天国と地獄
 

2019年12月5日更新

第113回 命がけの取材

 

前回と前々回の2回のコラムで、急遽取材に向かった対馬の話をしました。
今回は、その前に述べていました毎日新聞での話に戻ります。
あと数回で一度この話は締めたいと思いますので、もうしばらくお付き合いください。

私はかつて、毎日新聞の写真部に14年間勤めていました。
25歳の時に入社して、辞めたのが38歳の時です。
14年間、本当にいろいろなものを取材してきました。
報道カメラマンの仕事というのは、はっきり言って“地獄”です。
普段、待機している時は特に大きな仕事はありませんが、
ひとたび大事件、大事故が発生するとそれはそれは大変なのです。

たとえば、このコラムを書いているのは2019年9月6日ですが、
昨日正午前に大きな列車事故がありました。
横浜市内で京浜急行の快速特急が、踏切に立ち往生していた
大型トラックに衝突して大事故になったのです。
このような事故が起きると、皇居前の竹橋にある東京本社から、
ハイヤー、社有車、ランドクルーザーなどで現地に向かいます。
それに加え、羽田にある毎日新聞社のヘリポートにはヘリコプターと
7~8人乗りの双発の小型機が置いてあり、いつでも出動できるよう常に人員が待機しています。
社会部から羽田の格納庫に緊急の電話連絡が入ると、ヘリコプターが出動します。
カメラを担ぎヘリコプターまで走り、ヘリがローターを回して発進するまで6分位です。
管制塔に許可を取りますが、ヘリは航空機の離発着とは別の場所にあり、
たいてい許可はすぐに下ります。ヘリコプターなら羽田から現場まで、5~6分くらいでしょう。
浜松町から羽田空港に向かうモノレールに乗ると、その場所が見えます。
羽田空港の敷地内に入るとすぐ、左手に読売新聞社と毎日新聞社の建物が見えてきます。
そのすぐ先には、海上保安庁の大きな建物があります。駅で言うと「整備場駅」の手前です。

報道カメラマン時代、私はさまざまな取材をしました。
災害現場の取材にも何度も行きました。
地震、津波、火山噴火、台風、竜巻、落雷、山火事、洪水、隕石落下など、
恐ろしい天災はいくつもあります。
さすがに隕石まで気にしていたら生きていけませんが、
私が一番ひどいと思ったのは、やはり「水害」です。
東日本大震災の時も、地震だけだったら原発も何ともなかったわけです。
津波が起きたから水によって電源が消失し、あのような大事故を起こしてしまいました。
津波も含め、水害は本当に恐ろしいと思います。

私は25歳から29歳までの4年間、毎日新聞大阪本社の写真部にいました。
ある夜、大阪南部でものすごい豪雨がありました。
その日、私は宿直でデスクとスタッフ2人の3人で待機していました。
私は下っ端でしたから、私が社有車で取材に行くことになりました。  
入社2~3年目でしたが、豪雨の取材は初めてでした。
大阪南部、堺のさらに南にある現場に到着すると、道路は川のようになっています。
車のドアを開けると、もうあと2センチくらい水位が上がったら車内に水が入ってくる感じです。
エンジンはいつ止まってもおかしくありません。
車を運転する車両課の社員は怖がってしまい、
私が「もうちょっと行ってくれ」と言っても「も、もう無理! ここで降りてくれ」と言うのです。
それはそうですよね。自分が会社の車をダメにしてしまったら何を言われるかわかりません。
それどころか、車ごと流されてしまう可能性もあるのです。
でも、私は取材はしなければなりません。仕方なく私は雨合羽を着て、
カメラ2台、メモ用紙、フィルム数本と最低限のものを持って車を降りました。
地図を見ると近くに川があり、その川が氾濫する恐れがあるとの情報があったので、
まずはそこに行ってみました。
遠くには電灯がありますが、川の付近には一切電灯がありません。真っ暗です。

取材から帰ると、先輩から「お前、よく死ななかったな」と言われました。
実は、大雨が降るとマンホールのフタが開いて流れて行ってしまうことがあるそうです。
フタの空いたマンホールにはまったら、吸い込まれて一瞬でおしまい、即死です。
だから、ああいう水害の時は杖のようなものをつきながら、
足元を確認しながら歩かないといけないのです。
その時の私はそんなことも知らず、スタスタと歩いて川の方に行きました。
ただ、肝心の写真が上手く撮れません。写真を撮ろうにも写真の撮りようがないのです。
ストロボをたいても豪雨なので、光が飛ばないのです。
そして、周りには人もいません。私は困ってしまいました。
その後、社有車に戻ろうとしましたが、車が見つかりません。別の場所に移動してしまったのです。
無線で「どこですか?」と尋ねたものの、お互い初めて訪れた場所です。
「○○の四つ角にいるよ」と言われても、そこがどこなのかわからないのです。
周りにはもちろん聞く人もいません。そこから1時間ほどかけて、ようやく車にたどり着きました。
その時は奇跡的に無事に済んだので良かったですが、水害というのは本当に怖いなと実感しました。

