『破滅へのウォー・ゲーム』を出版することになり、
私としては初めて長い文章を書くことになりました。
もちろん、新聞社にいた時にキャプション(新聞の写真についている説明)
を付けたことはありますが、せいぜい2行程度の短い文章です。
ただ、今でもあるでしょうか? 当時、土曜日の毎日新聞夕刊の3面に、
写真部記者が数枚の写真を使っていろいろな特集を組めるページがありました。
下は広告なのですが、その上の3分の2くらいの大きなスペースに
写真を5~6枚を組み合わせた特集です。
それが毎週掲載されており、その写真の下に少し長めの文章を載せるので、
ときどき200字詰め原稿用紙で6~7枚程度の文章を書いていましたが、
本となると全く字数が違います。
私は寝食を忘れて、もう必死で原稿を書きました。
すると、それほどひどい文章ではないものが書けました。
そして「自分にも書けるんだな」と思うことができたわけです。
ただ、今でも「失敗したなぁ」と思っているのは表紙のことです。
『破滅へのウォー・ゲーム』ですから、
コンピューターの部品(マイクロチップ、IC(集積回路)とかLSI(大規模集積回路))の上に
核爆発で起こった時のきのこ雲、というアイデアを私が出しました。
表紙は、確かにそれを描いたものではあったのですが、
描いたイラストレーターのセンスもあるのでしょうが、
私のイメージしたものとは違い、なんか子供じみた安っぽい表紙になってしまいました。
「あぁ、失敗したな」と非常にがっかりしたのを覚えています。
これだったら、ただ黒地に文字だけ(表紙にタイトルだけ)の方が良かったかなと。
そのことが、いまだに印象に残っています。
『破滅へのウォー・ゲーム』を出版するまでに、
だいたい3~4回くらいアメリカに取材に行きました。
その結果、けっこうな枚数の写真が集まりました。
本当はそれで写真集を出したかったのですが、
持ち込んだ出版社の担当編集者から
「すごい写真ではあるが枚数が足りない。写真集にするには無理だね。
だったら写真付きの本にしないか?」と言われました。
その提案がきっかけで本を初めて書いたのですが、
本を出すに際して、私は毎日新聞と次のように交渉しました。
つまり、「取材は自分のお金で行きましたし、自分の休暇を利用して行きました。
そして毎日新聞には無償で提供しましたので、版権は自分に下さい」と。
現在でしたら、毎日新聞社の名前を使って行った以上、
版権を個人で持つのは厳しく、無理だと言われると思います。
当時はラフだったので、私が版権を持つことができました。
ですから、写真を持って色々な出版社に売り込みに行ったわけです。
大体そういうのは写真雑誌が多いので、
当時は「フライデー」(講談社)、「フォーカス」(新潮社)、「フラッシュ」(光文社)、
それ以外に雑誌にもグラビアというのがあるので「週刊文春」(文藝春秋)、
「月刊プレイボーイ」、「週刊プレイボーイ」(集英社)、そういうところに売り込みに行きました。
こうやって人脈を広げて行きました。
そういう中で、私の運命を切り開いてくれた人がいました。
それが、当時集英社で「月刊プレイボーイ」や「週刊プレイボーイ」などで
編集をやっていた中村信一郎という人です。
たまたま同じ歳で、私が早稲田で彼は慶応出身という不思議な組み合わせでした。
彼は、非常に優秀な人で頭がべらぼうに良く、
そして大変リッチな生活を送っていました。
当時の私から見たら“夢のような生活”といってよいでしょう。
お子さんがいなくて(作らなかったのかもしれませんが)、
奥さんは当時JALのCA(キャビンアテンダント)をしていました。
子供がいなくて共働きをしている、いわゆるDINKs(ディンクス)ですね。
私が38歳で毎日新聞を辞めた時、
家族4人(私と女房と子供2人)で年収600万円でしたから、
カツカツどころか、下手すればマイナスで借金を背負うような生活でした。
ただ、それ以外にこういう写真を売ったり、
本を書いたりしていたので(すでにその時本を書いていたので)、
その収入が200~300万円ありましたからやって行けたのです。私が年収600万円とすると、
中村信一郎氏は当時年収1200~1300万円くらい貰っていたのではないでしょうか。
また、取材費がスゴイのです。
彼がよく言っていたのは、当時よく作品がベストセラーになって、
TVのCMにも出るくらいの売れっ子だったO氏のことです。
集英社でそのO氏をつかまえていたのが中村信一郎氏だったのです。
今となっては言ってもよいでしょうが、
いつもO氏のことを「困った人だ」と言っていました。
彼がO氏と一緒にニューヨークに取材に行った時の話です。
「まったく、信じられないよ。レストランで1本20万のワインを空けやがって!
