天国と地獄
 

2019年5月7日更新

第92回 生まれ育った時代と家が私を作った

 

今回は、私の育った環境について皆さんにお話ししたいと思います。
皆さんは『ALWAYS三丁目の夕日』という映画をご存知でしょうか。
戦前戦後のどさくさの頃ではなく、昭和30年代を題材にして続編を含め
全三作の大人気映画です。
この映画をご覧頂いた方には、
「まさにそのような時代だった」とお伝えすればイメージを持って頂きやすいと思います。

私は、太平洋戦争が終わって9年目の昭和29年の12月に生まれ、
30年代を子供時代として育ちました。
物心付くのが3歳頃だとすれば、ちょうど3歳の頃に団地というものが日本全国に出来始め、
その最初の大規模団地のひとつが千葉県の柏市で、
現在の千代田線の駅名では南柏にあたるのでしょうか。
そこからバスで10分か15分のところにある「光ヶ丘団地」に住んでいました。
その頃の団地は人気が高く、応募が殺到していたのですが、
たまたま父親がくじ運が強くて、抽選で当たったのでした。
ですから、私は団地っ子の第一世代で、自分ではよく理解していなかったのですが、
当時としては一番モダンな生活をしていたようです。

さて、当時の団地は、それ自体は都会的でしたが、
周りの環境は今のような都会の団地ではありませんでした。
特に私が引っ越した団地の周りは、全て林でした。
そしてその先には田んぼがあり、トトロを思い起こさせるような外見の農家がありました。
小学校1年生か2年生の頃、その田んぼに降りて行ってお百姓さんに怒られたり、
野原を駆け回りとんぼを捕まえたりしたことを今でも覚えています。
今はもう少なくなってしまいましたが、オニヤンマやギンヤンマが飛び交っていました。
オニヤンマは飛ぶのが早いので、そう簡単には捕まえることができません。
子供にはまず無理で、それを近所のおじさんが
長い竹の先についた白いネットで捕まえるのを見たりしていました。
私は、小学校3年生の時に板橋に引っ越したのですが、
それまでの幼年期はこのような田舎の田園地帯で過ごし、
今から思うと良い子供時代を送れたなと思います。

今の子供は、特に都会に住んでいると、道は全て舗装され
車がバンバン走っていますから、公園以外では遊べない環境です。
遊ぶ時はインターネットやゲームですし、学校が終わればまずは塾通いと、
私の幼年期とは対照的です。
私は、田舎の自然の中でガキ大将たちと一緒に遊び回っていました。
マムシがたまに出てきたりもしましたが、それも含めて私としては大切な良い思い出です。
今も自然が大好きなのは、そこから来ているのだなと思います。

それが、小学校3年生の時に板橋の、今で言えば埼京線、
当時は赤羽線で「十条」の駅から歩いて20分程の国鉄の団地に移りました。
自然あふれる緑の中からコンクリートのグレーの世界へ、という感じです。
そこで人生が、大きく変わってしまいました。

ただ、一つ全く変わらなかったことがあります。
それは、私の家が貧乏だったということです。
私が子供の頃は、時代も豊かではありませんでしたが、
それを差し引いても私の家は本当に貧乏でした。
その頃のことが、今でも思い出の中にたくさんあります。
それは、次回にお話しさせて頂きます。

今年はNHKの大河ドラマで「いだてん」が放映されています。
日本が初めて参加したスウェーデン、ストックホルムでのオリンピックに出場した二人の選手、
金栗四三と三島弥彦が登場します。
三島家は日本を代表する超お大金持ちで、
屋敷に乃木大将や伊藤博文が遊びに来るような名家でした。
それに対して金栗家は西南戦争の激戦地“田原坂”のすぐ近くの造り酒屋が潰れ、
農家をやっている普通の庶民の家です。
私の家は、三島家と金栗家のどちらかと言われれば金栗家、
しかもそれよりも少し貧しいくらいの家に育ったのです。

ですから、私は「質素倹約」を普段から心がけています。
一つ例を挙げると、私は文房具店で買ったメモ用紙を一切使いません。
一度書類で使ったコピー用紙の裏紙を雑用紙として、
そこにメモをびっしり書きます。
たまに、本の原稿執筆や新事業の概要をそこにまとめることもあります。
会社経営などをしていると、普段は運転手付きの車で通勤していると皆さん思うかもしれませんが、
そんなことはありません。いつも電車通勤です。
小田急線と千代田線を使って歩いて出社しています。
それほどまでに、私は質素倹約に努めているのです。

今回は私の生い立ちから人となりまでを少しお伝えしましたが、
これからもこのコラムでは私自身のこともいろいろお話ししたいと思います。
ぜひ、ご期待ください。


  午後のひととき、お気に入りのカフェでリラックス。
シャンパンも好きだが甘いものにも目がない。

(2019年4月 千代田区神保町にて)