天国と地獄
 

2020年7月5日更新

第134回 仕事のご褒美!?

 

最近は、日本も世界もどこも新型コロナウイルスの話題が多くてどうにも暗いので、
今回は楽しい話をしたいと思います。

美輪明宏さんという不思議な魅力を持つ歌手がいますが、
実は私は濃厚接触をしたことがあるのです。
濃厚接触といっては意味深ですが、毎日新聞社にいた頃、
取材で1~2週間その人を追いかける企画記事の担当になったのです。

はじめて取材に行ったのは、“渋谷ジァン・ジァン”という、
今はなくなってしまいましたが渋谷の東京山手教会地下にあった小劇場でした。
そこでコンサートのリハーサルをしているところに記者と2人で会いに行き、
すごく話が盛り上がったのを覚えています。

元々シャンソンを歌っていた方で、“Le Monde(ル・モンド)”という
フランスの新聞に“世界トップレベルのシャンソン歌手”と掲載され、
絶賛されたということを彼(?彼女?)は言っていました。
それくらい才能があり、今でも不思議な魅力を持つ人です。
髪の毛を金色に染めて、もちろん男性なのですが、性別を超えて生きているわけです。
かつて関係があったと言われている三島由紀夫さんが脚本を書いた、
江戸川乱歩原作の“黒蜥蜴”(くろとかげ)という舞台は、美輪明宏さんの代表作になりました。

それはさておき、私と記者のことが気に入ったようで、
「一曲、聴かせてあげる」と、小劇場で私たち2人だけのためにシャンソンを歌ってくれたのです。
ものすごく上手でビックリしました。
その時帰りでしたでしょうか。「夕ご飯をご馳走してあげる」と言われ、
NHKの近くで通りを1本入ったところにある、
香港人がやっていたお店に連れて行ってくれたのです。
今はすでになくなっていますが、カウンターだけのお店で、焼き豚や色々な具材が乗っている、
大変おいしい中華麺をご馳走してくれたのを覚えています。

美輪さんの最後の取材は、自宅での写真撮影だったと記憶しています。
確か、世田谷の等々力の辺りでした。
彼の自宅に取材に行ったのですが、あまりにも美しい家で、
未だにあのような家を他には見たことがありません。
どのような美的感覚を持っているのでしょうか。
家の設計から、調度品、家具にいたるすべてが想像を絶する美しい世界なのです。
彼の中の美意識が、見事に表現されていました。
また、他にも霊能者のようなこともされていたようです。
1935年生まれですから今年で85歳です。
10歳の時に被爆しているそうで、それでもあれだけ元気なのですから大したものですね。

彼がどんな人だったかは、後日テレビで見て知ったことがあります。
戦後、東京に出てきて銀座で歌っていた頃は、今と違ってLGBTに対する理解がない時代ですから、
「怪物」などと言われて石を投げられるなど、大変な思いをしたようです。本当に不遇の時代を味わい、
そこから今や日本を代表する歌手になったのです。
2012年に紅白歌合戦に出ましたが、“ヨイトマケの唄”という、
貧しくも懸命に生きた母と子の姿を描いた歌、素晴らしかったですね。

そういうわけで、たまたま新聞社のカメラマンをやっていたお陰で、
美輪明宏さんとはご自宅まで伺うほどの濃厚接触をさせていただきました。
私は彼より20歳も若かったので、
もし、手を握られたり「お付き合いしない?」などと言われたら逃げようかと思いましたが(笑)
不思議な方です。今も、あのお歳になっても活躍されているのですからすごいですよね。

それから、2016年に亡くなったイギリスの世界的歌手、
デヴィッド・ボウイも取材したことがあります。彼も、大変個性的な人でした。
本当に天才的で革命的なことをやった人なのに、当時、私はデヴィッド・ボウイと言われても
「聞いたことがあるかな」くらいの認識しかありませんでした。
インタビューは、帝国ホテルで行ないました。
記者があまり英語ができなかったため通訳がいたのですが、
インタビューが終わる頃には私がメインで直接彼と話をしていました。
私は、これまでのコラムで述べてきたようにヨーロッパに半年いた程度の
インチキ英語で話したのですが、結構盛り上がったのです。
私はデヴィッド・ボウイがそれほどすごい人だと思っていなかったので、
普通の人の感覚で喋っていました。
今考えてみると、私は若気の至りで相当偉そうな態度だったにも関わらず、
よく相手をして下さったと思います。

取材を終えて社に戻ったところ、ひどく怒られました。
「何でサインをもらって来なかったんだ!」とあちこちから攻められたのです。
「え、そんなに有名な人なの?」と返すと、
「バカヤロー! あのデヴィッド・ボウイだぞ!」と。
インタビュー中、彼は化粧もしておらず普通の格好で、
ちょっとカッコイイ西洋人のオジサンと変わらなかったのです。
そして後で調べたら、とんでもない人だったことがわかったのです。

他に毎日新聞社時代に会った方で、吉永小百合さんはかなり印象に残っています。
吉永さんも帝国ホテルでインタビューをしました。
新聞社のカメラマンは24時間勤務というのがあり、その前日も泊りがけの取材であまり寝ていなくて、
フラフラの状態で取材に行きました。
女優の写真を撮る場合は、紙に逆光みたいに後ろから強い光を当てます。
ストロボに傘を付けて光を拡散させると、光って綺麗に映るのです。
彼女は小柄ですが、部屋が狭かったのですぐ後ろからギリギリ照らしました。
その回り込んだ時に、彼女が座っている後ろ側からうなじを斜め下の角度で見ることができたのです。
なかなか見られないですよね。あまり寝ていなかったので、血圧が低かったのでしょうか。
それを見て、あまりにも美しくて、クラクラとしてしまった思い出があります。
私が30歳の頃なので、彼女は40歳ちょっとではないでしょうか。本当に色っぽかった頃です。

新聞社にいると、事件、事故、政治家の取材などほとんどは悲惨な取材です。
中でも昭和天皇が倒れた時は大変でした。
他社のカメラマンと「昭和天皇と俺たちと、どっちが先に死ぬんだろうな」と言い合っていたほどです。
雪が降ったり、雨が降ったりする中を、外で24時間ずっと待っているのですから。
体が冷え切って、カメラを持つ手などが震えて、それはそれは大変でした。

通常は過酷な取材の中で、滅多にないことでしたがまれに有名女優や一流歌手に会えるのですから、
それはもう、良いご褒美になりましたね。

新聞社のカメラマンという仕事を通して、
何かを成し遂げた人々と直接触れ合えたことは、貴重な経験の一つだ。
愛読している司馬遼太郎氏にも会っておきたかったものだ。
               (2020年6月 東京・神保町にて)