天国と地獄
 

2019年12月15日更新

第114回 奥尻島での津波取材

 

私が毎日新聞を辞める直前から1年前くらいのある時、
北海道の松前藩があった江差(えさし)の西に浮かぶ奥尻島が津波でやられました。
北海道南西沖地震(奥尻島地震)が発生し、
震源に近い奥尻島は火災や津波で甚大な被害を受けたのです。
当時、私は36、37歳くらいで東京本社にいました。
あれはすでに日が落ちた後だったのではないでしょうか?
「すぐに行こう、うちの飛行機で」と動いたのですが、
「いや~、飛行機で函館まではちょっと距離的にどうかな? 夜間だし」
と航空部が逃げ腰で、仕方がないので翌日の朝一の便で行くことになりました。
当時はジェット機ではなく、YS機だったと思います。若手の私を含め、5人で行きました。
函館空港に着くと、私はヘリコプター組として残りました。
支局員も来ていましたので交渉し、函館空港のビルの中に小さな1部屋を借り、
そこを基地にして中に暗室も作りました。
翌日、羽田からヘリが到着し、いよいよ取材開始です。

ヘリで思い出したのですが、この奥尻島の取材で、私はヘリで死ぬ目に遭いました。
「もう、人生終わったな」と思ったほどです。その話を先にします。
低気圧など前線が来るにも関わらず、無理して奥尻島までヘリで取材に行きました。
取材が終わりその帰り道、松前半島の西側をぐるりと通って帰ろうとした時に、
ものすごい突風に遭ったのです。
ヘリコプターは時速200㎞で飛べるのですが、全速力で前に進もうとしても1mも進みません。
風速30mくらいあったのではないでしょうか。ヘリは木の葉のように揺られて着陸もできない状態です。
パイロットと整備士が乗っていて、普段なら「おぉ~、風が強いな」と軽口を叩くのですが、
その時は誰もが始終無言で、たまに「わぁー!」などと叫ぶくらいでした。
乗っている全員が「ああ、これで終わったな。死ぬのかな」と思うほどでした。
ローターが折れるか、風に煽られ墜落か。
整備士が「着陸しましょう!」と叫びましたが、
パイロットが「無理だ! これで降りたらローターが吹き飛ぶ! 死ぬぞ!」と。
こんな緊迫した状態が、20~30分も続きました。
私は新聞社にいた時に4回くらい、“これで人生終わったな”という思った経験がありますが、
これは、そのうちの一つです。今ここに無事でいられるのも、運が良かったとしか言いようがありません。

話を戻しまして、津波の取材のため最初にヘリで奥尻島に訪れた際、
私が一番びっくりしたのは、町があるはずのところに何もなかったことです。
それほど大きな島ではないため、島中探し続けました。
しかし、町がどこにもないのです。電信柱しか立っていません。
その時、私はまだ「津波」というものを理解していませんでした
(後述しますが、後に「3.11東日本大震災」で実際に体験することとなります)。
私は、東京のデスクに無線で「あの~、デスク、町がないんです」と言うと、
「バカヤロー! おめぇ、ないわけね~だろが! 町が!」という回答。
それでも「本当に、電信柱しか立ってないんです」と再度訴えると、
デスクが「え? なんだそれ?」と。
そこは荒野で、目の前に何もなかったのです。
この津波では、一目散に走って丘の上に上がった人だけが唯一助かったらしいのです。
その時私は、自分の中の意識が変わりました。
津波とは、これほどの脅威なのだと。
その経験があったので、私は「3.11東日本大震災」の時に九死に一生を得ることができました。

