毎日新聞の報道カメラマンとしての数々の取材の中で、一生忘れることが出来ないのは、
皆さんもよくご存知のJAL御巣鷹山墜落事故です。
あれは、私が30歳の8月12日のことでした。
NORADを取材したのがその年の7月末から8月上旬にかけてで、
そこから帰って来て10日位が経ち時差がやっととれた頃だったというのを覚えています。
その日はラッキーというべきか、私はたまたま24時間勤務の泊まりがけの日でした。
日勤は10時~18時の勤務で、早い人は18時10分くらいには帰ってしまうのですが、
用事があったり、ただぶらぶら残っている人などもけっこういます。
そして、約半年にわたる過酷な取材の始まりとなる事故発生の瞬間、
写真部には仕事終わりの日勤組と入れ替わりの夜勤組を合わせて、結構な人数の人がいたのです。
そのトキは、確か夕方の6時40分頃でした。
8月12日ですから、まだ日が長くて明るかったことを覚えています。
皇居の前の竹橋の毎日新聞本社の4階の、ちょっと奥まったところに写真部はあり、
テレビのNHKニュースをつけていました。
すると、突然ニュース速報を告げる“ピーン、ピーン、ピーン”という音が
鳴り響きました(当時はそんな音でした)。
最初は、JALのジャンボではなくDC10か何か別の飛行機の機体がレーダーから消えたというので、
大騒ぎになりました。一瞬「うわぁ~~~っ!」という声が上がり、編集局中騒然となりました。
レーダーからは消えたものの、墜ちたかどうかはまだわかりません
(ただ、だいたいの場合、レーダーから消えたら墜ちています)。
では、どこに行ってしまったのか。
伊豆半島辺りからレーダーから消えたということですが、よくわからないのです。
こういう場合は、社有車の乗用車、ハイヤー、ランドクルーザーにたくさんの機材を積んで準備します。
20時くらいになると、どうも群馬か長野、山梨の山の中ではないか、
いずれにせよ中央高速方面だろうということがわかってきました。
結局、会社を出たのは21時くらいでしょうか。
19時前くらいから大騒ぎになり、準備して20時半、あるいは21時になって、
「とりあえず、出ちゃえ!」とばかりに、積めるものを全部積んで出発したのです。
その後、中央高速を西走し、小淵沢で降りたのを覚えています。
そこから北上し、清里を通ってさらに北上し、その後、東に入って行ったのです。
そして、山の中の一軒家の農家を社会部と写真部で前線本部としたのです。
そこに着いたのは、おそらく深夜1時くらいでしょうか。
夜中にその家の人を叩き起こし、取材に協力してほしいと交渉しました。
深夜2時くらいから、政治部なども協力しながら、
自衛隊や首相官邸も含めて色々なところから情報収集しました。
その夜は、もちろん一睡もできません。
情報が集まってきて、墜落場所もおおよそ見当がついてきたわけですが、
なにしろ、場所がわかったなら夜中でも何でも、とにかく山に登らなければなりません。
突撃して、取材を敢行しなければならないのです。
夜中の3時くらいだったでしょうか。その家のおばあちゃんが目をこすりながら起きてきました。
今でもはっきり覚えています。腰の曲がったおばあちゃんでした。
私たちがざわざわしていたので、起こしてしまったのでしょう。
私たちは、地図でだいたい絞り込んだ辺りをどう進むか作戦を立てていたのですが、
おばあちゃんはその地図を見るなり、急に変なことを言い始めたのです。
「あんたら、何考えてんだ? こんなとこ、熊でも落ちるぞ。営林署の人間も数年、入ってねぇぞ。
どんなごとしたって行げねぇ、こんなところ、人間は!」。
突然の出来事に、取材陣は一同苦笑いしつつ聞いていました。
その時は、単なるおばあちゃんの冗談だと思っていたのです。
早朝5時くらいになって周囲が明るくなってくると、いよいよ3ヵ所にわかれて登ることになりました。
5時半とか6時になってさらに明るくなると、自衛隊が戦闘機か何かを飛ばして
上から目視で現場を確認したため、だいたいの場所もわかってきました。
