前々回から「人間の根源」というテーマで私なりに話をしています。
今回はその3回目です。
私は小学校三年の頃に千葉県柏市から東京都板橋区の団地に引っ越し、
中学は板橋区立の加賀中学校という中学校に通っていました。
まさに、あの「加賀百万石」の加賀です。
しかし、なぜ板橋に加賀の名前があるのかと不思議に思われるかもしれません。
実は、板橋には江戸時代に加賀藩の屋敷があったのです。
そのために加賀の地名が残ったのですが、
この中学校では校章も加賀前田家の家紋である「梅鉢紋」が使われていました。
ごく普通の中学校でしたが、当時は全国的にどこの中学校も荒れていて、
ご多分に漏れずこの学校でも中学2~3年になると結構悪い生徒が現れたりもしました。
うっすらとした記憶ですが、そうした「血気盛んな」子たちを相手に学級会議か何かでもめて、
私ひとりだけが反対の意見で喧嘩になった事を覚えています。
当時から正しいと信じることに対しては、妥協しなかったのだと思います。
その後、自分で言うのも何なのですが、私はたまたま多少勉強ができたので、
早稲田大学高等学院という、早稲田大学の付属高校に進学しました。
早稲田中学校、早稲田高等学校という学校もありますが、
こちらは本当の付属高校ではなく、
当時、早稲田大学に全員入れる学校は早稲田大学高等学院だけでした。
この学校は、理工系の生徒を育てる学校でした。
私の父親は国鉄で技術系の仕事、特に通信、信号関係の仕事をしていましたので、
私を早稲田の理工に入れたかったのだと思います。
私も数学が得意だったので、早稲田の理工に行こうという気持ちでいました。
しかし高校2年の時、私の考えが大きく変わる出来事が訪れました。
自転車でよく行っていた池袋東口駅前にある小さな書店で、
たまたま公害についての本を手にしたのです。
そのあまりに凄まじい内容に大きなショックを受けた私は、
そこから公害問題にのめり込み、関連するさまざまな本を読み漁りました。
このまま行ったら人類は公害を垂れ流し、やがて地球を滅ぼしてしまう。
もし自分が理工学部に進んだら、恐らくいずれ工場や研究所に勤めるようになり、
そして汚染物質を撒き散らす側になるのではないか、そう考えました。
そこで、公害を減らすために何が必要かを考え、
それを成すために政治家を志すようになったのです。
「政治家になって公害を撲滅すべく日本の政治を変えよう」
──当時の私は真剣にそう思い、
早稲田の政経学部の政治学科に行くことを決心しました。
早稲田の高等学院はちょっと変わった学校で、
先ほども述べましたように校内の一般的な試験を受ければ
全員がそのまま早稲田の理工学部に入れました。
普通の生徒は当然その試験を受けるわけですが、
私は「理工学部に進学しない」と決めていたため、
わざとその試験を受けませんでした。
しかも、両親には無断でです。
親、特に父親に事前に相談すれば絶対に反対されると思ったからです。
あとになって父親に話したわけですが、
あの時の父親の落胆ぶりを今でも忘れられません。
とても悪いことをしてしまった、一生親孝行しなければならない、という気持ちになりました。
その時の父親の様子は、いま考えても本当にかわいそうなものでした。
さて、両親にも打ち明けたことで、晴れて早稲田の政経に行けるかと言えば、
そう簡単なものではありません。
さすがに他校生と同じように早稲田大学の一般入試を受ける必要はないのですが、
理工系を育てる早稲田大学高等学院から文系に進むにはかなり厳しい試験があり、
特に政経の政治に入るのは最難関の一つでした。
高等学院からでもほとんど行けないと言われていたのですが、
私は昼も夜もなくがむしゃらに勉強し、
ようやく早稲田の政経の政治に入ることができました。
そんな経緯で入学した早稲田の政治ですから、
私は大学1年の時から2年の時が人生で一番幸せな時でした。
これでさらに勉強して政治家になり、
やがては日本の政治を変えてやろうと志に燃えていました。
ただ、その頃の私は周囲の政経の学生と比べて少し変わった学生でした。
というのも、かねてから関心があったのは政治や経済、
外交といった政経の本流ではなく、公害から始まった環境問題だったからです。
当時、地球環境を考える言葉として「宇宙船地球号」というものがありました。
「地球というのは小さな宇宙船であり、限りある世界であるから、
その宇宙船を汚してしまったらもう生物はみな生きていけなくなる。
人間が無茶なことをすれば地球環境は簡単に壊れてしまう」
──微妙なバランスの上で地球は成り立っているという考え方を表わしたものですが、
その考えにおおいに共鳴した私は、
「宇宙船地球号を守る会」という会を作り、様々な活動を始めたのです。
この、高校から大学進学の進路変更、
特に高校時代に公害の本を読んで環境問題に目覚め、
早稲田の理工をやめて政治を志したという選択は、
振り返って見ると私のその後の人生において
とても「根源的」といえる重要なものだったと思います。
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