天国と地獄
 

2021年12月24日更新

第187回 年末年始にあたって

―困難な中にあっても気概を持って生き抜く

皆さん、こんにちは。今回は、年末号として内容を考えてみました。
日本人にとって年越し、そしてお正月というものは、やはり特別なものがありますね。
しかし海外、特に白人国家であるイギリスやアメリカ、ニュージーランドなどでは、
年末のイベントと言えばクリスマスが中心になっています。
お休みも12月中の「クリスマス休暇」がメインになっており、
正月も元旦くらいは休むかもしれませんが、2日以降はほとんど休まず、
「年が変わったね」くらいの雰囲気なのです。

また、同じ日本でも沖縄は少し異なり、
1月末から2月頭にかけての「旧正月」が中心になっています。
中国に似ている感じですね。
国や地域によって年末年始のとらえ方は様々で、その過ごし方についても様々というわけです。

私は毎年お正月になると、「去年はこうだったな」「今年はどんな年になるのかな?」
「今年はこんなことをしよう」などと思いを巡らせます。
おそらく、同じようにされているという方は存外多いのではないでしょうか。

最近はほとんど見ませんが、以前はNHKが放送する「ゆく年くる年」で年越しをしていました。
全国のいろんなお寺や名勝に人々が参詣したり訪ねたりする映像を見ながら、
「今年はどんな年になるのだろう」などと思いを巡らせたものです。
そして、昔は多くの人々がわざわざ日付が変わる深夜に「初詣」に行っていたわけですが、
最近ではそういう人もだいぶ少なくなったようですね。

さて、今回は2022年が皆さんにとって本当に良い年になるよう祈願したいところなのですが、
現実問題である、現在もまだ収束には遠いコロナ・ウイルスの流行について
少しお話しをしたいと思います。

今回のコロナウイルスは、人によって影響の度合いが違います。
実際に感染してしまった人は本当に大変なことですし、
回復しても後遺症が残る人も多いそうです。
中でも一番の問題点は、“記憶障害”だそうです。
ひどい人になると、自分の乗るべき駅がわからなくなってしまうそうなのです。
まだ30代とか40代の方でもそうなるというのです。
ですから会社に行くこともままならず、
最悪の場合、失業してしまうということにもなるのですが、
実はそういう人が結構いると言われています。

ワクチンを打っていれば重症化はしづらいと言われていますが、
それでも100%安全ではありません。
罹ってしまうと、後遺症に悩まされたり仕事を失ったりする危険すらある、
非常にやっかいな病気なのです。
自分でなくとも、家族がかかっても大変なことになります。
やはりコロナというのは、罹らないに越したことはない病です。

また、たとえご自身やご家族が感染しなかったとしてもコロナの蔓延は、
日々の生活の糧を得て生きていく為に必要な仕事に甚大な影響を与えます。
特に飲食店や宿泊業、人を運ぶ飛行機や新幹線、タクシーなどの旅客業は深刻です。

私も、羽田までタクシーで行く時には必ず運転手さんに
「運転手さん、最近どうですか? やはり、厳しいですか?」と聞くようにしています。
大抵の運転手さんは正直に答えてくれます。その多くは散々といった様子で、
「(売上がコロナ前までの)半分行かない」という答えなのですが、
半分ぐらいならまだ良い方で、「コロナ前が100だとすると50どころか30とか40で、
一番ひどかった緊急事態宣言中は20くらいまで下がり、全然食べて行けなかった」
という話すら珍しくありません。
収入が8割減にもなれば、食べていけなくなるのは当然でしょう。
それほどに厳しい状況なのです。

収入が激減してしまったため、精神的に追い込まれている人もかなりいると思います。
特に、緊急事態宣言中の音楽関係やイベント関係は壊滅的でした。
当時は音楽を演奏する場もなく、事実上収入の道を断たれた音楽関係の人は、
相当大変だったと聞いています。

テレビによく出ているような超有名人になれば関係ないでしょうが、
音楽業界はそこそこ売れている人ですら音楽だけで食べて行くのは容易ではなく、
もともとそれだけでは食べて行けていませんでした。
飲食店でアルバイトをしたりなど、音楽以外の稼ぎでやっと食べていたわけです。

