天国と地獄
 

2019年8月26日更新

第103回 緊張と興奮のNORAD取材を終えて

 

緊張と興奮のNORAD取材を終えた私は、
日本に帰ってきて早速写真を現像し、結構きれいに写っていたことに安堵し、
そしてやっぱりすごいものを取材してきたという事をあらためて実感しました。
以前のコラムでも触れましたが、私が大阪写真部から東京写真部に移ってすぐ、
1~2週間でアメリカ取材に行ってきたわけですから、
帰ってきたら皆が「こいつはすごい取材をしてきたな」というような、
妙な目つきで私を見ていました。

この取材記事が毎日新聞に掲載されてから1~2ヵ月ほど経った頃、
写真部には滅多に来ることがない人がやって来ました。
なんとそれは、毎日新聞で論説委員をしている、
雲の上のような存在の大先輩でした。

論説委員と聞いてもピンと来ない方も多いと思いますので、
少し新聞社の内部について説明しましょう。
新聞社は扱うニュース毎に部署が分かれています。
本社の内部は、「政治部」、「経済部」、「社会部」、「学芸部」、「運動部」、
海外の「外信部」、地方の色々な記者を束ねている「地方部」といった具合になっており、
それぞれの部に所属する記者たちがいます。
そして、それとは別に「写真部」があり、カメラマンが所属しています。
また“割り付け”(今日どの記事をトップに使うか、見出しをどうするか、
この記事をどこまで切ってしまうか)をする「整理部」という部門もあります
(それ以外に「印刷局」(運送する部門)もあります)。
また、こうした部門と独立して「編集室」というところがあり、
そこには「編集委員」がいます。
ある程度の年齢になり優秀な結果を残してきた人は、この編集委員になり、
一般の記者(たとえば、社会部なら事件担当や警視庁担当、
外信部なら北米担当やワシントン支局など)とは別に、
自分で好きなネタを集めて自由にコラムを書いたり、
特集を組んだりできるようになるのです。
そして、編集委員のさらに格上の存在に当たるのが「論説委員」です。
論説委員とは、新聞社としての意見表明となる「社説」を執筆するという、
一般記者や編集委員ではできない役割を担っています。
そして、それを束ねる論説委員長は社内でも屈指のポジションにあり、
さらにその上席に当たる「主筆」(シュヒツ)に至っては、
社長と同格と位置付けられているのです。

新聞社とは特殊なところで、明治時代の創業当時からその存在意義は、
いかに「政府と対抗して本当のことを言うか」にあり、
それが新聞社の本質、本来の姿でした
(今の新聞社がそれをやっているかどうかはわかりませんが)。
つまり、国家権力にすら屈せずに世の中に対してどういう説を唱えるか、
どういう社説を書くのか、
どういう社の方針(編集方針)にするかこそが新聞社の最も核心的な部分であり、
社の将来や社会での存在価値をも決める最重要事項となるのです。
そして、それを決めるのが主筆であり、
それゆえに主筆は社長(すなわち組織運営のトップ)と同格なのです。
こうした組織体制であるため、論説委員は記者とは別に存在し、
編集委員の中でもかなり優秀なごく一部の人しかなれません。
実際、現在も各新聞社では論説委員はせいぜい数人程度しかいません。

さて、その論説委員の中の一人で、結構年輩の、
岩波新書でも核問題の著作を持つほどの専門家が
(通常、そのような偉い人が現場に来ることはないのですが)、
写真部にひょっこりやって来たのです。
そして、開口一番「関君(私の本名は関です)いるかな?」と言ったというのです。
居合わせた写真部長は、軍隊組織のような新聞社で
雲の上のような存在の論説委員が突然やって来て、
なぜ下っ端の私などを訪ねてきたのか、不思議そうでした。
私は暗室にいたところを呼び出され、
その論説委員に「ちょっと、話がしたい」と言われました。
その人の「現代の核戦略」といった本を読んで、「凄い人だな」と思っていましたし、
顔くらいは見たことがありましたが、一介の写真部員からすれば雲の上の人です。
突然のことに大変驚き、
普段なら怖くてとても話なんてできる人ではありませんから、緊張が走りました。

その時のやり取りは、おおよそこんな感じでした。
「おう、君が関君か」
「あ、関です」
「お前、NORADに取材に行ったんだって?」
「はい、行きました」
「お前、どれくらい見せてもらえたの?」。
この質問は、私がどの程度の取材をしたのか探るため、
カマをかけたものだったのでしょう。
私が正直に「最高司令部に30分いました」と答えると、
その人は絶句していました。
そしてその人は正直に話してくれたのです。
「俺も半年くらい前に行ったんだけど、俺が行った時は最高司令部のドアを開けて、
そのわずか10~30センチくらいの隙間から30秒見ただけだった。本当か? 本当に中に入ったの?」
私も、ウソを言っても仕方がないので
「30分いました。しかも、将軍が応対してくれました」。
すると、みるみる顔色が変わり、
「お前、どういう手を使ったの?」と言われたのです。
さすがに「あ、魔法です!」などと軽口は言いませんでしたが、
「普通に取材依頼を出しただけです」と答えました。
まあ、本当のところがどうなのかはわかりませんが、
私はとてもラッキーだったのでしょう。
いずれにしても、その筋の専門家が顔色を変えるような
取材を敢行することができたのは確かでした。