雰囲気的にはほぼこの辺りだろうとわかっていたのですが、改めて地図上でも場所を特定し、
私と吉田さんという先輩の二人で峠から登り始めました。
このときは、何しろ「夕刊に間に合わせろ!」というのが至上命令でした。
夕刊の締め切りというのは、東京の場合3つあります。
2版、3版、4版という呼び名だったでしょうか。
4版の記事が最後に東京の都心に行くもので、
当時は群馬や御巣鷹周辺は2版で、東京の印刷所で印刷してから送っていたと思います。
距離の関係もあって、都内などより締め切りが早く、確か11時くらいでした。
それまでに撮影を終わらせ、フィルムを現像しなければいけないのです。
山中で撮影したら、ヘリコプターでその場からフィルムを釣り上げてもらい、
それを東京まで送ることになりました。とにかく、私たちは夕刊に間に合わせることが目標でした。
乗ってきたランドクルーザーには、過酷な取材を予想して十分な食料や水を積んでいたのですが、
結局は小さな水のボトル1本以外は全部置いて行きました。
荷物になるものの、望遠レンズは当然持っていかざるを得ず、ほかにもカメラは最低2台、
それからフィルム、メモ用紙、最低限の雨合羽など持ち物が多く、
とても食料や水を持って行く余裕はありませんでした。
荷物は15~20㎏くらいにはなったものの、私は気にせず「いざ!」と意気込んで登り始めたのですが、
ものの30分ですっかり意気を削がれ、茫然としてしまいました。
なぜかというと、なんと30分でたった200mしか進めなかったのです。
熊笹のようなものが密集して生えていて、膝くらいまではまり込んでしまい、
足を1回入れると抜けないのです。「うぉ~! 何だこれは?」とあがいて30分、
ほんの少し先までしか進まないのです。
事故現場の周辺は、そんなところだったのです。
多少荷物を減らしたからどうにかなる所ではなかったのです。
それからは、まさに地獄でした。
さらに過酷な行軍は続きます。
地図もろくなものを持っておらず、正確な場所も全くわからないため、
「だいたいこっちの方じゃないか」という感じで登らざるを得ませんでした。
途中、同じ道を行く陸上自衛隊に聞いたりしながら、なんとか登って行きました。
本当にびっくりしたのは、途中、山の稜線(細い尾根道)の幅が20㎝くらいしかないのです。
踏み外したら40度くらいの斜面(40度は実際に見ると垂直にすら感じられます)ですから、
熊でも落ちるというのは本当でした。おばあちゃんが言った通りです。
深い藪に足を取られ、道なき道をかきわけて、
すっかり疲れ果てたところに追い打ちをかけるような転落の恐怖……。
すっかりこわばってうまく歩けない足を、狭い稜線から外れないように慎重に運びつつ、
なんとか歩を進めました。
ただ、この取材が8月だったのは、私たちにとってはかろうじて救いでした。
もしも、これが11月~3月の冬の間だったら、報道関係者が10人以上死んでいたと思います。
というのは、沢に落ちてそのまま出て来られなくて一週間後に発見されたとか、
3日後に自衛隊が発見したということが本当にあったのです。
報道陣の数人は、途中で力尽きてしばらく行方不明になっていました。
たしか、7人くらいだったでしょうか。
それでも夏だから、死にはしなかったのです。
なにしろ、標高1,639mもあるところですから、夏でも冷えます。
冬だったら、まず間違いなく凍死していたことでしょう。
私が墜落現場に到着したのは、午後3時15分くらいでした。
朝6時から登り始めて、9時間飲まず食わずです。
着いた時にはもう、足とか体の色々なところが木に擦られて血だらけでした。
最後の方は40度くらいの斜面を降りて行ったのですが、これがまた信じられないような場所なのです。
上から来る人が石につまずくと、人間の頭くらいのその石が、
転がり落ちるのではなく飛んで落ちていくのです。
それこそ、私の横30㎝くらいのところを大きな石が唸りを立てて
“ヒューン! ヒューン!”と落ちて行きました。
当たったら即死、あるいはそこまで行かなくても頭蓋骨陥没です。
そんなところを、降りて行ったのです。
