天国と地獄
 

2019年10月4日更新

第107回 「何か、変だな」という気付き

 

前回は、“浅井隆”というペンネームをつけてくれた、集英社の中村信一郎氏の話まで述べました。
前回も述べましたように、日本の運命が変わった1990年2月の株の暴落から2~3週間後、
私が当時勤めていた毎日新聞写真部の24時間勤務の時に中村信一郎氏が電話をしてきたのでした。
当時、私は経済のことを全く知らず、日経新聞でさえ読んでいませんでしたが、
ただ1988年、89年のバブルピークの頃に漠然と、
「世の中、何か変だな」と思っていました。
今回は、その「何か、変だな」のエピソードをいくつか紹介したいと思います。

一つ目は、1988年の10月末頃のことだったと思います。
木枯らし一番が吹くような、すごく寒い日でした。
西麻布かどこかで友人らと飲んだ時のことです。
終電が終わる深夜の12時30分か1時頃に店を出ると、タクシーはほとんど走っていませんでした。
そこにたまたま“空車”が来たのですが、なんと手をあげても止まらないのです。
あとで金融機関に勤める関係者から聞いたことですが、
当時、タクシーの空車を止めるにはコツが必要だったそうなのです。
特に、金曜日の夜で終電が終わってしまった頃、皆が一番タクシーを必要とする頃には、
1万円札を円筒型に巻いて手を振るのです。もちろん、枚数は多いほど効果は抜群です。
1万円札で数本円筒を作り、それを持って手を振る。
そうすると、それを見て(タクシーの)運転手が止まるのです。
それは「(万単位の)乗車代を払うよ」という意味ではなくて、あくまで“チップ”です。
それ以外にタクシー代はかかるのです。
私などは、毎日新聞にいた時にはお金はありませんので、もちろんチップなどあげられません。
ですから、ただ手をあげるわけですが、それでは止まるはずがありません。
風がバンバン吹いて寒く、ほとほと困り果てていました。
結局、40~50分待っていましたが1台も捕まりませんでした。
このままでは風邪を引いてしまうと思い、「しょうがない。飲み直しだ」と、
その友達と別の店に行くことにしました。
そして、次に店から出てきたのが深夜2時30分位でした。
それでも、30分待ってもタクシーが捕まらない。
それで、もう一軒別の店に行って飲み直しました。
結局、朝の4時位になってやっとタクシーを捕まえることができ、家まで帰れました。
「一体、何が起きているんだ?」と、その時感じたものです。

二つ目は、1988年か89年の春のことです。
東京の下町の方で事件か事故があり、その取材の帰りで夕刊ギリギリの時刻だったと思います。
皇居前までハイヤー(新聞社にはハイヤー<運転手付きの社有車>がたくさん待機していて、
カメラマンはたくさん機材があるため必ずハイヤーで移動したものです)で来たところ、
なんと車が全く動かなくなってしまったのです。
皇居の周りを散歩したり、観光客が歩いたりしているのですが、
その人たちの方が明らかに車より早く進んでいます。
その場所から竹橋の毎日新聞社までは1km、いや800mもありません。
さすがに20分乗ったまま待っていたところで「これはまずい!」と思いました。
それほどの大渋滞が都会のど真ん中、何車線もある幹線道路の上で起きたのです。
当時はこれほどすさまじい交通量だったわけです。

時計を見て、締め切りに間に合わないと思い、焦りました。
新聞の夕刊には3回の締め切りがあります。
最初は11時過ぎ、次が12時過ぎ、最後が13時過ぎです。
13時過ぎは、印刷してすぐ運ぶ事が出来る東京都内など近いところです。
地方の遠方は夕刊がありませんから、遠いところとはたとえば関東地方でしたら宇都宮などは、
夕刊は一番早い11時に締め切って、そのあとのニュースは翌日の朝刊に回されます。
さて、最後の締め切りが13時。社に着いて現像してプリントし、
そこからデスクが選んでとなると、どんなに早くても20分はかかります。
ですから20分前には到着しないと間に合いません。
ところが時計を見ると、この進み具合では間に合わない状態でした。
その日は雨が降っていたので、特に混んでいたのでしょう。
仕方がないので、私はハイヤーの運転手さんに
「私は原稿(フイルムと取材メモ)だけ持って傘をさして走るので、
運転手さんは後でゆっくり会社に戻ってきて下さい。
そして、車両課の方にカバンを4階の写真部に届けるように言って下さい」と指示して、
走ったことを覚えています。