それがコロナの影響で、その稼ぎさえもなくなってしまったのです。
他に手に職がなければ食べて行けず、
ましてや自分の親しい人にも会えないという状況では、
精神的に追い込まれてしまうのも致し方ないことでしょう。

それでも、日本はまだ良い方かもしれません。
ニュージーランドなどはつい最近までロックダウンしていましたし、
警戒レベルは4段階中レベル2です
(11月末現在。国境管理も段階的な緩和が進められている)。
最高レベルではないにも関わらず、基本的に人に会うことができませんでした。
生活にどうしても必要な最低限のものを買うため、
一番近くのスーパーに行くことだけは許されている、という状況です。
そして、永住権を持っている日本人が日本からニュージーランドに戻った際には、
7日間政府が指定するホテルに拘束され、
しかもそのホテルでは「こんなもの食べたら体を悪くするのでは!?」というような、
刑務所で出てくるようなひどい食事が出されるそうです。
さらには、違反したり脱走したりすると“軍隊”が出動し、懲役刑になってしまうのです。
それと比べると、日本は随分ゆるやかですね。
コロナ対策として良いか悪いかは議論が分かれますが、
比較的自由に行動することが許されているのですから。

今日、このコラムを読んで下さっている方の中にも、
コロナで本当に大変な目に遭った方もいらっしゃると思います。
ただ、私はこのような困難な時だからこそ、私たち本来の力が試される時だと思うのです。
こういう時こそ、カラ元気を出してでも明るく、たくましく生きなければいけません。
今、この状況だけを見ていると、自分たちは不幸だと思うことがあるかもしれません。
しかし、歴史上にはもっともっと大変な目に遭った人が、
この100倍も1000倍も、それ以上にひどい目に遭った人がたくさんいるのです。

たとえば太平洋戦争の時、軍上層部のめちゃくちゃな作戦のもと、
南方の島やフィリピンなどに行かされて玉砕した人がたくさんいます。
もちろん戦争ですから、死ぬことは覚悟の上で出征するわけです。
戦地に赴き、アメリカ軍と戦って死んだのならまだ兵隊としては名誉かもしれません。
しかし、現実にはそうでない死に方をした人の方が多いのです。

ご存知の方もいると思いますが、実は太平洋戦争の時の記録を見ると、
戦闘で死んだ人は3分の1ほどで、あとの3分の2は食べる物がなく餓死したり、
病気で死んでしまったりしているのです。
もう、戦う以前の問題だったのです。
あの戦争は、それ位までにひどい戦争だったのです。
日本軍は、補給についてきちんと考えていなかったのですね。
反対にアメリカ軍は、補給体制を万全にして戦争に臨んでいました。
そして、もし自分たちの仲間が撃たれて大怪我をしたら、必ず助け出したのです。
たった一人を助けるために、何人もの人々で助けるのです。
人命を守ることを徹底していたわけです。
残念ながら、日本は違いました。
「戦えなくなれば、そこで死ね」という感じだったのです。
援護も救助もしない、味方を守ろうともしないのです。

その象徴的なものが「ゼロ戦」でしょう。
ゼロ戦は、当時非常に優秀な飛行機でした。
アメリカ軍は、戦争初期においてゼロ戦があまりにも強いので、
「1機対1機で戦うな。必ず2機対1機で戦え」と指令を出した程です。
彼らは、本当に怖がっていたようです。
ちなみに英語では、「ゼロ・ファイター」というのですが、
日本側は「零戦(れいせん)」と呼んでいました。
「ゼロ戦」という呼称は、戦後アメリカ軍が入ってきて
「ゼロ」という英語を使ったことで一般的になったものです。

このように驚異的な強さを誇るゼロ戦に対抗するため、
アメリカ軍は何とか無傷に近いゼロ戦を捕獲してその構造を調べ、弱点を研究しようとしました。
ある時、アリューシャン列島での戦闘でゼロ戦をうまく追尾したアメリカ軍の戦闘機が、
なるべく破壊しないように落とし、不時着したゼロ戦を本土に持ち帰りました。
それを徹底して研究した結果、ついにゼロ戦の弱点を見つけることができたのです。