「3.11東日本大震災」の時、私はたまたま福島のいわきにいました。原発から数十キロ南です。
当時、政策投資銀行のいわき支店の支店長が私の早稲田大学時代の後輩でした。
彼が「いわきに浅井さんのファンがたくさんいるので、いくらも払えないけれど
講演に来てくれないか」と言うので、
「いいよ、お前の縁だから行くよ」と快諾しました。
いわきの町を見せたいから早く来て欲しい、とのことで、
現地に12時ごろ到着する特急列車「スーパーひたち」で行くことになりました。
皆さんは信じないかもしれませんが、その時、私はとても奇妙な体験をしました。
その日、上野を出て取手(私の実家は取手です)に差し掛かった頃、
スーパーひたちから車窓を眺めていました。
すると突然、風景が歪んで見えたのです。こんな経験は、人生であの時だけです。
よくSF映画とかである、歪む感じです。私は、「熱があるのかな」と思いました。
「これ、病気かな、熱かな」「あれ、やばいな、脳の病気かな」と。
実は、地震の前には地面からすごい電磁波が出ると言われています。
地殻が崩れ始め、すごい摩擦が起き、地面から電磁波が出るという仕組みです。
おそらく、私はそれを感じたのでしょう。あのような体験・感覚は、人生であの時だけです。

いわきに到着すると、支店長である後輩と一緒に、
同じ大学の「ゆせ研」(優雅な世界の貧乏旅行研究会)の仲間も
わざわざ山形から迎えに来てくれていました。
普通でしたら旧交を温め、楽しいはずです。
ところがそれどころではなく、なんとも言えない胸が締め付けられるような異様な気分でした。
「何かが起きる」という予感があったのでしょう。
漁師の旦那が釣ってきた魚を、その奥さんたちがその場でさばいて食べさせてくれる
美味しい店が港の方にあるということで、お昼にそこに立ち寄ることになりました。
おそらく、私がそのお店の最後のお客です。その後は、津波の被害に遭って壊滅です。
お店の人が無事に逃げられたかどうかは、わかりません。

お昼の後は工業地帯を北上し、いわきの港の物産品を売っているお店で、お酒を買いました。
父は今でも健在ですが、当時はお酒もがんがん飲めていたので、父のためのお土産です。
実は、そこで父親のことを思い出しお土産を買いにお店に立ち寄ったので、私は助かったのです。
そこに立ち寄らなければ、私は海岸線の先の塩谷岬(美空ひばりが歌っていましたね)
に向かっていましたから、たぶん津波から逃げられず死んでいたと思います。
父親へのお土産が、私の命を救ったのです。

お酒に続き、その近くの魚屋で干物を買い、父親に宅配便で送りました。
そして、塩谷岬に向かい海岸沿いを走っていた時、私は初めて変な音を聞きました。
「ウィ~ン、ウィ~ン、ウィ~ン」という音です。
携帯からの「地震がこれから来る!」という警報です。
横に乗っていた私の後輩の女の子、 カナちゃん(もう60過ぎのおばさんですが)の携帯も
「ウィ~ン、ウィ~ン」と鳴り始めました。
私も初めて聞く音でしたので、携帯が壊れたのかと思いましたが、
「違う! 地震がくる!」「すごい地震がくる!」とカナちゃんが言うのです。
そこからは、異常事態発生時の緊急対応です。

大地震が来るのが数十秒前にわかりましたので、
私は車のドライバーに「すぐここから離れないと、津波がくる!」と指示しました。
北海道南西沖地震による奥尻島の被害を知っていたので、すぐさまそう判断しました。
それで、バックするために路地に入った途端、あの震度6強の地震がやってきたのです。
縦揺れなどというかわいいものではなく、車が空中に浮き上がったのです。
ああいう時は、何もできません。
10m先の家が激しく揺れていて、その家の窓から中に住んでいる人が見えたのですが、
動けないでいるのです。そして次の瞬間、その家はそのまま崩れてしまいました。
揺れが収まると、「すぐにいわき市内に入ろう! とにかく海から離れろ!」と叫びました。
なにしろ、すぐに津波がやって来ると思ったからです。
大きな道に出ると、何十人も乗せた観光バスが止まっていました。
そしてそこをめがけて「ガラガラガラ~」と裏山が崩れ始めました。
そのバスの乗客が生き残ったのかどうかはわかりません。こちらも必死です。
そこから逃げるには、1キロくらい海岸沿いを走らなければなりません。
いち早く動かなければいけないのですが、そこに信号があり、運悪く赤でした。
なにせ非常事態ですから、誰も人がいないので突っ走ればよいのですが、
そのドライバーは律儀に止まるのです。
それで私は「人がいないんだから突っ切れ!」と言ったのですが、ダメでした。
そんなこんなでやっと海岸沿いから離れ始めたところで、小学生たちが集団下校していました。
あの子たちがいたのは海の近くだったので、その後どうなったのかはわかりません。
その時はどれくらの規模の地震かも全くわからず、とにかくわからないことだらけでした。