その後、山陰地方で歴史的な大水害がありました。
私が東京に戻る直前でしたから、28か29歳の頃だったと思います。当時、私は一番下っ端でした。
日勤の場合、通常6時に帰れるのですが、デスクに「ちょっと残れ」と言われればそんなのお構いなしです。
入社4~5年目までは使いっぱしりで、何かあればすぐに24時間勤務になります。
「あっ、ちょうどいいとこにいた!」という具合です。
その日、山陰地方にすごい量の雨が降っているというニュースが流れていました。
私は、機材を担いで取材に向かいました。当時のカメラマンはかなりの重装備です。
様々な種類のカメラにフィルム、望遠レンズ、現像液、現像セット、
さらには雨具などの装備も加えると荷物は40数キロにもなります。
当時の私は、体重が55キロでした。その人間が、40数キロの荷物を背負うのです。
その点、今のカメラマンは楽ですね。
デジタルカメラですから現像する必要もないし、しかもその場ですぐ画像を確認できます。
当時はフィルムですから、現像液、現像セットを全部持って行き、
現地で暗室も作らなければならなかったのです。

当時、毎日新聞の大阪本社は堂島という所にありました。
梅田駅のすぐ近く、北の新地の外れです。
そこから高速道路を使って、空港まで30分ほどです。
当時、伊丹から島根県の松江にジェット機などはなく、
プロペラ機のYS-11が飛んでいました。
飛行機のチケットをすぐ取り、最終便のYS-11に乗り込むと、
現地に夜の7時か8時頃到着しました。
タクシーを貸し切り、米子から海沿いを西へ西へと進みました。
しかし、もう雨はやんでいて、どこまで行っても何も撮るものがないのです。
私は困り果てていました。デスクは無線でガンガン言ってきます。
「関(私の本名)~! なんか写真撮れたのかぁ~!!」と。
「いゃ~それが、行くとこ行くとこ、ロクなものがなくて……」と答えると
「バカヤロー!! アホかお前は! 死んでもいいから探せ~! 今晩は徹夜だ」と怒鳴られました。
これといった写真が撮れないまま、益田まで行きました。
島根県と山口県の県境に近い海岸の町です。
そこに通信部(支局は数人いるのですが、通信部はひとりだけです)があり、
そこからとりあえず撮った写真を電送しました。

そこからは、徒歩でさらに奥へと進みました。
大水害なのでタクシーもありませんし、そもそも車を使うことなどできない状況でした。
仕方がないので現像液などは支局に置いていき、カメラだけを持って歩き続けました。
延々と、何キロ歩いたでしょうか。やっとの思いである集落にたどり着き、
そこで見た光景は一生忘れることができません。
川沿いの「古くからある豪商の家」という感じの住宅に、
直径1メートル、長さは20メートルもあろうかという大きな流木が
ドーンと突き刺さっていたのです。
その家の人にも取材したのですが、幸いにもご家族は無事だったそうです。
流木だけでなく、直径2メートルや3メートル位の大きな石がごろごろ落ちています。
土石流です。家にはもう住めないと思われました。
私は、水害の怖さというものを改めて実感しました。

益田支局に一度戻った頃には、もう夏の陽が昇っており晴れてきていました。
実は、水害というのはその後も大変なのです。
泥水が流れ込み浸水すると、あらゆるものが浮いて流れてきます。
田舎で水洗トイレが普及していない地域では、糞尿も浮いてしまうのです。
その後水が引くと、今度はそれらが全部泥となって乾燥し舞い上がるため、
ひと月位はマスクが必要です。

その後、再び山奥に取材に行ったのですが、依然として水は引かず、
食べ物も飲み水も手に入りません。
そんなところで1週間ほど取材を続けるうちに、私の体力も限界に達していました。
アメリカのモトローラ製の大きな無線を一台担いで行きましたが、充電も切れそうです。
私は、支局に連絡を取りました。
何とか無線が通じ、「デスク、こちらにはほぼネタもありません。
ただ、ここから歩いて益田支局まで戻る体力が、もうありません」と言いました。
すると、「関、さすがにそれはきついな、わかった。ちょっと待っていろ。
航空部に電話する」と言ってくれました。
すると、ちょうどヘリがそこから1時間位の場所にいたのです。
ただ、地図もなく、山奥ですから正確な位置を伝えられません。
近くに川が1本、流れていました。ヘリは「その川のところまで来れないか」と言います。
GPSなどない時代です。ヘリが近づいてくる音だけを聞いて、
「(音が)西の方からします」と伝えるとヘリが近づいてきたので、
「見えませんか? 見えませんか?」と必死に呼びかけました。
30分ほどして、ようやく私は「発見」されました。
その小さな川の土手からヘリコプターに飛び乗り、
ヘリポートのある伊丹空港まで連れていってもらうことが出来ました。

やっとの思いで自宅に帰った私は、1週間髭も剃れないままでした。
その時の顔を記念に撮ってもらい、今でもその写真をとってありましたので、掲載しておきます。

山陰地方で起こった大水害で、
被災地に1週間取材で詰めた後で撮った写真。
当時28、9歳で下っ端だった私は、
現地取材で水の恐ろしさを思い知った。

          毎日新聞社のランドクルーザーの前で。
          今でもたまに毎日新聞社の運営する駐車場に私は車を停めているので、
          当時を思って懐かしく見ている。
                                 (2019年9月 東京・竹橋にて)