私が「世の中、何か変だな」と特に実感したのは、この2つのケースですね。
あとは、不動産や株価が上がっているらしいということも聞いていましたので、雰囲気は知っていました。
ただ、私は早稲田の政経出身と言っても政治学部の方でしたので、政治思想を学んでいました。
ですから政治の、特に古代ギリシャからの思想や政治の哲学は勉強しましたが、
経済に関してはほとんど知識がなく、難しい経済用語などは全く知りませんでした。
ですから、今のように私がそんな経済の本を書くなんて、当時は夢にも思っていませんでした。
そんな私を、中村信一郎氏が、
「関さん、お前はアメリカの最高機密、ペンタゴンを説得してあれだけのものを何回も取材し、
写真も撮らせてもらった訳だから、お前だったらこの日本株暴落の謎解きができる!」
と必死に説得してくれたのです。
それで「そうかな?」と考え、これはひとつのチャンスだと思い、
「わかった。やろう!」と返事をしたのです。
そこから、今の浅井隆へ向かっての第一歩が始まったのです。

思い返すと、私がかえって経済の素人だったのが良かったのかもしれません。
当時(1989年)、バブルのピークに向かってどんどん株が上がっていました。
専門家や評論家あるいは株屋は、戦後の日本がゼロからスタートして
長期で上昇していく時代を経験していたのです。
あとから考えるとその最後のピークにいたのですが、
その雰囲気にどっぷり漬かっているわけで、次に来る大きなトレンドが、
その大逆転によって株も暴落して日本が恐慌寸前まで行くなんてことは夢にも思っていません。

「パラダイム」というのは、世の中を支える根本の規範や全てのもとになる憲法のようなものです。
そして、全く違う「パラダイム」に突入していく、
つまり「パラダイムシフト」をしようとしている時には、
残念ながら今までの常識にとらわれていた人間は完全に取り残されます。
当時の私の場合は、そもそもバブル経済の常識がないわけで、
経済の現場、実態から入り、株が下がり世の中が阿鼻叫喚の状態の中でいろんなことを学びました。
具体的な教師は、日経新聞、日経金融新聞(現在の日経ヴェリタス)、
それから「現場の声」です。
そして、本当の現場の生の声、これをもとにチャート分析や、
海外で出版されたバブル崩壊の本など、様々な国内外の本を読みながら、
それまでの経済学の本ではなく、
「新しいトレンドを一般庶民に、一番わかりやすく見せる経済のトレンド本」、
そういう分野を作ったのです。
「浅井さんの本は赤いね」とよく言われます。
出版界では「浅井の赤本」と言われているらしいです。
昔、旺文社が出していた「豆単」が確か赤色でしたね。
その「浅井の赤本」の中でも、自画自賛をするのが、
1993年9月に徳間書店から出した『大不況サバイバル読本』です。
1990年代のバブル崩壊からそれ以降のトレンドを執筆したのですが、
この本は今読んでもすごい本です。
世の中に衝撃を与えた本で、「あれを越える本はなかなかない」と自分でも思っています。
それから今に至るまで数多くの本を執筆してきましたが、
その全てのスタートが1990年の3月初旬にかかってきた中村信一郎氏からの1本の電話です。
「経済のことは何も知らないけれど、やってみよう!」
──この決断が私にとって人生の大きな決断となりました。


 

徳間書店から出版した
『大不況サバイバル読本』。
この本がベストセラーになったことで、
次々と出版社から単行本執筆の依頼を
受けるようになった。
当時の徳間書店の社長であった
故・徳間康快氏には、
生前様々な面でお世話になった。
私の最も尊敬する大恩人だ。

          “浅井隆”と言うペンネームで経済の取材を始めた当時も現在も、
          私は自分の 「何か、変だな」という直感は大切にしている。
          直感から取材を重ね、掘り下げて行くことはとても多い。
                      (2019年9月 東京・御茶ノ水にて)