私は、中村信一郎氏が声をかけてくれたその日から、
日本経済新聞、日経金融新聞(現在の日経ヴェリタス)をくまなく読み、
そして毎日新聞社の調査部にも毎日入り浸りでした。
書店にも行き、金に糸目をつけずに関係のありそうな本は全部買いました。
コピーする暇がなかったので、大事なページには全部線を引きました。
私の場合、「PILOT Super プチ 中字(耐水性)」というサインペンの赤と青、
これを原稿を書いたりメモを書いたり、全てに使っています。
これは毎日新聞社で使っていたものなのですが、
ボールペンですと結構手が疲れるのに対して、この“プチ”はいくら書いても疲れない所がよいのです。
このペンを使い、新聞や本の大事な部分に線を引き、
「重要」とか「注目」などと記入して行きました。
また、必要なものは破って全てファイルし、膨大なファイルを作って行きました。
以前にもお話しましたが、私はパソコンもネットも、ほぼやりません。
それは、NORADの「ミサイル警報センター」を取材していた時のことが鮮明に記憶にあるためです。
センターの部屋にいた人たちは、ソ連との核戦争の警報を出すために
最高機密の書類を見ながら四六時中、ずっとコンピュータ・コンソールを見ているわけですが、
同じく核兵器を持つソ連を相手に、極度の緊張もあったのでしょう。
まるで頭がおかしくなってしまったように目は血走り、
人間として狂っているような感じだったのです。
映画の中でもあんな人間見たことないというような、そんな人間ばかりでした。
それを見てからは、四六時中コンピュータに向き合って緊張状態にいると、
人間というのはどこかおかしくなってしまうのだな、と思うようになりました。
自分はそうなるまいと思い、私はパソコンもネットもやらなかったのです。
今では「日米成長株投資クラブ」や「オプション研究会」という
投資クラブを事業として立ち上げましたので、多少やらざるを得ない状況にはなっていますが、
そうは言ってもやはり電磁波やブルーライトは身体に良くないので、
取引以外にはなるべく使わないようにしています。
余談はさておき、そこから浅井隆がスタートしました。
バブル崩壊の真実をさぐる取材は、結構短期間だったと記憶しています。
ひと月半か、長くとも2ヵ月はかからなかったと記憶しています。
中村信一郎氏が連れてきた大和証券の人(彼の役職は覚えていないのですが)から、
たまたまいろいろな情報を聞きだすことができたのです。
それ以外にもいろいろな人に会って取材を重ねた結果、
どうもアメリカの証券会社「ソロモン・ブラザーズ」(名前でおわかりの通りユダヤ系企業です)が、
バブル最後の年である1989年の秋の棒上げを演出し、
当時すでに史上最高値だった株をさらに無理やり上げて風船のごとくパンパンに膨らませ、
その後針でつついて爆発させて下値で待ち受けて儲けた、というおおよその仕組みがわかったのです。
はっきり言って、これは本当に”世紀の一大スクープ”です。どの新聞にも出ていないことでした。
私はその全貌を調べ上げて、まず中村信一郎氏がいる集英社の「月刊プレイボーイ」に載せました。
90年の5月号か6月号だったと思います。
その時は中村信一郎氏と組んでやったということもあり、
ペンネームなどを一切使わずに「取材班」という形で載せました。
残念なことに「月刊プレイボーイ」というのは
女性のグラビアが入っていたりする大人の遊びの本でしたから、
これだけのスクープを掲載したにも関わらず、ほとんど反響がありませんでした。
私はものすごくがっかりしました。
私は、経済の専門家ではありませんでしたが、当時から直感だけは優れていました。
取材をするにつれて、「これは大変なことになる。1年とか2年とかそういう問題じゃない。
5年10年にわたって日本はとんでもない時代になる。全く時代が変わってしまう。
銀行、いやそれだけでなく金融機関がいくつか潰れるだろう。
時代が大きく変わるのではないか」と思いました。
そのことに気づいた私は、スクープの執筆と並行して実際の行動にも移したのです。
それは、「不動産の売却」でした。
毎日新聞は本当に安月給で、毎月末に手元に残るお金なんてありません。ゼロです。
下手すると、借金している社員も多いわけです。
私は、NORADの取材などを元に雑誌社に売り込みその原稿料が入ったので、
