これから数回にわたって、一番大事な話をしたいと思います。
つまり、この世の中で一番大事なこと、このコラムを読んで下さっている皆さんにとっても、
私にとっても一番大事な話です。
新聞社にいた時、記者の間で言われていた言葉がありました。
「原稿より健康」、つまり記事よりも健康が一番大事だということです。
ただ、その割には新聞社の記者というのは健康に留意せず早死にする人が多いのですが……。
私は今65歳で本当にピンピンして元気なのですが、意外にも若い頃は体が弱く、
特に幼稚園から小学校の低学年の頃にはよく風邪を引いていました。
小学校の高学年から中学生の頃には不整脈で、たまに心臓がばくばくしていたので
「あ~、自分は長生きできないのかなぁ~」という変な思いがありました。
そして、高校2年生の時に、私は本を読むことがとても好きだったので、
よく書店に行っていました。
たまたまそこで公害の本を見つけて読み、ショックを受け、それで人生が変わったのです。
そこで何を学んだかと言うと、公害もそうですが、
実は現代の食品に入っている「食品添加物」と「農薬」、
これらがいかに恐ろしいかということをその時に学びました。
私の父方は長生きの家系なのですが、母方は皆、短命でした。
聞いたところによると、私の母方の祖母はリュウマチが原因で亡くなったそうです。
そういうこともあり、自分は二十歳の頃から健康には異常に気を付けていました。
なにしろ、「冷たいもの」はなるべく口にしないようにしていました。
アイスクリームもなるべく食べませんでしたし、
アルコールにしても、学生時代はお金が無いのでせいぜい飲めてもビール、
あるいは安い日本酒しかなかったのですが、ビールもそんなに飲まないようにしていました。
若年寄りのようですが、そのころから口に入れるもの一つについても、気を付けていました。
当時はお金もないので、「無農薬」のものを食べるということまでは
簡単にはできませんでしたが、養殖ハマチだけは死んでも食べませんでした。
なぜかと言うと、養殖のハマチを実際に育てている養殖業者が、
養殖ハマチを「死んでも食べない」「こんなもの食べ物じゃない!」と言っているのを
聞いたことがあるからです。
密集して育てるので、病気にならないための薬物(抗生物質)や
なるべく太らせるためにホルモン剤を投与しているのです。
ですから、彼らに言わせると「これは食べ物じゃない」ということになるのです。
それを育てて売っている方もどうかと思いますが。
そうこうしているうちに、私が毎日新聞社の東京本社時代に私の叔父が亡くなりました。
私の父親の一番上のお兄さんです。
叔父夫婦は武蔵野市に住んでいて、子供がいなかったので
私のことを非常に可愛がってくれました。私のことが息子代わりだったのでしょう。
その叔父さんが、私が33歳の時に亡くなりました。私は、本当にショックでした。
沖電気に勤めていたのですが、本当に元気な人で、
退職後はのんびりと高尾山を歩いたり、それまで行けなかった海外ツアーに参加して
(叔母さんは飛行機が嫌いなので叔父さん一人で参加していたらしいのですが)、
南仏のニースのホテルの前で撮った写真などを見せてくれました。
何しろ元気な人で、病気なんてしたことがありませんでした。
そんな人ががんにかかりました。舌がんになって全身に転移したのです。
そして、あっという間(半年か1年以内)に亡くなってしまいました。
最後に私が会ったのは、1月末の寒い日で大塚のがん研の病棟でした。
人生で一番びっくりしたことのひとつですが、
あんなに元気で筋肉質だった叔父さんがミイラのようにやせ細り、
ほとんど骨と皮だけになり、しかも体中切られているので、最後はもう声も出ませんでした。
不思議と握力だけはあって、私の手をギュと握り放さないのです。
そして舌がんで声も出ないので、ただ涙をぼろぼろ流すのでした。
私はこのあとまだ数回会えるなと勝手に思い、その時は軽く別れたのですが、
それが最後となってしまいました。叔父さんは、1ヵ月後に亡くなってしまったのです。
その時のショックが本当に大きくて、がんというのはいかに怖いものか身に染みていました。
そのあと、何の巡り合わせか自分の女房もがんで亡くしました。
乳がんから始まって再発し、骨に転移してしまいました。
そして、最後には骨がぼろぼろになって溶けて、
激痛でもちろん立てないですし、本当にかわいそうでした。
そういう風にがんで亡くなった人が身近にたくさんいたので、
少なくともがんにはなりたくないな、と強く思っていました。
新聞社の私の先輩も、ほとんどがんで亡くなりました。
ストレスとたばこが原因でしょうか?
