オーストリア軍は、オスマントルコに包囲されてウィーンの城内に立て籠もっていたのですが、
その間食べ物が無くて飢えていました。
そこへトルコ軍が毎朝食事を煮炊きするおいしそうな匂いが漂ってきて、
オーストリア兵は鼻をヒクヒク鳴らしていました。
どうやらコーヒーを沸かす匂いがしたらしいのですが、
当時ウィーンの人々はまだコーヒーを知らなかったので、
「このいい匂いは何だろう?」と不思議に思っていました。
トルコ軍が帰った後、トルコ軍の台所だった所を見てみたらコーヒー豆があり、
そこからオーストリアにコーヒー豆が伝わったのです。
ウィンナーコーヒー(ウィーン風のコーヒー)は今や世界的に有名ですけれど、
実は、オスマントルコ軍の持ち込んだコーヒーから始まったのです。
そして今、ワルシャワは「小さなウィーン」と呼ばれるほど、
カフェ文化が広まった街になっています。
オーストリアとポーランドは良くも悪くも関係が深いのですが、
念願のポーランドに来て、想像していた以上に文化、芸術、科学について知識を得ることになりました。
私は毎年、ファンの方を連れてヨーロッパツアーを行なっており、
今回の訪問国がポーランドで、「ワルシャワ」と「クラクフ」という南の街を廻っています。
現在、ワルシャワに居るのですが、ワルシャワは何と言っても「ショパン」で有名な街です。
ショパンはワルシャワの郊外で生まれ、若い時からその才能を発揮し、
11歳でロシア皇帝アレクサンドル1世の前で演奏したそうですが、
ワルシャワ音楽院を卒業後ウィーン経由でパリに行って、
それっきり一生、ワルシャワには戻れませんでした。
というのも、当時ロシア帝国がポーランドを支配しており、
愛国主義者のショパンはその活動からもロシアに無断で帰国できなかったのです。
ですから、いつも祖国の事を思いながらあのピアノ曲を作っていたと言われています。
ショパンは亡くなる直前、自分の遺体をポーランドに持ち帰って欲しいと望みましたが、
ロシアの総督が居るので無理だろうと考えていました。
そこでショパンのお姉さんが「せめて心臓だけでも祖国に持ち帰ろう」と
アルコール瓶にショパンの心臓を入れて、必死の思いでポーランドまで持ち帰って来たのです。
現在でもワルシャワの中心部の大通りに面した「聖十字架教会」の中に、
ショパンの心臓が入った柱があります。その写真を載せておきます。
ショパンのピアノ曲は本当に素晴らしいものが多いのですが、
彼は激動の時代の中で体制的な影響を受けていたということがよくわかりました。
美しいピアノ曲の旋律とは裏腹に、
ショパンの人生は病と時代背景のために、つらいものだったのかもしれません。 |