天国と地獄
 

2019年7月5日更新

第98回 忘れられないNORAD取材<その1>

 
毎日新聞時代には、忘れられない取材や体験をいくつもしています。
その中で、特に今の私にとって大切である思い出や取材について述べたいと思います。
私を育ててくれた大阪本社には、厳しい環境ながら4年間、在籍しました。
前回書いたミゾタ先輩のアドバイスをはじめ、
その生活を支えたものはいくつかありますが、
つまるところは「なにくそ!」という負けん気だったと思います。

後々わかってきたことですが、カメラマンという仕事は実は実力社会で、
たとえ自分より10年も先輩のカメラマンであっても、
良い写真を撮り続けていれば後輩であろうと何も言わなくなるという、
ある意味私にとっては居心地の良い環境でした。
そこで私は、日頃いじめる先輩や嫌な同僚などをなんとしても見返してやろうと一念発起し、
死ぬほど修練を重ねたのです。
もともと私は写真が好きで、
学生時代にはニコン社が出した『ニコマート』という機材を愛用していました。
そして、以前お話した通り、カメラマンになったきっかけも
後の女房が持ってきた「記者・カメラマン募集」という新聞の切り抜きを見て、
わざわざ「記者ではなくカメラマンになろう」と思ったぐらいですから、
写真漬けの生活はそれほど苦ではありませんでした。

先輩を抜いてやろう! と日々奮闘していたところ、私はプロ野球担当になりました。
大阪ですから西宮球場や甲子園球場、難波球場などに出向いて
プロ野球の試合の様子を写真に収めるというものです。
試合はデイゲーム(日中)とナイター(現在のナイトゲーム)があるのですが、
実はナイターの写真は撮るのが非常に難しく、高い技量が必要でした。
広い球場の観客席から300㎜や600㎜の望遠レンズで選手の様子を撮るのですが、
夜はとにかく暗いため、絞りを絞り込むことができません。
絞りを開いたまま撮るとわずかなピントのズレでもすぐにボケてしまい、
使い物にならなくなります。
しかも、当時は現在のようにオートフォーカスがないため、
自分で焦点調整するしかありませんでした。
その上、その日一番の見せ場の写真が撮れなければ、
社に戻っても良くて“半殺し”という仕打ちが待っています
(もちろん本当に殺すわけではなく、死ぬかというほどの目に遭うという事です)。
ちなみに、当時の社内にはちょっとした逸話がありました。
その昔、長嶋選手の重要な一打が撮れなかったカメラマンが、
あまりのショックと帰社後どんな目に遭うかという恐怖から、
試合後にカメラを持ったまま失踪したというものです。
真偽のほどは定かではないのですが、私はその話が実話だと確信しています。
それほど、新聞カメラマンにとって「決定的場面を撮り逃す」ことは死活問題だからです。
私はそんな現場に必死にかじりつき、写真を撮り続けました。

するとある日、転機が訪れたのです。
それは、私がある投手の勝利の瞬間をとらえた一枚の写真によってもたらされました。
最後の打者を討ち取った直後、緊張から解放されたのか天を仰ぎ、
喜びとも恍惚ともつかない、何とも言えない表情をしたのです。
その様子を、私はとらえました。
そして、その写真が紙面に掲載されると、周囲の私に対する反応が急激に変わったのです。
特に、同じ球場に詰めていたスポーツ紙のカメラマンからは、
だいぶ恨みがましい視線を浴びせられたのです。
というのも、スポーツ紙は当然のようにスポーツ記事こそが本流ですから、
当然その写真を撮るカメラマンもスポーツ撮影には秀でています。
恐らく、一般紙よりその点では10倍は腕の立つという人たちが、
最高の写真を撮るべく日夜しのぎを削っているのです。
一方で私が勤めていた毎日新聞は、
もちろんスポーツ記事も取材しますからそのための写真も撮っていましたが、
朝日や読売と同様に主力は政治・経済や時事問題であり、
カメラマンもある意味では報道写真が本流で
野球の写真などになるとやはり専門紙には太刀打ちできなかったわけです。
しかしその日、手練の彼らすら差し置いて、
他紙では誰も撮れなかった「最高の一枚」を
私が撮ってしまったのです。
もちろん、前述した通りプロ野球の
「最高の一枚」など素人がまぐれでも
撮ることなどできません。
並み居るプロカメラマンたちが
持てる技量を駆使して、
やっと撮れるかどうか、というものです。
日頃のがむしゃらな鍛錬で、
私の技量がようやくそこに到達した
という事でもありました。
新聞の写真とは残酷なもので、
翌日の朝刊を並べれば一目瞭然、
どの社が秀でた写真を撮ったかなど
すぐにわかってしまいます。
おそらくその日、スポーツ紙各社では
「なんで一般紙の毎日に
こんなすごい写真があるのに、
ウチにはないんだ!?」
とカメラマンが大目玉を
食らったことでしょう。
さすがにそれでは
恨まれても仕方ないというわけです。
この写真は、私の出版社の出版部員が使用するために
たまたま毎日新聞のフォトセンターで買ってきた写真だが、
なんとその昔(平成4年)私が撮ったものだった。