あとは新聞社時代に体を酷使したこともあるでしょう。
というわけで、私はがんには絶対になりたくない、という強い思いを持ち続けていました。
そんな中で、たまたま今から20年近く前、沖縄で「温熱療法」というものに巡り合ったのです。
これは、私のファンでもある沖縄在住の歯科医師の宮城先生という方が紹介してくれたのです。
それは、私が会員様を連れて中国ツアーに行った折にひどい風邪を引いてしまい、
帰国した直後に沖縄で依頼されていた大きな(1000人単位の)講演会があった時のことでした。
沖縄には講演会の前日に到着したのですが、その時には38℃以上の高熱が出ていて
ふらふらで声も出ない状態でした。
講演会を翌日に控えこんな体調で、
「本当にどうしよう? 講演会ができるのか?」という状態でした。
そんな時、旧知の宮城先生が「いいところがあるよ」と、
那覇の南の方の郊外にある、台風が来たらひとたまりもないような木造の建物で、
まるで野戦病院のようにベッドが並んだところに連れて行かれました。
そこでは、屋比久先生という方が「温熱療法」をされているということでした。
その時、ご本人から直接、初めて温熱療法を受けたのです。
体を温熱器で「すぅ~、すぅ~」と軽く撫でているだけなのですが、
温熱器からの熱い熱が入るのです。
最初は、まるで何か生き物が入ってきたような感じで、
たとえて言うとまるでネズミみたいなものが体の中を駆け巡るような感じでした。
そして、「熱い」のではなく「痛い」のです。もう、悶絶です。
その日は、私の体中がこっていたこともありますが、
ひどい風邪を引いていて(もしかするとインフルエンザだったのかもしれませんが)
熱も38度以上もあるぼろぼろの状態で温熱を受けたものですから、
余計に痛く感じたようです。
後で聞いたのですが、屋比久先生は天才的な温熱師で、
どうも体の中の悪いところが温熱器を通じてわかるらしいのです。
1時間半位、施術して下さったでしょうか。
その間、とにかく熱くて、大声で「あちー!」「ギャー」とわめき散らしていました。
そう、身体の悪いところほど、熱く感じるのです。
でも、周りもみんなそういう状態の人ばかりでした。
むしろ、私などは良い方で(ただの風邪ですから)、
他の人はがん、リュウマチ、そして医者から見放された難病、
そういったものを抱え、もうどうしようもない状態で屋比久先生の噂を聞きつけて
やって来た人たちばかりでしたから、皆、熱くてギャーギャー言っていました。
その屋比久先生の温熱療法のお陰で状態が改善した人がたくさんいるということで、
全国から患者さんたちが来ていたのです。
ですから、ただの風邪なんていうのは屋比久先生にとっては何でもないですね。
私は、90分施術を受けた後、不思議なことに100位だったひどい症状が20位になり、
熱も37℃くらいまで下がったのです。
私はびっくりして、「この温熱療法というのは、何なんだろう?」とつくづく思ったのでした。
温熱器も小さく、ただ体をこするだけです。
もちろん、身体と接する面は70℃くらいで大変熱いので
男性だったら木綿のシャツの上からあてるとか、
日本手ぬぐいを温熱器に巻いて肌にあてていきます。
私はその後、東京の銀座で屋比久先生のお弟子さんが
琉球温熱をやっているということを知り、月に1~2回位通っていました。
すると、会社の女子社員が騒ぎ始めたのです。
なぜかというと、その温熱療法に行くたびに私の顔色がすごくよくなり、
お肌がピカピカになっていたからです。
そんなことからも「温熱は本当に体に良い」ということを認識したのです。
その後、あまりに身体に良いので、私は自ら「スーパー温熱」という温熱療法の会社を作りました。
今は別の方がオーナーになり、「若天」と言う会社名で営業しています。
サプリと水と温熱を提供している小さな会社ですが、
そこで独自の温熱器を開発して特許もとりました。
細々ですが、温熱療法を行なっているのです。
現在、私はその「スーパー温熱」で海外出張や地方出張の時以外は、
毎日2時間、施術を受けています。
しかも、温熱師2人とマッサージ師1人の計3人です。
マッサージ師に関しては、千葉の館山から車で2時間かけて毎日来てもらっています。
お金はかかりますが、その効果は絶大です。
先日も徹底した健康診断(人間ドッグ)を受けましたが、
65歳の現在、悪いところはほとんどありませんでした。
特に心臓は、二十歳くらいで脳も問題なし。
美味しいものの食べ過ぎとシャンパンを毎日飲んでいるからか、中性脂肪は少し高かったですが。
これはもう、温熱のお陰だなと思っています。 |