立派な功績を残したのです。
父は、現在利用されているSuicaの元になるシステムを作るかたわら、
埼京線のアイディアなども出したそうです。
このアイディアは、初めは国鉄内部でもずいぶん馬鹿にされたといいます。
しかし、埼玉と湘南をつなげれば大動脈になるというアイディアは、
その後結実し、現在に至ります。
実は、父の本業は信号関係でした。
信号というのは、鉄道の安全運行に欠かすことのできない、きわめて重要な仕事です。
そうした経緯もあってか、昭和天皇に二度招かれて、
目の前で会っていくつか質問もされたそうです。
二回目に招かれた時には当時の磯崎総裁も同行していて、
総裁の方はガチガチに緊張していたそうです。父はさして緊張もせず、
「そんなに忙しい仕事ばかりして楽しみはないのか?」と天皇陛下から聞かれると、
「新橋の赤ちょうちんに行っております」と答えたそうです。
昭和天皇は「赤ちょうちん」がよくおわかりにならない様子で、
お付きの侍従が耳打ちで詳しく説明すると、昭和天皇は何とも楽しそうに笑ったそうです。
昭和天皇と言えば、あまり笑ったところを見せない方のようでしたが、
そのときには本当に嬉しそうに笑ったそうです。
父はあとで磯崎総裁に呼ばれ、「陛下に『赤ちょうちん』を言うなど、失礼だ!」と
ひどく怒られたそうですが。
ちなみに、「赤ちょうちん」の話は本当に昭和天皇がとても喜んで下さっていたそうで、
後日宮内庁から普段とは違う、とんでもない贈り物がたくさん届いたそうです。
父は国鉄をもう大分前に退職しました。
そして、その後65歳を超えてからボランティア活動を始めました。
地元である茨城県取手市には、身体障害者や精神的障害者のための施設があまりなかったので、
父が発案して施設を整備し、団体を作りました。
その活動が、地元の新聞にも載ったほどです。
第二の人生をそのようなボランティアに捧げたというのはすごいことだな、と思います。
そしてその頃、趣味の自転車に乗って日本のみならず世界中を旅していました。
「エジプトを自転車で走っていた時には、熱中症になり大変だったよ」と
笑いながら話す父の体力と気力に感服したものです。
父は実に不思議な人で、私は子供のころ一度も「勉強しろ」とか
「学校の成績表を見せろ」などと言われたことはありませんでした。
私は子供の頃、百科事典が好きでよく読んでいましたが、
父からは逆に「ガリ勉はダメだ。あまり勉強するな」などと言われました。
そんな変わり者の父でしたが、「この人はきっと武士なんだな」と思った出来事があります。
父が大切にしていた、頂き物の盆栽が家にあったのですが、それを私がぶつけて落としてしまい、
盆栽をぐちゃぐちゃにしてしまったことがありました。
私はそれを、わからないようにうまく直して黙っていたのですが、
あるとき父が、それに気付きました。
「誰がやったんだ?」と言う父に知らぬふりを決め込んだのですが、
私がやったことがばれてしまいました。
すると、父にげんこつで一発殴られ「正直に言え! 卑怯はだめだ」と一度だけ怒られました。
普段あまり怒らない父にしては珍しいことで、よほどしっかりと教え諭したかったのでしょう。
それだけに、今でも私の心にはこの出来事が非常に強く刻まれています。
父は、若い時はよく会社の同僚と数人で飲んでベロベロになり、
突然、家に同僚を連れ帰ってきたりもしました。
同僚を巻き込んで家で数時間もグダグダ飲んでいるのですから、母はたまったものではありません。
父に言われて酒の肴を作らされていましたが、台所で嫌な顔をしていました。
まあ、いわゆる「豪傑」ですが、昔ならいざ知らず、今、あんなことをしたら即離婚でしょうね。
しかも、家にはほとんどお金を入れず、飲んで使ってしまっていました。
私は、「父は国鉄でも結構偉い役職にもついていたのに、
うちはなんであんなに貧乏だったのか?」と思っていました。
今でもよく覚えていますが、小学校5年か6年の頃、
国鉄の官舎住まいでしたが家にはほとんど家具もなく、ちゃぶ台がひとつあるくらいでした。
母がその何もない西日があたる部屋で、1個作ると10銭(つまり、10個作って1円)
という内職をするのを、ずっと見ていたことをよく覚えています。
母は、苦労してばかりで若くして死んでしまったのですが、
母が死ぬ数年前、友達と久しぶりに出かけてニューオータニの上層階にある回転レストランで
300円くらいのアイスクリームを食べたことを嬉しそうにずっと話していたことが、
とても印象に残っています。生きていればもっと親孝行できたのに、と残念に思います。
その分、父にはいろいろと親孝行してきました。これからもまだまだしていきたいと思います。 |