そしてその研究から、「グラマン」(グラマンF6Fヘルキャット)という新型機を開発しました。
「グラマン」の登場によって、戦線の状況は一変しました。
グラマンの強さの秘訣は、徹底した装甲を装備したことです。
高い技量を持つ貴重なパイロットを守るためのものですが、
アメリカの物資が豊富だったゆえにできたことともいえるでしょう。
空中戦では、だいたい後ろから攻撃されますので、
後ろ側や側面には特に堅牢な鉄板(防弾板)を入れたのです。
そうすると機体は重くなり、運動性能は悪くなるのですが、
その分、エンジンを強くしてゼロ戦に対抗できるようにしたのです。

日本側のゼロ戦は、実はパイロットを守るための防護機能がほとんどありませんでした。
紙のような鉄板でしか覆われておらず、
後ろから機銃で打たれたらそのまま貫通してパイロットは死んでしまうのです。
攻撃能力は高いものの、防御はしていないというのがゼロ戦の設計思想だったわけです。
つまり、日本側は兵隊を守ろうという精神がなかったということです。
旧日本軍とは、そういう軍隊だったのです。
そのために、悲惨な死を遂げた兵隊さんがたくさんいました。

以前のこのコラムでお話ししたかもしれませんが、
NHKの朝ドラの主人公にもなった漫画家の水木しげるさんは、
太平洋戦争で壮絶な経験をしています。
水木さんと言えば、「ゲゲゲの鬼太郎」がまず思い浮かびますが、
実は、生還者がほとんどいないと言われた南方戦線の数少ない生き残りの一人なのです。

正確な場所は忘れましたが、彼の所属した部隊は南方の島で圧倒的なアメリカ軍と戦います。
絶望的な状況の中、彼の現地の上司であった児玉中隊長は非常に人情味のある人間で、
「ここで死ぬな! ここで死んだって意味がない」「なるべく生き残れ」と言ってくれたのです。
他のほとんどの部隊は「ここで死んで祖国に奉じろ」と言われほぼ玉砕してしまったのですが、
彼の部隊だけは少数ではありましたが生き残ることができたのです。

ただ、このとき本土側には「全員玉砕した」、つまり全員死んだと伝わってしまい、
大本営参謀本部も「おお! 全員玉砕したか。しかし、よくやった」と受け止め、
さらに新聞にも載ってしまったのです。
ところが、あとでその部隊だけある程度生き残ったことが判明すると、
参謀本部が慌てて「生き残っていては困る」と言ったのです。
普通は生き残ったら喜んで、「お前らだけでも帰ってこい!」と言うはずです。
ところが、「そんな、今さら生き残ったなんて報道を出せない」と。
信じられないですよね。
そして、参謀が日本からわざわざ現地まで行き、現地のその司令官に命令したのです。
「もう一回突撃して、全員死ね!」と。

これは実話なのです。
その(突撃の)前の日、皆で少しのお酒を飲み、
「明日は全員死ぬんだ」と最後のお別れをするのです。
もちろん、その参謀も一緒に突撃して死んでくれると思っていたのです。
するとその参謀は、「悪いが俺は帰る」「報告のためだ」
などと訳のわからぬことを言い、帰ってしまったのです。
皆は呆然としましたが、それでも仕方がないという事で
皆でよく歌った歌を歌いながら突撃して行きました。
それで、ほとんど死んでしまったのです。

水木しげるさんは、たまたま落ちて来た大砲の玉か何かで片腕が吹き飛んでしまうのですが、
そのまま倒れて気絶していたところを助けられ、戦後、生き残って帰ってくるのです。

そんな当時の日本兵の状況に比べたら、私たちが今立ち向かっているコロナ禍は、
こう言ってはなんですが“気楽なピクニック”のようなものです。
それくらいに思って強く生きるべきですし、
私たち以上に歴史上には大変な目に遭った人がたくさんいるのが事実です。

考えてみれば、人生にはコロナに限らずいろいろな苦しいこと、辛いこと、
大変なことがたくさんあるものです。
天下を取った、かの徳川家康でさえ
「人生とは、重い荷物を持って長い坂をずっと登っていくようなものだ」
という遺訓を残しています。
また、名前は忘れましたが確かヨーロッパの哲学者だったと思いますが、
こういうことを言っています。
「この世の中には、自分の思い通りになることはほとんどなく、
ほとんどが自分の希望通りにならないものだ。
それを何とか頑張って折り合いをつけて生きて行く。これが人生だ」と。