いよいよ現場が近くなり、到着まで1時間くらいのところになると、辺りの様子が一変しました。
スチュワーデスの遺体などが枝に引っ掛かっていて、
しかも胴体から上だけとか下だけとかというありさまなのです。
制服でかろうじてわかったのですが、体の一部がそこかしこに落ちているのです。
そして、到着した墜落現場で私は、写真を撮るのをやめました。
これは、人として撮ることはできないと思ったのです。
もちろん、新聞にはなおのこと使えません。あまりにも凄惨過ぎて使えないのです。
「FOCUS」かどこかの雑誌が、そうした写真を一部使っていましたが、
遺族が怒って問題になっていました。それは、当然の怒りでしょう。
私は、ひたすら拝みました。新聞社をクビになってもいいと思いました。自分は撮れないと。
遠景、全景はかろうじて撮れましたが、アップは撮れませんでした。
まぁ、気の弱い人だったら、二度と飛行機には乗れないかもしれません。
あの時、私より半年遅れで入社した同期の橋口という男がいたのですが、
彼は他のルートから登って一番最初に辿り着き、写真を撮りました。
そのフィルムをヘリコプターが釣り上げて、それが毎日新聞の最初の写真となりました。
そのあと、現場には2時間半くらい、いたでしょうか。
この現場で指揮を執るのは「キャップ」ですが、夜中も何があるかわからないということで、
その日は2~3人が現場に残ることになりました。
過酷な山登りの上、ロクな食糧もない凄惨な事故現場に夜通しとどまるのです。
想像すればおわかりいただけますが、それはまさに地獄の取材です。
ちょっと脱線しますが、写真部のトップ、つまり写真部長というのは大事件以外は現場の指図をしません。
人事の話や他の部との交渉などが主な仕事になります。
その下の副部長が「デスク」と呼ばれ、これが実際に現場の指揮を執るわけです。
必ず本社に24時間1人いて、ジャンボ墜落事故のような大事件では現場にも行きます。
ただ、実際にはデスクは40代や50代ですから、
現場の前線本部(この時は前述のような民家)に詰めて指示を出します。
そして現場にはその下の「キャップ」と
“兵隊”(当時、新聞社ではヒラの社員の事をそう呼んでいました)が行きます。
本当の現場で指揮を執る若手のトップ、それがキャップです。
このとき、私は幸い「お前は(山を)降りろ。橋口と二人で降りていい」と言われ、
反対側の谷へ下りて行きました。しかし、それも大変な道のりでした。
下山を始めたのが夕方の4時半~5時くらいで、途中で日が暮れて真っ暗になりました。
もちろん、明かりは一切ありません。
懐中電灯は長さ8センチぐらいの、小さい豆ライト1個だけという、実に心細いものでした。
月が出ていたので助かったのですが、月が出ていなければ死んでいたかもしれません。
なにしろ、一切、道がないのです。
最後の方は谷の底が川になっており、昔、木材か何かを運んでいたのでしょう、
すでに壊れて捨てられたトロッコのレールが宙づりになっていたりして、そこを這って行ったのです。
前線本部の山小屋に着いたのは、夜の9時くらいでしょうか。4~5時間はかかりました。
途中、橋口はあまりにも辛くて、頭がおかしくなってしまいました。
水もないし、死ぬ寸前の状態まで追い込まれたのですから仕方ありません。
私も、頭が半分おかしくなっていました。
月の光が下の方の谷川のせせらぎに映ると、それが車のライトに見えるのです。
今でも覚えていますが、それを見て橋口が「あぁ~車だ! 助かった!」と降りて行くのですが、
下は川ですから、そのままドボンッと落っこちてお終いです。
私は、彼を後ろから抱きかかえて頬を叩きました。
「橋口! あれは車じゃない! あれは月の光だ! 落ちたら死ぬぞ!」
「うわぁ~! そうか……」と。けれど、10分もするとまた橋口が言うのです。
「あれは、車だ!」と。また捕まえて、叩いて、「死ぬぞ! お前!」。 この繰り返しです。
本人は覚えていないと思います。
「クライマーズハイ」という映画がありました。
その中に、新聞記者が頭がおかしくなってしまう場面がありましたが、
