天国と地獄
 

2019年6月5日更新

第95回 私が毎日新聞に入社した理由<その2>

 

毎日新聞に入社した時、私は25歳でした。
20歳の時にヨーロッパに行くために早稲田大学を1年休学し、
そのあと2年留年したためです。
大学は最大8年までいられるのですね。
その7年目に、たまたま毎日新聞社に受かったのです。
私は留年していましたが、いつでも卒業できるようにひとつだけ国際関係論という、
たしか吉村教授の授業だけを残していました。
その先生の授業は、きちんと出席してその先生が書いた教科書を持ってさえいれば
絶対受かる(単位が取れる)と評判だったので、
わざと試験を受けずにキープしておいたのです。

もう吉村教授もお亡くなりになっていると思うので言ってしまいますが、
先生の授業はひどい授業でした。
というのも、ただ座って自分の書いた教科書を読むだけなのです。
当時(今もそうかもしれませんが)、
大学の先生はよく自分で書いた本を教科書として使っていました。
ですから学生は、大学の近くの書店にその先生の書いた本を買いに行くのです。
そこから試験問題を出すので必ず買え、というわけです。
本以外の話は一切しません。
国際関係論といっても、本当に味気ない内容の授業でした。

毎日新聞に無事合格し、“さあ卒業しよう”と思い試験の時、
最後だからと先生の批判を書いたのです。
考えてみればひどい学生ですね。
その試験を受けた直後に私は長崎に遊びに行ってしまったのですが、
帰ってきて学務課に行って調べると、なんと落ちていたのです。
これはまずい!ということで飛んで走って教授室に行き、
「先生!すみません。何とかして下さい」と言ったところ、
「あぁ~君。あと1週間早く来れば何とかできたけど、
もう採点して教務課に出してしまったのでダメだよ」と。
「すみません、先生の批判を書いてしまって」と謝りましたが、
「もったいないことをしたね」と言われ、それで結局早稲田大学中退となりました。

ただ不思議なことに、毎日新聞は学歴不問でした。
良い新聞社です。
これが朝日や読売だったら入社できていなかったと思います。
中退でも学歴不問ということで入社できました。
ただ、言い訳かもしれませんが、早稲田大学は大橋巨泉やタモリなど、
中退した人の方が昔から有名な人がたくさんいるようです。

というわけで、毎日新聞社に入社しました。
毎日新聞というのは皇居の真ん前の竹橋のパレスサイドビルの中にありますが、
このビルは本当に素晴らしい建物です。
もう50年以上前に建てられたビルなのですが、
今でもまったく古くさくない斬新な建物です。
当時としたらとんでもない、未来から来たようなビルでした。
1999年8月、戦後のオフィスビルとしては唯一「モダニズム建築20選」に選出されています。
その理由は、「日本の近代建築を象徴しうるものである」
「装飾で建物を美しく飾るのではなく、
線や平面、円筒などの組み合わせによって
美しいビルができる」ということだそうです。
そんな建物ですから、私もたまたま小学5年か6年の頃に社会科見学で行きました。
そのことは今でも覚えていますが、
当時はまさかそこで仕事をするようになるとは夢にも思っていませんでした。

その毎日新聞社ですが、実は1970年代後半に一度潰れた会社で、
形式上はそれを潰れていないようにしていますが、
再建されたものの給料が新聞社としてはべらぼうに安いのです。
年収でいうと、朝日・読売を100とすると60位でしょうか。

毎日新聞での私の仕事は、報道カメラマンです。記者ではありません。
カメラマンというのは過酷な仕事で、月5~6回24時間勤務がありました。
しかもその勤務中に大事件、
たとえば御巣鷹山のJALの墜落のような大事件があれば、
着の身着のまま取材に飛び出して、
そのままほとんど寝ることもできずに1週間帰ってくることができないようなこともあります。
24時間勤務(午後1時が夕刊の締切なので、
基本勤務は午後1時から次の日の午後1時まで)で、
都内の事件・事故の時も何かあれば24時間寝ることができません。
しかも、事件が長引けば24時間を過ぎても帰ることもできません。

特に大阪にいたときは先輩が厳しくて、
こんな過酷な勤務をしながら
休みは本来週休2日あったのに週1日しか取らせてくれませんでした。
もう少し歳を取れば休みを取れたのでしょうが、若手には無理でした。
それくらい厳しい勤務をしたにも関わらず、
私が38歳で辞めた時の年収は600万円でした。
これで家族4人食べさせていました。

でも、私は全然恨んではいません。
なぜかと言うと、(今は随分変わってしまったようですが)すごく社風が良い会社だったからです。
たとえば、自分で本を出したい場合などは、ただ申請すればいいだけでした。
今は厳しくなったようですが、当時は何をやってもよかったのです。
他社で本を出そうがよそで講演会をやろうが、とにかく申請だけすればいいのです。
朝日や読売の人たちとも色々と話しましたが、
私は死んでも読売には行きたくないと思ったものです。
朝日もひどいものでした。
ある派閥に入らなければひとにあらず、というような社風だそうです。
それに朝日も読売も新聞社なのに、社内での言論の自由がないようだというのです。
しかも記者は一生ドサ回り、地方回りさせられます。
その点、毎日は自由で、何をしても
「あいつ、何言ってるんだ?変わってるな」と言われる程度でした。

給料は安く、仕事はきつかったけれど、
今の私が独立してやってこられたのも毎日新聞の報道カメラマンだったからこそです。
自由な気風の中で勉強もでき、育ててもらったと感謝しています。


 

今では自分の会社を何社か経営しているが、
私にも新入社員の頃があり
人並みの苦労をしてきた。
毎日新聞社に入社したことが、
私のその後の人生を大きく左右したと言える。

(2019年4月 東京・御茶ノ水にて)