コロナも、結局は私たちが人生で巡り合ういくつかの困難の一つです。
こんな出来事は滅多にないことですが、
それでも起きてしまったからにはその状況を生き抜くしかありません。

しかし、このつらい状況も永遠ではないでしょう。
私の予想では来年の秋頃、
つまり2022年の9月か10月頃には、全てが収束すると思っています。
そこまでは辛抱しつつ、元気を振り絞って、何とかコロナ禍を生き延びましょう。

それともうひとつ。
私は歴史が大好きなのですが、
歴史を勉強することは絶対に人生を生き抜く上で必要なことだと信じています。
今の若い人にも、ぜひとも歴史に関するものをたくさん読みなさい、と言いたいのです。
歴史には、数々の素晴らしい教訓が詰まっているからです。
人生には、三度の「まさか」があると言われていますが、
自分が本当に困った時、もうこれで人生終わったかな、などと思った時には、
歴史上の教訓が必ず役に立つはずです。

実際に、私もそうした経験を3回はしています。
そのうちの一つでは、本当に死にそこないました。
毎日新聞社時代、入社1年目に大阪で初めて乗った取材用の
小型飛行機(6人乗り位)のエンジンが爆発し、きりもみ状態で落ちて行ったのです。
あわや墜落! というところで何とか立て直して助かったのですが、
私はこう見えて、そういう場合に変に度胸があるようです。
同乗していたデスクは、普段は偉そうにものを言っているくせに
その時はギャーギャー騒いで、「死にたくねぇ~」と泣きわめいていました。
私は、「もう、こうなったらしょうがねーな。どうやって、死ぬのかな」と
冷静に考えていたことを覚えています。

そこで、最後にもう一つ歴史上の話をしましょう。
戦国時代に山中幸盛(通称、鹿介)という武将がいました。
島根県に尼子氏という大きな戦国大名がいて、
結局、最後には毛利に滅ぼされてしまうのですが、彼はその尼子氏の家臣でした。

滅ぼされた後もお家再興を願い、いろいろと尽力するのです。
その彼が、私が今まで私が聞いた言葉の中で一番すごいことを言っているのです。
なにせ、毛利氏に潰されたのですから、
彼のお家再興の過程には様々な困難が降りかかってくるのですが、
それでもなお、神仏に祈る際には
「我にもっとすごい苦労、あらゆる艱難辛苦を与えよ!」と唱えたと言われています。
普通は「神様、今の困難をもう少し楽にして下さい」と、
少しでも楽になるよう神頼みしますよね。彼は違ったのです。
お家再興の一大事を成し遂げるためには、
望んで苦しいことにも立ち向かうべきだと言い、
「我にもっとすさまじい艱難辛苦を与えよ」と言い放ったのです。

歴史上には、こんな人がいたのです。
すごいですよね。
やはり、戦国時代や幕末のようなとんでもない動乱の時代には、
そうした傑物が現れるものなのです。
私たちも「コロナよりもっとすごい苦労でも、はねつけて見せる!」という
気概を持って生きたいものです。

かの坂本龍馬も、暗殺されるのを覚悟の上で新しい日本のために奔走し、
そして本当に暗殺されてしまいました。
しかし、そういう人たちがいたからこそ、今の日本があるわけです。
それを思うと、やはり自分のことだけ考えず、世の中の広い視野に立って、
どうやって生き残り、その後何をすべきかということを
お互いに考えて行くことができたなら幸いです。

そして、2022年が皆さまにとって良い年でありますことを祈って、
この年末年始号を締めくくりたいと思います。

コロナ禍で大変な状況であることは間違いないが、
それでも太平洋戦争で南方の島々で戦った兵隊さんや
命を脅かされながらも奔走した幕末の志士たちに比べたら、
現状なんてピクニックのように気楽なものだ。
どんな苦労でも逆境でも跳ね返す気概を持って、
来年も生きて行きたいものだ。
     (2021年12月 東京・御茶ノ水にて)