前回は、私がソロモン・ブラザーズの仕組んだ株の暴落の大特ダネをつかんだ話から始まり、
やがて経済トレンドの本を書くようになったということをお伝えしました。
実は、私は小学校と中学校時代は作文が苦手で、文章には全く自信がありませんでした。
それが今では文章を生業としているのです。
人生とは、不思議なものですね。
なぜ文章を書くのが苦手だったといいますと、第一に私は国語という教科が大嫌いでした。
その原因が、授業で作文を書かされたことにあります。
私は学校教育における国語教育の問題点(日本語を嫌いにさせる)として指摘しておきたいと思います。
反面、文章を読むこと自体は好きでした。
小学校の頃、両親が買ってくれた「少年少女文学全集」をよく読んだものです。
「宝島」とか「ああ無情」とかを子供用に書き直したもので、全20巻~30巻くらいあるものです。
それらのなかに中国の「三国志」がありました。
とても面白かったのですが、それは子供用に書き直したものでしたので、
もっと本格的なものを読みたいなと思うようになったのです。
当時、板橋の稲荷台(大和町の環七交差点から南東に7~800m入ったところ)に国鉄の官舎があり、
私はそこに住んでいたのですが、池袋の書店までよく自転車に乗って出掛けていました。
池袋の駅前まではそれなりに距離があったのですが、
何しろ貧乏だったので電車賃を節約すべく自転車で行っていたのです。
今でもある池袋駅前の書店まで行き、そこで岩波文庫から出ていた『三国志演義』を買いました。
その『三国志演義』には「赤壁の戦い」など、固唾を呑むシーンが満載です。
蜀の劉備に仕えた軍師の諸葛亮(諸葛孔明)などは有名ですね。
しかし『三国志演義』はあくまでも“演義”であって、本当の三国志、
すなわち正史というものでありません。
のちの明の時代に書き上げられた大衆向けの小説で、内容には大いに創作などが織り込まれています。
それを小川環樹・金田純一郎が翻訳したものを読みました。
しかし、漢文をそのまま日本語に直したような、
大人が読んでもわからないほど難しい漢字がたくさん登場するのです。
それを私は漢和辞典を引きながら、小学6年生の時に全て読み終えました。
小さい時の私は辞典が大好きで、国語辞典、漢和辞典、
そして色々なことわざ辞典などばかりを読んでいました。百科事典などの事典も好きでした。
これは後で判明したことですが、実は私の父親(関家)の母親(私の祖母)の従兄弟が、
諸橋轍次(もろはしてつじ)だったのです。
“世界一の辞書”と言われている、『大漢和辞典』を作った人物です。
これは、現在でも世界最大の漢和辞典です。
漢文や漢和辞典に詳しい人にとっては、諸橋轍次と言えば「神様」のような人で、
人生の全てを辞典の編纂に捧げた言われるほどの人です。
そのような人が私の血筋にいるので、文章を書く素養はそこから来ているのではないかと、
私は勝手に思っています。
とはいえ、学生時代や新聞社でカメラマンとして働いていた時代には、
まさか自分が経済の本を生業として歩むことになろうとは想像すらしていませんでした。
これも関家の血筋のせいなのかもしれません。
このブログを読んでいる人はご存知の通り、
私は現在、「株式会社 第二海援隊」という出版社を経営しています。
その子会社には、投資助言顧問業を営む「株式会社 日本インベストメント・リサーチ」
という会社があります。この会社は、会員制の「ロイヤル資産クラブ」「自分年金クラブ」
「プラチナクラブ」「日米成長株投資クラブ」「オプション研究会」という組織を運営しており、
投資の助言を行なっています。
お客様の資産規模や希望に応じて、海外ヘッジファンドを中心に情報提供しています。
どちらの会社も、もう20年以上経営を続けています。
私は「経済ジャーナリスト」という大層な肩書を付けられることが多いのですが、
本をたくさん書いているのでどちらかというと文筆家と言うほうが正しいかもしれません。
一般的に、「文筆家(作家)は経営が不得手」と言われています。
逆も然りで、経営と文筆の両立は難しいと考えられているようです。
「作家が経営をやると会社を潰す」とまで言われています。
自慢に聞こえるかもしれませんが、私はそうした概念を打ち壊した一人だと自負しています。
もちろん、そうなれたのには何人かの恩人の存在があります。
その一人に、総合法令という会社のNさんという人がいます。
彼は福岡出身で私と同じ歳なのですが、私が徳間書店から出版して
大ベストセラーとなった『大不況サバイバル読本』を読んで、
私のところに訪ねてきてくれたのです。
そして、「ぜひ、うちでも本を出して下さい!」と依頼され、
