天国と地獄
 

2019年6月25日更新

第97回 私が毎日新聞に入社した理由<その4>

 

毎日新聞時代は私の礎を築いたので、その話をもう少し続けます。
私が毎日新聞の大阪本社にいた時、大阪写真部は人間的に非常に古い気質を残しており、
それはもう、「凄い」の一言でした。先輩には絶対服従、口答えなどもってのほかです。
写真部では「部長」がいて、その下に「デスク」という人がいます。
そして、デスクの下は「兵隊」です(戦後統制の名残りか、一番下のことを兵隊と言いました)。
デスクは、正式には副部長職のことを言います。
そのデスクが兵隊を指揮します。
部長は、他の部署との折衝や社の大きな方針、人事を決めたりする仕事で、
普段の細かいことは面倒を見ません。
事件の時などは、デスクが24時間泊まり込んで指示を出します。
大阪の場合には、その上下関係の体制が非常に厳しかったわけです。

今はもうなくなってしまいましたが、
本社ビルは米相場で有名な堂島または大阪の北新地という場所に位置し、
東京で言えば銀座にあたる大通りに面したところにありました。
大正時代のビルで大層古く、エレベーターもジャバラ式の扉で自動ではありません。
そこには社員として、常にエレベーターガールがいました。
ですから、映画やドラマの撮影でよく使われてたものです。
石造りの本当に古い建物で、文化財、いや世界遺産に認定されてもよいぐらい古風な建物でした。

古い建物に古い気質だったわけですが、それは写真部だけではありません。
写真部は建物に入って真ん中に位置し、社会部が一番入口にあったのですが、
その社会部が、当時は猛者ばかりで凄かったのです。
三国志や水滸伝に出てくる英雄豪傑を思い起こさせるような連中がたくさんいました。
大体、夜中の1時が締切りなのですが、事件がないと0時30分位には社会部は暇になります。
という事で、その時間あたりでなんと酒盛りが始まります。
すると、30分も過ぎた1時くらいにはみんな酔っぱらって
「なんだ、お前、コノヤロー」「バカヤロー」と喧嘩が始まり、
つかみ合い殴り合いになったりするのです。
写真部では、さすがに殴り合いはしませんでしたので
「あーあ、また社会部だ」「しょうがねーな」と冷めた目で見ていました。
今では考えられない時代です。
ただ、そんな体制の中、本当に厳しくしつけられたので、写真の技術はもちろん、
社会人としてもいろんな意味で多くを学ぶことができました。
私の人生の礎を築いたといえる場所です。

さて、新聞社のカメラマンと言うと、知らない人はかっこいい仕事だと思うかもしれませんが、
実際にはそうではありません。
たとえば、政治家が逮捕された場合、東京だったら小菅の拘置所の前で、
いつ来るかわからない車を待ち続け、土砂降りの雨であろうが、
雪が降ろうが風か吹こうが、暑かろうが寒かろうが、
脚立に乗ってただひたすらシャッターチャンスを待っているのです。
まぁ、忠犬ハチ公みたいなものです。

特に昭和天皇が崩御される前の下血の時は本当に大変でした。
倒れたのが9月の中旬で亡くなったのが1月初旬でした。
そのほぼ4ヵ月間、私は東宮御所(青山御所)南門の担当でしたので、
毎日ずっと南門のところで待機していました。
そして、「バシャ」と1枚の写真を撮るために、ただひたすらそこにいろと言われました。
ジャーナリズムというより、本当に犬みたいなものです。
ですから、私は写真部に配属されてから3週間で
「これは私が考えているジャーナリズムと違うな」と悩んで、本気で辞めようと思いました。

当時、大阪万博会場の近くの阪急千里線の「山田」という駅から
歩いて10分位の団地の中に毎日新聞の独身寮がありました。
独身寮の四畳半もないくらいの部屋には、ベッドと40センチ四方ほどのフローリングと洗面所、
そして棚が一つくらいしかありませんでした(トイレは共同でした)。
そこでよく、夜になるとミゾタさんという方と飲んでいました。
当時、毎日新聞では「農業富民」という農業関係の雑誌を出していましたが、彼はその編集長でした。
ある日、そのミゾタ先輩に「私の考えているジャーナリズムと違うので、もう辞めたい」と相談しました。
やさしい人で、
「関君ね、君の気持ちはわかるけど、新聞社というのはやはりすごいところで、勉強になるんだよ。
君が新聞社を超える位の力を持ってから辞めなさい。それには、最低5年はいなさい」と諭されました。
その言葉を胸に、私は結局14年勤めることになりました。

新聞社を超えられたかどうかはわかりませんが、
新聞社に在籍中、「浅井隆」というペンネームで
徳間書店から出した『大不況サバイバル読本』が超ベストセラーになり。3ヵ月で15万部売れました。
その大ヒットした本の中で、私が作った会員制の勉強会のことを告知したところ
驚くほど人が集まったので、私は会社を辞める決断をしました。

ミゾタさんとはもうずっと会っていませんが、のちに新聞社を辞めて地元に戻られたと聞いています。
今はどうされているのでしょうか?
長崎の人で、私より5つ年上だったので、もう69歳くらいでしょうか。
先輩の一言がなかったら、私の人生はまるっきり変わっていたでしょう。
あのまますぐに毎日新聞を辞めてまた塾でもやっていたら、
今頃はおそらく小さな塾の先生でしょう。
人生というのは、相談すべき相手、そしてそのアドバイスの一言を
どう受け止めるかによって大きく左右されるものだと痛感します。







 

この本を私は毎日新聞在職中に書いたが、
予想以上の売れ行きがあり、
会員制の勉強会が開催できるという確信の下、
退職を決意した。

(2019年4月 東京・御茶ノ水にて)