あれは本当にそうなるのです。普通の人が御巣鷹のような現場に行けば、まず耐えられません。
やっとの思いで前線本部(と言っても民家ですが)に着いたというわけです。
あの民家は、山の中の熊の肉か何かを食べさせる民宿だったのか、
あるいは農家だったのかわかりませんが、そこへどうやって辿り着いたのか、今でも思い出せません。
そんな地獄のような長い一日が終わり、一夜明けてみると、再び過酷な現実が待っていました。
なんと、「また登れ!」という指令がおりたのです。
ところが、私は前日の登山で一番長距離を歩いていて、もう足が全く動かなくなっていました。
なにしろ、報道陣やカメラマンが7人くらい谷に落ちて行方不明になり、
一番ひどい人は一週間後に自衛隊に助け出されたというくらいの過酷な場所を、
早朝から深夜まで歩いたわけですから仕方ありません。
私は、足に関しては多少自信がありました。
子供の頃から父親とハイキングに行ったり、また大学3年生の時にはヨーロッパで語学留学をして、
半年間ヨーロッパ中を歩きまわって、帰って来た直後には親友の菅原と
丹沢を縦走したりしていますから、相当足は鍛えていました。
しかし、そのような人間でも次の日、全く動かなくなるのです。
よくマラソンなどで終盤に倒れ、這って進もうとするシーンなどを見かけますが、まさにあれです。
さすがにこれはまずいと思い、
「デスク! これでは無理です! 足が全く動かないのです」と言うと、
そのデスクは「う~ん、しょうがねぇな。これじゃぁな。あと、現像しておけ!」と、
別の仕事にしてくれました。あれが鬼デスクだったら、「それでも登れ!」 と言ったでしょうが、
まぁ、行ったら途中で行き倒れていたでしょうね。
なにしろ、足が全く動かないのですから。デスクが良い人で助かりました。
それから1~2週間は、山の上には交代で写真部の誰かしらが待機しました。
寝袋を持って行って、寝た者もいたようです。
滑落の危険がある急斜面、さらには多くの命が失われた凄惨な現場ですから、取材する方も命がけです。
当然、一生忘れられないし、あの光景を一度でも見れば
誰でも人間なんていつ死ぬかわからないと考えるでしょう。
あの事故では、坂本九さんも亡くなりました。
そして、たしか当時の自民党の運輸大臣だったでしょうか、
彼は、本当はその飛行機に乗るはずだったのですが、何か用事ができたとかで乗らず、
それで助かったのです。そんな幸運な人の一方で、
乗るはずではなかったのに偶然乗ってしまい命を落とした人もいます。
あの飛行機に乗ったかどうか、たったそれだけのことが明暗をわけてしまったのです。
あの事故では、500人以上の方が亡くなりました。
助かったのは、あの川上慶子ちゃんとスチュワーデスの落合さんを入れて4人だけでした。
実は、この御巣鷹の事故にまつわる色々な説があります。
自衛隊か米軍が当時研究をしていた無人小型機とぶつかったのではないか、
あるいはラジウムか何かの放射性物質を積んでいて、
それを隠すためにわざと発見を遅らせたのではないか、といった話ですが、
もちろん、それらはいまだにわかっていません。
あくまでも仮定の話ですが、もし自衛隊が当時最新鋭の夜間でも飛べるヘリを持っていて、
良いレーダーやGPSなどを持っていたら、事故現場に夜中に急行し、
生存者を多く発見できたかもしれません。というのも、生き残った人の証言によると、
朝くらいまでは「痛いよ。痛いよ。助けて」という声が結構聞こえていたそうなのです。
つまり、それまでに早く発見できれば、数十人は助かったかもしれないのです。
ただ、結果として生き残って救助されたのは、女性ばかり4人でした。
男はやっぱり皆、死んでしまったのです。
「やっぱり」というのは、男はこういう時には弱い生き物なのだということです。
こうした大事故ではそうした傾向が顕著なのですが、
男性は出血する量が女性より少なくても死んでしまいます。
その点、女性はある程度もつようにできており、しかも内臓も強いのです。
だから、生き残ったのは女性ばかりだったのです。 |