それをきっかけにそこから数年間、お世話になることになりました。
Nさんが携わってくれた書籍で『95年の衝撃』(総合法令刊)はベストセラーになっています。
結果的にたくさんの本を総合法令から出版したのですが、彼が私の才能を見出してくれたのです。
私が第二海援隊を設立した際、最初は上手く行かず悩んでいました。
そんな設立から6~8ヵ月目くらいの頃、Nさんが救いの手を差し伸べてくれたのです。
第二海援隊を設立した当時、率直に言って私は錯覚していました。
浅井隆という名前は当時すでにそれなりに有名でしたから、
「まあ、私が出版社とかニュース・レポートの発行をすれば、
いくらでも人は集まる」と勘違いしていたのです。
そして、強気な姿勢で20万円もする会員制のレポートを発行しました。
これは、現在も発行している「経済トレンドレポート」の前身です。
現在は改良して年間約3万円で購読者数も2000名を超えていますが、
当時は新聞でも大々的に広告をうったりしたのですがほとんど購読者は集まりませんでした。
しかし、集客を当てにして従業員を雇ってしまいましたし、そのための事務所も借りてしまっています。
多くの株主が資本金を出して下さっていましたので、それは大きな資本がありましたが、
ただただそれを食い潰すだけの状態になっていたのです。
当時は、夜も眠れませんでした。8ヵ月目くらいの頃は本当に眠れず、
3日3晩くらい頭を悩ませることが当たり前でした。
ある日の朝、3時か4時くらいだったでしょうか、
激しい動悸に襲われ心臓がおかしくなり、「これでもう死ぬんだな」と思いました。
その頃、そのNさんに相談しに行くことにしました。
場所は新宿で西武新宿線の駅の近くだったと覚えています。
居酒屋でご馳走になり、その時のNさんの一言が私を救ってくれたのです。
「浅井さんね、私も総合法令という出版社をやっているが、
出版社なんてそれだけでは儲かるものではないよ。
本を出版するだけでなく、それとは何か別のもの、たとえば安い値段で経済レポートを発行したり、
講演会で広くお客さんを集めたり。
そして、人が集まって来てはじめて会員制クラブを運営したり、色々なビジネスが生まれるんだ。
そうやって生きて行くしかないんだ。出版業だけで儲かるなんてことはないんだよ」と言われたのです。
私はその助言に忠実に従い、まずは安価な「経済トレンドレポート」を10日に一度のペースで発行しました。
すると、徐々にお客さんが集まり、そこから色々なことが始まったのです。
これは後で聞いた話なのですが、当時、総合法令の関係者は
「浅井も作家として本だけ書いていればいいのに。会社を作ったって、もって一年だよ」
と陰口を叩いていたようです。
ところが、経営が立ち行かなくなったのは総合法令のほうでした。
私も総合法令でたくさんの本を出していましたが、
その印税(2~3000万円でしょうか)を払ってもらえないほど、資金繰りに窮してしまったようです。
話を戻しますが、私も経営と文筆業(作家)の両立というのはとても難しいと思っています。
作家というのは、浮世離れした人や変わった人、感覚的な人や偏屈な人が多く、
もちろんそのことも文章を書くことにはプラスになるのでしょうから文筆には長けていますが、
経営に必要なセンスとは相反するものですから両立が難しいのだと思います。
会社を経営するための、人を雇う責任、資金繰りの責任、人間関係の円滑化や人事の責任など、
逃れられない現実を目の当たりにして悩まされていたら、
文筆のための発想など一気に霧散してしまいます。
ときには不況もやってきます。それこそリーマン・ショックみたいなことがやって来たりすると、
景気の影響を会社はもろに受けますから、運営して行くだけでもそれはそれは大変なことです。
第二海援隊を経営して一番わかったことは、
「会社を営んでいると、良いことなんてほとんど起きず、起こることの95%は悪いこと」
だということです。中には死にたくなるようなこともあるわけです。
それを社員にいちいち愚痴っていてもダメで(たまには愚痴ることもありますが)、
基本的に孤独な状態で色々と決心しなければならないのです。
どんなに辛くとも、会社では平気の平左のような顔をして社員には
「私に任せておけ! 私が全責任取るから!」と言い、何が何でも問題を解決していくわけです。
そして、結果を出さなくてはなりません。それをやるのが経営者の仕事です。
「企業はリーダーの器量以上には成長しない」という格言があります。
まさにその通りで、全てが私にかかっていると常に肝に銘じて奮闘しています。
これからも文筆を武器に、確度の高い情報をお届けできるよう、
努力を怠ることは絶対にしないでいようと常に思っています。 |