どんどん進んでいくと、道沿いにある店からはみんな店員が出てきていました。
余震が続いていたのです。
ドライバーに、「地割れしていなければ大丈夫だから、とにかく進め!」と叱咤激励し、
ようやく支店に戻ることができました。
ふと落ち着いた時に、今度は「あ! 福島原発があるな!」と気づきました。
かつて福島原発の航空取材で、ヘリコプターから全体の写真を撮ったことがありました。
そのため、原発と海の位置関係が大体わかっていましたから、
「ひょっとしたら、やられるな」と思ったのです。
次の瞬間、「なるべく早く、東京に逃げなければ」と思いました。
その日はさすがに無理でしたが、翌日大急ぎで東京に向かって出発しました。
水戸まで戻ってきたところで、原発が爆発したのです。
このように、奥尻島の取材での教訓が、「3.11東日本大震災」の時に私を助けたのです。
これ以外にも、災害ではありませんがとんでもない事故を取材することもありました。
その話は、また次の機会にお話します。

さて、余談ですが、奥尻島の取材で笑うに笑えない話がありました。
私はヘリ組として函館空港に残ったのですが、
残りの3人、横井さんというキャップクラスの上司と若手2人は津波の後のまだ高波がある中、
なんと函館の港で漁船をチャーターして奥尻島まで行ったらしいのです。
現地に到着したものの、町は壊滅しているのですから食べ物などあるはずもありません。
水さえもありません。テントを持参しているはずもなく、寝るところもありません。
そんな状況の彼らに、私がヘリコプターから吊り下げて水やコンビニ弁当などを運びました。
毎日同じ弁当を買うと、「いい加減にしろ! 別の弁当を買ってこい!」と怒鳴られます。
そりゃそうですよね。津波の後で一面泥沼で、楽しみはお弁当くらいしかありませんから。
お弁当を届け続けて何回目かに、写真部の横井さんが無線でパイロットに、
「おい○○君、もうちょっと近くに来れないか? 泥沼の中動くのは大変なんだ」と打診していました。
毎回、腰まである泥沼の中を15分くらい這うようにしてお弁当を取りにきていたわけです。
それに対してパイロットが「近くに電信柱があるから、危ねえんだよ。そんなところ、ヘリで行けるかよ」
と返すと、横井さんが(もともとすごく気が強い人だったのですが)
「バカヤロー! 今度会ったら八つ裂きにしてやる。火あぶりにしてやる」と
すごい剣幕でカンカンに怒っていました。もちろん、私は何も言えません。
一番下端の森君が、毎回15分くらい泥沼の中を這って弁当をとりに来ていたのですが、
その姿は本当に可哀そうでした。
その間、ヘリコプターは上空でパラパラパラ~と待っているのですが、
「可哀そうだな~」「まあ、良い思い出になるだろ」などと言って、パイロットは笑っていました
(もちろん、その時は無線を切っています)。
もし、そんなことが横井さんに聞かれていたら、ヘリを撃ち落とそうとしたかもしれません。
ヘリでしたらわずか3秒の距離を、泥沼の中を行きで15分、そして弁当を受け取り帰りにまた15分です。
しかも、帰りはお弁当を頭に乗せます。下に落としたらおしまいですから、
彼は本当に大変だったと思います。泣いていたのではないでしょうか。
写真部員とは、そんな悲惨な仕事ばかりをしていました。

            毎日新聞写真部での経験があったからこそ、
            その後独立して30年近くもジャーナリストとして仕事を続けてこられたのだと、
            今では全ての経験に感謝している。
                               (2019年9月 東京・竹橋にて)