一般の毎日新聞の社員よりは多少余裕がありました。
その上、女房も学校の教師をずっと続けており、私より良い給料をもらっていました。
ですから、東京の狛江市に小さな2K位のマンションを購入し、
(といっても、女房がお金を出して買ったようなものですが)そこに家族4人で住んでいました。
ただ、当時は本当にお金がなく、クーラーさえもありませんでした。
そういえば、たびたび余談ですが、クーラーにまつわるエピソードをひとつ思い出しました。
アメリカの取材から帰ってくる飛行機の中で、
たまたまフランスの駐在武官と知り合う機会がありました。
駐在武官とは、軍人という身分でありながら自分の国が世界中に置いている
大使館に出入りできるという特殊な立場にあり、
現地で武官として情報収集するという任務を帯びています。
私はその駐在武官とその家族と出会い、自宅に遊びに来るよう誘ったのです。
彼らは私の誘いに応じて自宅に遊びにきてくれたのですが、
それが8月の暑い日でクーラーがないため全員汗だくになり、
死にそうになって「ほうほうのてい」で帰って行ったのを覚えています。
ただ、私の小さな家のおんぼろの書棚には私が調べたアメリカ軍のNORADや
戦略空軍に関する英語の資料や書籍がたくさんありましたから、
何かの拍子にそれを見て、ぎょっとしたに違いありません。
武官というものはそういうことに敏感ですので、すぐに気づいたはずです。
話を戻しましょう。その小さなマンションが当時持っていた唯一の資産でしたが、
買って5年くらいで値段が3倍程になっていました。
私はその時、「絶対、これ(不動産)は下がる!」と思ったのです。
ですから、90年の夏までには売り飛ばすべきだと考えました。
その時は、株は下がり始めたけれどまだ不動産は天井に張り付いていたのです。
そして、実際に売ったのは6月頃だったと思います。
その数ヵ月前、4月くらいに女房を説得したことを今でも覚えています。
「ちょっと今日、重大な話があるので、子供を早く寝しつけてくれ」と言い、
二人きりで小さなキッチンで、小さなテーブルをはさんで話を始めました。
最初は「絶対いやだ」と言って抵抗し、言うことを聞きませんでした。
女性にとって「家」というのは、どんなオンボロマンションのひと部屋であろうが、
「わが城」なんですね。ましてや、そのマンションはほとんど女房のお金で買ったようなものです。
それを売るなんて絶対イヤだと、半分泣いていました。
それを私は「いやいや、こんなに(値段も)上がって今売ったとしても損ないだろう。3倍だよ」
と辛抱強く説得しました。しかも、運よく何かの特例に引っかかり、
何年以上持っていると税金がかからなかったかもしくは税金が安かったのです。
渋る女房を何とか説得し、私は新聞社の仕事で忙しかったので
女房に不動産屋にマンションを売りに行かせました。
ただし、相手への言い方はこと細かく教えました。
「『買いたい』という相手が出てきたら、交渉などせず相手の言い値で売ってよい」と。
私は、不動産はその後ある時期から急激に値下りしとんでもないことになる
と思っていましたので、早く売り飛ばした方がよいと思ったのです。
すると、売りに行った女房に不動産屋が不思議なことを言ったようです。
「お客さん、何言ってるんですか?まだまだ上がりますよ。倍くらいになりますよ」
「ここで売ったら、もったいないですよ」と。
しかし、私はそんな会話も想定済で「たとえ何と言われても気にせず売れ」
「『どうしてもお金が必要になった』とかなんとか言え」と女房に言い添えていました。
その結果、史上最高値で売り抜けることができたのです。
私の悪い予想は当たり、その年の10月から「総量規制」というものが始まると、
そこから2~3ヵ月で不動産はとんでもない値崩れを起こし始めました。
私が売った2年後くらいには、半値でも売れたかどうか……それくらいの状況になったのです。
私はソロモン・ブラザーズの取材を通して、これからさらに不動産も下がり、
株は底なしに下がるだろうと予想していました。
アメリカの1929年の大恐慌でも株が大底を打つまで3年かかりましたので、
日本も3年かあるいはもっと長いか、いずれにしろ相当下がるだろうなと考えていました。
この時点で、将来日経平均が5000円とか6000円くらいになってもおかしくなのではないか?
