天国と地獄
 

2019年6月14日更新

第96回 私が毎日新聞に入社した理由<その3>

 

毎日新聞に入社すると、最初の3週間ほど東京で研修がありました。
新入社員の私は、「いよいよジャーナリズムの中枢で働ける!」と希望に燃えていました。
私の担当は政治部の金(こん)さんという人で、
私を含め15名位の新入社員を受け持ってくれました。
金さんは、右も左もわからぬ私たち新人を一生懸命指導してくれました。
国会などを案内してくださったり、餃子とビールをご馳走になった思い出もあります。
思えば、一番楽しかった頃です。

研修が終わると、いよいよ配属が決まります。私の配属先は大阪でした。
基本的に毎日新聞の写真記者は、東京本社、大阪本社、中部(名古屋)本社、
西部本社(九州のことを西部といいます)などの本社にしかいません。
地方で大事件が起きると、ヘリコプターや列車などで現場に向かうという体制になっています。
そのため普段は地方の支局では、社会部などの記者が自らカメラを持ち写真を撮るのです。

大阪では、「毎日新聞」とはあまり言いません。
「大毎(だいまい)」と言います。「大毎さん」と呼ばれます。
最初は何のことかわかりませんでしたが、大阪毎日の略なのです。
もともと毎日新聞は大阪がベースです。
かつての大阪毎日新聞が東京日日新聞を買収して東京に進出し、
後に毎日新聞社となりました。
今では発行部数が少なく(実売で160万部位)、朝日、読売に比べて半分以下ですが、
かつては日本で一番大きな新聞社でした。
しかも、毎日新聞にとって大阪は重要な拠点であり、私はその大阪本社に配属になったわけです。

私は報道カメラマン(社内での正式名称は「写真記者」といいます)として採用されたので、
写真部の所属です。
当時の大阪写真部は、地獄でした。
よくテレビドラマで「鬼のような先輩にビシビシ鍛えられる」という内容のものがありますが、
まさにあれです。
4年間、徹底的に鍛えられました。
その後、東京に異動になりましたが、東京の写真部は大阪に比べ実に生ぬるいものでした。
大阪の厳しさを100とすると、せいぜい20くらいのものです。

特に若手社員にはとても厳しく、ほとんど休みも取れません。
24時間勤務の場合、午後1時に勤務が終わるのですが、
終業時間になっても帰らせてくれません。
その後、夕方の4時頃までいろいろと雑用を手伝わされるのです。
午後1時以降なら、食事に行くのも自由なはずですが、先輩に許しを得なければなりません。
さすがに土下座まではしませんが、
「食事に行かせていただいてもよろしいでしょうか?」とお伺いを立てると、
「おう。早いな、1時でもう行くのか?」などと言われたものです。
3人くらいの先輩たちに、いじめと言ってもよいほどしごかれました。
私は結構気が強く気にしない方ですが、気の弱い人なら自殺してしまうかもしれません。
当時は今のデジカメと違い、現像液を使ってフィルムを現像していたのですが、
暗室の中で劇薬の現像液を頭から掛けられたり、
小突かれたり、嫌味を言われたりしました。
大阪の人はどういうわけか東京の人間に対して妙に対抗意識があって(関西の皆さん、ごめんなさい)、
東京弁を話しているだけで「なんやそれ。関西弁しゃべれや」などといじめられるのです。

もちろん全員がそうではなく、すごく面倒見の良い先輩もいました。
石川さんという、生え抜きの写真部長もその一人です。
単身赴任の私に対して、
「女房と子供が東京にいてかわいそうだな。もういいよ、早く東京に帰れ」と言ってくれたのです。
それで、私は東京に戻ることができました。
しかし、自分で言うのもなんですが、私は大阪時代のシゴキと厳しさで大きく成長しました。
今の浅井隆があるのは、所属した大阪写真部のおかげです。
その点で、私は本当に運が良い人間だと思います。
次回ももう少し、大阪での話を中心に入社当時の話を続けたいと思います。


 

毎日新聞社の新入社員だった当時から、
幕末や明治維新の歴史には興味があったが、
「株式会社 第二海援隊」という
社名の自分の会社を作るとは
夢にも思っていなかった。

(2019年4月 東京・御茶ノ水にて)