天国と地獄
 

2020年7月15日更新

第135回 ファミリーヒストリー(上)

 

コロナウィルス感染予防のため、家でご家族と一緒に過ごされているという方も多いかと思います。
こうした時こそ、家族の「歴史」について話をするにはよい機会でしょう。
そこで今回は、私の祖先についての「ファミリーヒストリー」をお話し致します。

ご存じの方もいらっしゃるかもしれませんが、実は「浅井隆」という名前はペンネームで、
私の本名は「関」と言います。
「三国志」で有名な三国時代、中国には魏、呉、蜀という3つの国があり、
魏は曹操、呉が孫権、蜀は劉備玄徳とその軍師の諸葛孔明が率いていました。
この時代には名だたる武将が活躍しましたが、中でも「張飛」そして「関羽」という将軍は有名です。
この関羽という名前、実は苗字が「関」で「羽」は名前です。
ですから関羽というのは、「関さん」なのです。
ある時、それに気づいてから私は、自分の家系が関羽の末裔か、
いや、さすがに子孫とまでは言わずとも、
「関」は中国に関係する名前なのかな、などと思っていました。

私の祖先については、十数代前までの家系図が残っていて詳しくわかっているのですが、
初代は上杉藩の藩士をしていました。
上杉藩というのは、江戸時代の中期は山形の米沢にあったのですが、
それより以前の豊臣秀吉の時代には、会津にあったのです。
さらにさかのぼると、新潟に行きつきます。
しかも家祖の上杉謙信は、もとから上杉だったのではなく「長尾景虎」という名前でした。
室町時代、将軍に次ぐ高い地位にあって関東全体を治めていた(関東管領)のが上杉家でした。
謙信は、23歳(一説によると31歳)の時に関東管領と上杉姓を譲り受けたのです。
時は戦国時代で、当時台頭していた織田信長などは政敵を排除するため比叡山を焼き討ちし、
将軍家への忠誠をぶち壊すというようなことが起きていましたが、
上杉謙信という人物は古い考えを持っており、むしろ将軍家を大事にしていました。
そこで、長尾家が仕えていた上杉家の養子となり、残っていた関東管領の職と
上杉家の家督を引き継いだのです。それで「上杉」という名前に変わったのです。

その上杉家は、関ヶ原の戦いで西軍方(豊臣側)についたため、
その後徳川家康から不遇を受けました。
家を取り潰されはしませんでしたが、会津から米沢へ、当時の米の取れ高でみれば数分の1の、
貧しく何もないところに押し込まれてしまったのです。
また、上杉藩というのは公家の支族である上杉氏の藩ということもあってか、
格式は高く家臣は大変多く、いつも財政破綻していたようなところでした。
しかし、のちに上杉鷹山という人が上杉氏の養子に入り、
財政を立て直したという有名な話があります。

私の十何代か前の祖先はその上杉藩の藩士だったのですが、私の祖先もそんなに偉い身分ではなく、
おそらく足軽かその上くらいだったと思います。
武士とは名ばかりで、実際のところは農民以下の生活水準、
つまり小さな畑を自分で耕して何とか生きていたのだと思います。
そして、そんな生活に嫌気がさしたのでしょう。
「気が鬱した」という言い回しがありますが、その言葉のようにうつ病になりかけて、
「もう、こんなだったら、藩士をやめよう」ということで、
あるとき家禄を捨てて全国を放浪したらしいのです。
もともと上杉藩は新潟がルーツでしたので、知り合いかツテがあったのでしょう。
ある新潟の商人の家に居ついて、居候か用心棒のようなものをやっていたのです。
その二代目か三代目が天才的な商才に恵まれ、一代で巨万の富を築いたということです。
それ以降、新潟の「加茂」という小さな町で、郷土の歴史に代々名を残すような財閥になりました。

しかし残念ながら、幕末から明治にかけて、その財閥も没落してしまいました。
幕末当時、現在の新潟を治めていた長岡藩には河井継之助という非常に優秀な家老がいました。
長岡藩は薩長率いる官軍に盾を突き、いよいよ官軍と戦わざるを得ないとなった時、
横浜まで行って当時の官軍でさえも持っていないような、
「ガトリング砲」という回転式の機関銃を二台購入し、それで官軍を苦しめました。
これが、北越戦争です。
開戦当初は、あわや官軍が負けるか、というほどの勢いでした。
もし、官軍がそこで勝っていなければ、明治維新は成されなかったでしょう。
その位、長岡藩そして河井継之助は強かったのです。

ただその分、維新後はしいたげられてひどい目にあったそうです。
当時の「長岡」は、新潟地方の中心地でした。
一方、「新潟」という場所はもともと何もない漁村でした。
それを、無理やり廃藩置県の時に県都としての県庁所在地を「新潟」に移したのは、
いじめ以外の何物でもないでしょう。
福島の「会津」も同じです。
本当は、福島地方の中心は「会津」だったのですが、会津藩が官軍に抵抗したために会津県とはせず、
当時は小さな村だった「福島」に県都を移したのです。
政権交代期には、往々にしてそういうことが行なわれるものなのです。

さて、その河井継之助が官軍との戦に負け、
たまたま新潟の加茂のあたりまで逃げ落ちて来た時、
うちの祖先が軍資金を与えてまた戦争に行かせたそうです。
戦争というのは、とにかくお金がかかります。
与えたという軍資金は、今でいう30~40億円くらいだったのでしょうか。
おそらくそれで財産を減らし、さらに官軍に仇なす者の手助けをしたこともあって
没落してしまったのかもしれません。