この経験を大きな糧に、私は色々な現場で奮闘し、
優れた写真というものを追い求めていきました。
やがて、先輩カメラマンからも
「あいつは実に生意気だ。でも、まあなんだ、腕は確かだな」
と認められるようになっていきます。
そして、コーナー名はもう忘れてしまいましたが、
「土曜日夕刊の3面に写真部記者が数枚の写真を使って特集を組む」
という企画に挑戦できるまでになったのです。
このコーナーに私が組んだ記事のひとつが、
当時話題となっていた「核シェルター」でした。
関西にいくつかあった核シェルターを自ら取材して、特集したのです。
「シェルターがあれば、自分一人生き残ることはできる。
しかし核をなくせば、人類みなが生き残れる」という内容を自ら執筆した特集は、
社内でも高く評価され、そして自分にとっても大きな高揚感を得られました。
ただ、その記事から1ヵ月ほど経って冷静になってみると、
やはりもっと大きな欲が出てきます。
私はいつしか「写真だけの世界では限界がある、もっと大きな取材をしたい」という
野望を抱くようになりました。

そんな折、たまたま目にした毎日新聞に、
外信部が書いた「NORAD」(北米航空宇宙防衛司令部)に関する
小さなベタ記事を見つけます。
現在はこの名称は残っていないかもしれませんが、
コロラド州デンバーの南方にあるコロラドスプリングスという街の郊外に、
岩山をくりぬいて作られた核戦争を行なうための地下要塞がありました。
当時、この地下要塞のコンピュータが誤作動を起こし、
米ソ核戦争の寸前にまで至ったという情報が暴露されたのです
(ちなみに、この逸話が元になって米ソ核戦争を題材にした
「ウォーゲーム」という映画も作られています)。
わたしは「これだ!!」とひらめき、NORADを取材することを思い立ちます。

しかし、取材といっても相手は米国の軍隊です。
そもそも行ったこともなければ、コネもありません。
どうしたものかと思案に暮れていたところ、会社の近くに米国領事館があり、
その中に「アメリカセンター」という米国を紹介する広報機関があること知りました。
米国議会の報告書も閲覧できるということで、
まずはそこで様々な調べものを行なっていたのですが、
そこでとある男性職員と面識を持つようになったのです。
私は意を決してその男性職員にNORAD取材のことを相談しました。
虎ノ門の米国大使館に取材申し入れのレターを出すことを打ち明けると、
その職員は「大使館に出してもダメだよ。NORADのトップにレターを出しなさい」
と不思議なことを言うのです。
彼の真意はこうでした。
「米国大使館とは、しょせん役人の集まりで面倒事には関わりたがらない。
国防機密のNORAD取材などと言えば、
レターを受け取って本国に問い合わせたふりをし、
『NGでした』と回答するだけだ。
彼らに握りつぶされるくらいなら、
NORADのトップである空軍大将に書いた方がまだ良い」と。
あっけにとられる私に、その男性職員は親切にも
NORADのトップの送付先まで調べてくれました。
私は彼に言われるがまま、見ず知らずの空軍大将に手紙を出したのです。

すると、その甲斐あって話はトントン拍子に進み……
などというドラマみたいな事は残念ながらありませんでした。
当然ですが、いつまでたっても返事は来ませんでした。
私は、「あぁ、やっぱりダメか」とすっかりあきらめていたのですが、
忘れかけていた2ヵ月後に一通の手紙が届きます。
なんと、当のNORADから「取材の意欲は分かった。
なぜ、取材したいのかを知りたい。
あなたの経歴も教えてほしい」という問い合わせが来たのです。
私は大喜びでその返答をしたため送ったのですが、
実はこの時、奇妙な体験をしていたことに後になって気がつきました。

その日は新聞社の24時間勤務が午後1時に終わり、午後3時頃に社を出ると、
阪急電車に乗って「御影」という高級住宅街の上にある、
質素というかハッキリ言ってしまえばボロい社宅へと家路を急いでいました。
列車内で私は刷り上がったばかりでまだ誰も読んでいない自社の夕刊を、
少々悦に入りながら読みふけっていたのですが、
その新聞越しに何か突き刺すような、
例えるなら“殺気”と言ってもいいような異様な気配を感じたのです。
すかさず新聞をザッと下ろして周りを見回すと、
なんとトレンチコートを着た目つきの鋭い外国人の男が私を睨みつけていたのです。
そのいかにもスパイや探偵のような出で立ちの男は、
私と目が合うとすぐに目線をそらし、曖昧に当たりを見回したりしていたのですが、
再び私が新聞を読み始めると、また異様な視線を感じました。
新聞を下すと、やはり彼がまた睨んでいて、すぐに目線をそらすのです。
私は「なんだろう、この人?」と変な気分になり、
当時はまだ関西の私鉄電車に外国人が乗っていることなど珍しかったこともあり、
やけに鮮明にそのときの印象が残っていました。

結局、その時はそれ以上には特に何もなく、
その後私は前々回述べたように石川部長に東京への転属を命じられるのですが、
直後にペンタゴン(米国防総省)を経由してNORADの取材許可という一報が届きます。
私は喜びと同時に、その時になってこの外国人の一件がピンと来たのです。
つまり、恐らくCIAか何かが私の素性を調べようと尾行(素行調査)したのだということです。
私は、日本という島国の一民間人にすら細心の注意を払い、
取材の可否を判断する米国という国に、畏怖とも戦慄とも異なる、
なにか底知れない奥深さを感じずにはいられませんでした。
とにもかくにも、色々な曲折を経ながら何とか念願が叶い、
私の人生を大きく変えることになるNORADの取材許可を勝ち取ったわけです。
しかし、実はそこから実際に取材に行くまで、
そしてさらにその取材が日の目を見るまで、
まだまだ一筋縄ではいかない困難が待ち受けていたのです。


 

今では日本のみならず、
世界を股にかけて取材をしている。
先月は離島取材で
奄美大島まで出向いた。

(2019年5月 奄美大島にて)