もう、こんなの経費で落とせるかよ!」とこぼしていました。
何とか集英社の経理に掛け合って、経費として落とせたとは言っていましたから、
当時は経費を結構使えたのだと思います。普段色々な取材や、自分の飲み食いでも、
そのほとんどが経費で落とせたのではないでしょうか。
ですから、実際には経費も入れたら1500万円とか、1600万円くらいになりますね。
それに奥さんがCAでしたから、当時JALのCAといえば結構待遇は良かったと思います。
年収800万円くらい貰っていたのではないでしょうか。
それを入れたら2000万円超です。
ですから、都心の一等地にすごいマンションを持っていました。
私からみたら、雲の上の人でした。その彼の所に何回か売り込みに行き、
「月刊プレイボーイ」などに写真を載せることができました。
そうこうしているうちに、あの90年がやって来るのです。
89年にバブルがピークを迎え、90年に株が暴落するという大変な事件がやって来ました。
今でも「バブル崩壊」というのは、日本の場合90年の2月の株暴落から端を発し、
その年の10月から不動産が暴落し、金融機関もおかしくなり、
全体がデフレ不況になって行った時のことを言います。
そういう大変な時代の始まりが90年だったのです。
その頃、実は中村信一郎氏は色々な取材を通して様々な情報源を持っていたと思われます。
今でも覚えていますが、私の運命を変えたのは90年の3月初旬くらいだったでしょうか。
株の暴落が始まったのは2月19日です。
暴落が始まる前日は休日で、第39回衆議院議員総選挙だったのです。
そして自民党が大勝しました。
すると、不思議なことにその翌日から株が暴落したのです。
それでよく覚えているのです。
それから2~3週間経ち、3月の梅が咲いて桜はまだかという頃、
たまたま夜、毎日新聞の編集局4階の写真部にいたのです。
午後1時から翌日の午後1時までの24時間勤務の時でした。
今と違って当時の新聞社とはひどい所で、
ほぼ全員がタバコを吸っていて、煙がモヤになっていて、
遠くの方が霞んでいます。
ですから、喉の悪い人や肺の悪い人はいられないでしょうね。
大体新聞社の人というのは、癌で亡くなる人が多いのですが、
それが原因ではないでしょうか。
編集局の中で、写真部は社会部と少し場所が離れているのですが、
大体事件が起こった時や何かあった時は、
社会部が騒然となっていたり政治部が騒然となったりしてうるさいのです。
ですから広い編集局といっても、ザワつきで事件の発生がわかるわけです。
その日は不思議なくらい何もない、火事もない、事件も起きない日で、
「あぁ~、今日は眠れるな。早く寝ちゃおう」と思っていました。
ちょうど夜の9時頃、私が調べ物や自分の勉強をしている時のことでした。
カメラの整備さえしていれば、暇なときは何をしていてもよいのです。
待機していて、出動の時に出て行ければそれでよいわけです。
他の人は皆ダベッていたり、テレビを観たり、小説を読んだり、
雑誌を見たりしていましたが、
私は必死にアメリカ軍の研究などをしていたのです。
すると、突然私の目の前の電話が鳴ったのです。
パッと取ると中村信一郎氏からでした。
当時は本名で呼ばれていましたから、
「おう、関さん」「あ、中村さんですか?」
「おう、中村だ。いや、あの、ちょっと話があるんだけど、今いいか?」
「今、ちょうど暇なので大丈夫ですよ」と、7~8分しゃべったでしょうか。
それが私の運命を変えたのです。
「お前さ、この株の暴落、変だと思わないか?」
「え?」確かに、株がひどく下がっているらしい、
ということは新聞にも出ていましたし、聞いていました。
でも、当時は日経新聞すら読んでいませんでしたし、
経済に興味がないことはなかったけれども何も知らなかったわけです。
専門用語もほとんど知りませんでしたし、
雰囲気的に毎日新聞の経済欄のところをチラッと見て、
「株が下がっているな」くらいのことを思っている程度でした。
ところが彼は、「この暴落は絶対、おかしい! 絶対何か裏がある!
お前が調べて記事を書かないか?」と。
「え、何言ってるの? おれ、日経新聞さえ読んでないし、経済については詳しくないよ」
「いや、違う! お前はアメリカ軍の中枢部分にこれだけの取材をしたんだから、
お前なら絶対調べられる!」と。
私は決断が結構早い方ですので、
少し考えて「まぁ、それも面白いな。一回くらい取材してみよう」と思い、
「わかった! やろう!」と言ってしまったのです。
これが私の運命を変えたのです。
そして、これが「浅井隆」の誕生につながるのです。
実は、「浅井隆」というペンネームも中村信一郎氏のおかげでできたのです。
ここから色々なドラマが始まって行くのですが、
先ほどの株暴落の取材の話に戻りましょう。
24時間勤務の後や休みの日まで、
まず暇な時間は全て新聞社の調査部に籠って60年前の大恐慌の研究や
最近の株価の動きの調査に没頭しました。
日経新聞だけでなく、日経金融新聞も半年前からの全ての記事に目を通しました。
そして様々な経緯を経て、何人かから特殊な情報源も得て、
最終的に実はアメリカの証券会社ソロモン・ブラザーズ(ユダヤ系)が
バブルの最後の棒上げを演出し、
その後は暴落のきっかけを作ってボロ儲けしているということがわかり、
私の大スクープとなりました。世紀の大スクープだったと言ってよかったと思います。
これを、中村信一郎氏と組んでやったのです。
このスクープをきっかけに私は経済の分野に入っていくのですが、
実に不思議な縁であり運命だと思います。
あくまでも私が自費でアメリカに何回も取材に行き、写真の版権を自分のものにして、
自ら売り込みに行ったことによって中村信一郎氏と出会うことができた。
それがなければ、そして、中村信一郎氏が私に白羽の矢を立てなければ、
このスクープはなかったのです。
他の経済のライターはいくらでもいたのですから。
多分彼は、「こいつと組んだら、何か特別な面白いものが出来るのではないか」
と思ったのではないでしょうか。
そこが、浅井隆の出発点、原点ですね。 |