明治維新から、さらに時代は下ります。
私の父親の父親、つまり私の祖父の代では、財閥の分家ではありましたが
小さな紡績工場を経営していました。
祖父はとてもお酒が好きで、熱燗をちびちび飲みながら当時子供だった父親を膝に乗せて
昔話をしてくれたそうです。当時、熱燗で酒を飲むのはきちんとした家の飲み方で、
日雇いの労働者などはみな、冷酒をあおったといいますから、
おそらく祖父の代は、まだ町でもそこそこ裕福な家のひとつだったのだと思います。

その祖父が、酒を飲みながらたびたび口にしていたのが「乃木将軍だけは困った人だ」という話です。
それでわかったのですが、実はうちの祖父は陸軍の兵士として日露戦争に参加していただけではなく、
あの二百三高地の現場にいたのです。しかも、「伝令」としてです。

日露戦争当時は、戦場の前線部隊の司令官が乃木将軍に対して
「今、全滅しそうだから助けてくれ、援軍をよこしてくれ」などということを、
伝令を走らせて伝えていました。
もちろん伝令というのは、敵にやられないように塹壕の中を走っていくのですが、
それでも頭を時たま出したりするので、高所からは見えるそうです。
ロシア軍としても伝令を殺してしまえば命令が行かず敵を叩けますから、
機銃掃射で上から狙い打ちするわけです。
そのため、伝令というのはほとんどが死ぬ運命でした。
しかも、頭を打ちぬかれてです。おおよそ95%の伝令は死んだそうです。
そんな中を生き残って帰ってきたのですから、よっぽど祖父は運が良かったのでしょうね。

さて、「坂の上の雲」などを読んでもわかるように、
乃木将軍という人は、長州(山口県西部)出身で非常に人格者で歌もうまかったのですが、
戦争は死ぬほど下手だったそうです。
西南戦争にも彼は少佐か何かで出陣しているのですが、
その時はなんと天皇から賜った軍旗を奪われています。
本当ならば切腹ものですよね。
乃木将軍もこのとき死のうとするのですが、
それを同じ長州出身の児玉源太郎がおさめて切腹もやめさせたのです。
そして、後の日露戦争では大将として軍を指揮するも旅順攻囲戦で多くの死傷者を出し、
これに業を煮やした児玉が司令部から来て、
乃木将軍に「指揮権を一時的に俺に渡せ」「このままでは全滅する」と言い、
乃木将軍はそれを受け入れたのです。

その旅順攻囲戦の中でも、特に凄惨さにおいて有名なのがあの二百三高地の戦いです。
この戦いでは、観戦武官といって世界中の友好国から将官などが戦場を視察に来ており、
そしてその情報を本国に送ったわけですが、数々の戦場を見慣れているイギリスの武官でさえも、
あまりにも悲惨な現場に目を覆う程だったそうです。
日本軍がいく度攻撃を仕掛けても要塞はびくともせず、
結局、壊滅的な被害を出して引き下がるわけですが、遺体は当然そこに置き去りとなります。
それが何度も何度も繰り返されることで遺体は累々たる山となり、
やがて腐敗してものすごい異臭を放ち、そして白骨化するという、
もはや地獄絵図というか、地獄以上のひどいありさまだったそうです。
辺りは累々たる骨と腐敗臭、そして伝令の95%が死ぬというまさに地獄の中を、
祖父は伝令として走っていたわけです。

しかも、この戦いではろくな作戦などというものはなく、
ただただ突撃させるだけだったといいます。
そしてその結果、3万何千人もの兵が死んでいるのです。
相手のロシア軍が、日本軍の突撃行動に「これはどういうことだろう?」と思ったらしいのです。
というのも、鹿児島出身の参謀、伊地知幸介が無能で、
毎月同じ日(たとえば20日なら20日と決めて)に突撃させたらしいのです。
当然、ロシア軍は突撃する日がわかってきます。
また高地の上から見ていれば、軍隊が移動し始めたのがわかるのですが、
それがいつも同じ日なわけです。
伊地知参謀が言うには「その日は験(げん)が良いから」「その日が運が良い日だから」と、
毎月同じ日に突撃させたといいますが、ロシア軍から見れば逆に気持ち悪かったそうです。
「もしや、これは何かの陰謀ではないのか」「なぜ、毎月同じ日に攻めてくるのか」――。
つまり、いつも同じ日ですから、待ち構えていれば上から機関銃で皆殺しにできるわけです。

そんな無茶苦茶な行動を、乃木将軍は叱りもしなかったといいます。
私は、乃木将軍のことは尊敬していて乃木神社にはよく行くのですが、
やはり、戦争のプロとしては救いようがないほどに戦争が下手な人だったのだと思います。
実際、その現場にいたうちの祖父は、「乃木将軍だけは困った人だ」と言っていたわけですから。
普通の人はそんなこと、言えないですね。
当時から乃木将軍は神格化されて神様のようになってしまっていましたから、
祖父も自分の息子だけに言っていたのでしょう。
ですから私は、「坂の上の雲」を読み返すたび、
「この現場に、祖父がいたのだな」といつも思うのです。

私の祖父の膝の上で乃木将軍の話を聞いていた
私の父(写真右)は、いわば歴史の生き証人から
直接当時の様子を聞いていたわけだ。
そんな父は、乳母日傘で育ったというから、
まだ財閥の名残りのある時代だったのだろう。
       (2016年6月 小樽にて)