さて、前回掲載しました40年周期(80年周期)についてですが、 
      1905年から45年の「下降周期」に、果たして何があったのでしょうか。 
       
      順を追って見ていきましょう。 
      まず、1923年(大正12年)に関東大震災が起き、首都の半分が燃えてしまいました。 
      それがいかにすごいことか、皆さんはなかなか想像がつかないかもしれません。 
      正直、私もなかなか想像がつきません。 
      私は1954年(昭和29年)生まれで、物心がついて 
      物事をちゃんと理解できるようになったのは1960年くらいでしょうか。 
      ちょうど戦後の復興が始まり高度経済成長が本格化する頃でした。 
      そのため私は、日本の本当の悲惨な姿というものを肌身には経験していません。 
       
      小学校1年か2年の頃、日本橋のデパートに連れて行ってもらったことがあるのですが、 
      その頃の東京にはもちろん「焼け野原」なんてものはありませんでした。 
      ただ、小学生の頃に東京の板橋区に3~4年住んでいた時期があるのですが、 
      辛うじてそこには「焼け野原」の片鱗がありました。 
      美術の時間に写生をしに行った兵器廠(へいきしょう)という場所です。 
      旧帝国陸軍の武器を蓄えていた赤レンガの建物で、空爆されて物が焼け落ち、 
      そのまま放置されていた風景を覚えています。 
      しかし、それでもその程度です。 
       
      私でさえその程度の記憶しかないのですが、 
      よく考えてみると、実は日本の首都である東京は、 
      明治維新から現在に至るまでに二度も燃えているのです。 
      一度目は関東大震災、二度目は太平洋戦争末期の昭和20年3月の東京大空襲の時です。 
      いずれも、東京の半分くらいが燃え落ちています。 
       
      今でこそビルが立ち並び、本当に平和で安定している日本の首都の風景ですが、 
      実際にはウクライナ以上の凄惨な破壊が二度もあったわけで、 
      私たちはそれを忘れてはいけないと思うのです。 
      また次に、何があってもおかしくないと。 
       
      戦後、あまりにも良い時代が続きすぎたので、私たちは危機意識を忘れてしまっています。 
      ものが食えない時代が来るなど、ほとんどの日本人は想像したことすらないでしょう。 
      しかし世界を見渡せば、たくさんの飢えている人がいるのです。 
      ウクライナのように他国に侵攻された国もあります。 
      日本だって、近隣に目を向ければ、台湾はいつ中国に侵略されてもおかしくない状態です。 
       
      日本の国力がどんどん衰えてきている中で、 
      私はそろそろ“ガラガラポン”の時期が迫っているのではないかと思うのです。 
      つまり、平和も繁栄も飽食も失われ、すべてを清算してゼロからやり直す時代の到来です。 
       
      ご存じの方もいらっしゃるかもしれませんが、 
      日本は一度その「ガラガラポン」を経験しています。 
      そう、幕末です。 
      前回の40年周期の図を見ながら読んでほしいのですが、 
      「明治維新」では、すごく新しくて良いことが起きたと思われています。 
      しかし、その考えは実は間違っています。 
      「維新」とはそんな良いものではなく、当時の明治政府が自分たちのやったこと(革命)が 
      正しかったということを示したかったために、 
      そういう言葉を使いイメージを作り上げて行ったのです。 
       
      その証拠に、明治10年代の小説などには(ほとんどの人が読んだことがないと思いますが)、 
      明治新政府への移行のことを「維新」とは書いていません。 
      庶民の小説では、その様子を「瓦解(がかい)」と表現していたのです。  
       
      「瓦解(がかい)」とは、全てが崩壊するという意味です。 
      幕府が崩壊し、特に江戸はひどい状態でした。 
      江戸という都市は、当時全国の中でも非常に特殊な町でした。 
      参勤交代がありましたので、大名の奥さんや子供は必ず人質として江戸にいたのです。 
      そして、大名本人は藩の財政をやりくりし、大勢の家臣を引き連れて、 
      一年おきに国を行ったり来たりしなければなりませんでした。 
       
      江戸幕府は、このように各藩にお金を使わせて藩の力を削ぎ、 
      自らの権勢を維持していたのです。 
      こうした事情から、江戸にはたくさんの武士がいました。 
      人口の3分の1から半分くらいが武士だったと言われています。 
      彼らは労働や生産を行なうのではなく、基本的にひたすら消費する人々でした。 
      そしてその消費をまかなうために、100万から200万人の人が江戸にいたわけです。 
       
      しかし、それが明治維新によって、なくなってしまいました。 
      国の制度、法律、権力構造、経済から服装や文化風俗に至るまで、 
      およそ思いつく全てのものが変わり、さらに通貨も変わりました。 
      つまり、一度ゼロの状態になってしまい、そこから再スタートをしたわけです。  
       
      維新を主導した薩摩、長州、土佐そして肥前 
      (今でいう鹿児島県、山口県、高知県、佐賀県)の藩主たちは、 
      その後明治政府のお偉いさんになり、非常にいい給料をもらったりしたのですが、 
      それ以外の武士たちは悲惨でした。 
       
      「武士」というものがなくなり、廃藩置県により藩もなくなってしまいます。 
      殿様も「貴族」という形になりましたが、 
      最後には秩禄処分というものを実施して武士たちの給料すらなくしてしまいます。 
      武士たちは、階級も給料も失ってしまいました。 
       
      また、「国富」も失われました。ご存じの方も多いと思いますが、 
      江戸時代には日本国内でも金と銀が通貨に用いられ、 
      金銀の交換比率も定められていました。 
      しかし、それは海外とは交換比率が違ったものでした。 
      開国後にこのことに目を付けた諸外国は、海外から銀を持ってきて 
      日本で金に換えて海外へ持って行くことで莫大な利益を手にしました。 
      しかしその逆に、日本からは大量の金が持ち出されてしまいました。 
      国富が流失してしまったのです。  
         
    <以下、次号に続く>   |