以前のコラムにも書きましたが、
実はNORADに行く少し前(まだ大阪勤務の時)に不思議な経験をしました。
おそらくCIAに尾行され、
私が危ない人物ではないかどうかを徹底的に調べられたのです。
私が取材と称してスパイ活動を行なう危険人物だったらまずいわけですから、
CIAとしても私が何者かを調べるのは当然でしょう。
ただ、NORAD取材はCIAの尾行という奇妙な経験や
論説委員の突然の訪問という経験にとどまらず、
その後の私の人生を変えることになる様々な経験をもたらすことになりました。

以前も書いた通り、元々NORADの取材は写真部長には断られていました。
「社としては、そんなお金はないので行かせられない」
――それを、アメリカ軍の米軍報道部の東京連絡事務所のナカムラ・ミチさんに
「何、言ってるのよ!関さん、NORADの取材許可なんて見たことがない。
あなた、自分で行けばいいじゃないですか!」と言われ、
私は自分のお金と自分の休暇で行き、そしてその結果、
この写真と取材の版権(権利)は、私自身が持つことになったのです。

思い起こせばそれこそがコトの始まりでした。
それまでは東京に来たばかりで版元(出版社)のコネクションなどありませんでした
(大阪にはほとんど出版社はありません。
京都には一部ありますが、当時ほとんどの出版社は東京にありました)。
しかし、自分の持ち物であるNORAD取材を売り込まない手はないと考え、
名だたる雑誌社に「こういう写真を撮って来たのですが使いませんか?」と電話したところ、
何社かが会ってくれたのです。
当時は「週刊プレイボーイ」、「月刊プレイボーイ」、「フライデー」、「フォーカス」、
「フラッシュ」、他にも「週刊文春」など大きな発行部数を誇る雑誌がいくつもあり、
そのあたりには全部に当たりをつけて面会を申し入れ、そこで人脈を作っていきました。

私は30歳の時にNORADを取材しましたが、
それにとどまらず取材を重ねました。
翌年は「戦略空軍」(攻撃する部隊)に、
さらにその翌年には「NASA」にも取材に行きました。
たまたまスペースシャトルが初めて爆発した大事故の後で、
次に作っていた当時最高機密のスペースシャトルを
フロリダのケープカナベラルまで取材に行ったのです。
その帰り、私は南北戦争の南軍の司令部があったアラバマ州モンゴメリーにある、
「ウォー・ゲーム・センター」に行ったのですが、
施設の広報担当がびっくりしていました。
「アメリカのマスコミさえ、わざわざ調べてこんなところに来ないよ。
地味なところだから。どうやって調べて来たんだ? 日本人だろ、お前」
「色々、調べて来ました」
「へえ、すげえなお前、どうやって調べたんだ?」などと言われました。
当時はまだ、インターネットなど普及しておらず、
情報を集めるのは並大抵のことではありませんでした。

そんな取材を続けた結果、けっこうな数の写真が集まったので、
私が本を出したいと言うと、
当時の毎日新聞の編集委員のオオシマさんをはじめ
色々な人たちが私を助けてくれました。
そして、「KKダイナミックセラーズ」(当時、神保町にありました)という
出版社を紹介してくれました。
その前にオオシマさんに写真を見せたところ、
「すごい写真だけど、写真集にするには枚数が足りないね」と言われ、
「本を書いてみたら」と勧められました。
「いや、私は文章なんてほとんど書いたことがないし、無理です。
文章が苦手なのでカメラマンになったんですよ」と断ったのですが、
オオシマ編集委員が「いや、書けるよ。そんなに難しいことではない」と言われ、
結局、言われるがまま必死になって書きました。

それが私の初めての本『破滅へのウォー・ゲーム』で、
ペンネームを「結城馨」(ゆうきかおる)とつけて出版したのです。
本の表紙を載せておきます。
その中の写真は、これまでこのコラムでも何枚も紹介してきました。
今では絶版になってしまい、
入手することも古本屋かアマゾンの中古くらいでしかできませんが、
機会があったら見てほしいと思います。


 

『破滅へのウォー・ゲーム』
(KKダイナミックセラーズ刊)。
いまや、この出版社もなくなってしまったが、
私の貴重な経験をまとめた本だ。
この本を出版後、
単行本を書く自信もついて数々の単行本を出版した。
それでも当時は、
約10年後に自分が出版社を興しているなんて、
夢にも思わなかった。

     

 

激務の合間を縫って、
出版部員たちと今後の企画会議と
避暑をかねて夏の小淵沢へ。
里山は私の大好きな風景の一つだ。
私はいつも自然の中に身を置くことによって
アイデアや気付きを得ることができる。

(2019年8月 小淵沢にて)