とすら思っていました。
最初の話に戻りましょう。
「月刊プレイボーイ」で全然反響がなかったので私はがっかりしましたが、
それまで写真を売り込んでいた「週刊文春」の編集部にもツテがありましたので
この原稿を書き直して持ち込み、できたら「月刊文藝春秋」に載せて欲しいと売り込みました。
「月刊文藝春秋」は当時も一番影響力がある雑誌の一つでしたが、
なんとその「月刊文藝春秋」が飛びついてきたのです。
その時のタイトルは「兜町の大敗北」だったと思います。
確か、90年の6~8月のどこかだったと思います。
ペンネームは、浅井隆やその前に使った結城(ゆうき)馨(かおる)は使いませんでした。
なぜかと言うと、相手はユダヤ系というかアメリカの巨大金融機関ですし、
素性がわかるペンネームで書いたら、報復か何かされるのではないかと懸念したのです。
そこで、その時一回だけのペンネーム「武史彦(たけふみひこ)」で書きました。
そして、これは結構な反響がありました。
そしてその後、この記事が意外な人と私をつないだのです。
この記事が掲載されてから8年後、
ある人のツテで一般の人には知られていないけれど金融界では有名な、
とても面白い人を紹介してもらいました。
名前は出せないのでミスターMとしておきます。
その人と六本木か何かのクラブで飲んだ時に
「浅井さんはどんなことしているのですか?」と聞かれて、
いろいろ話して行くうちに、ソロモン・ブラザーズのあの時のことを取材して
「月刊文藝春秋」にも書いたと言うと、ミスターMの顔色が変わったのです。
いえ、変わったどころか、ものの見事に血の気が引いたのです。
「どうかしましたか?」と尋ねると「あれ、お前かぁ~!」と言うのです。
「え、何がですか?」と言うと、「いやぁ~、あれはエライ目にあった」と言うので
「どういうことですか?」と聞くと、
「実は当時、俺はソロモンにいて、あの時の(暴落の)仕組みを作ったのは俺なんだ。
全て、俺が作ったんだ」と言うのです。
ミスターMの話では、あの記事にはこんな後日談があったそうです。
彼の仕組みがまんまと当たって日経平均は大暴落、
ソロモンは莫大な利益を上げたわけですが、
その年の9月か10月に私の記事が載った「月刊文藝春秋」を持って
大蔵省(当時)の証券担当者が乗り込んできたそうです。
役人が持ってきた証拠は、唯一その記事だけだったそうですが、
「お前ら、こんなことやって日本を潰そうとしているだろう。責任者を出せ!」とまくしたてたといいます。
すったもんだのやり取りの末、どうやらうまくごまかし切って事なきを得たそうですが、
私の記事のせいであやうくクビになりかけた、という話でした。
そんな彼の当時のボーナスは、なんと50億円だったそうです。
のちにわかったのですが、ソロモン・ブラザーズは日本市場を暴落させて、
90年からの数年間(3~4年)でどうやら4兆円は稼いだようなのです。
だから、彼にボーナスとして50億円くらい出したところで
ソロモン・ブラザーズとしてはなんともなかったのでしょうね。
彼は、それを元手にその後独立し、金融のいろいろな仕組みを作って会社を上場させました。
おそらく何百億円か、自分の資産を作ったのではないでしょうか。
というわけで、この記事が、私が「経済トレンド本」を書いて行く出発点となったのです。 |